申命記15章10~15節、 コリントの信徒への手紙二9章6~15節
「惜しむことなき奉仕」田口博之牧師
今日からアドベント、待降節に入ります。昨日も、教会のクリスマス準備のメンバーのうち数名が教会に来て、リース、クランツ、ツリーを準備してくださいました。週の初めの全国教会婦人会連合の研修会にご奉仕くださった方もおられ、お疲れのことだったと思います。ツリーの飾りつけは、はこぶね学童の子どもたちがしてくれました。
主の来臨を待ち望む季節となりましたが、今日の礼拝は、コリントの信徒への手紙二を続けて読むこととしました。これまでも話してきたように、コリント人への第二の手紙は 、8章から9章にかけて、エルサレムの信徒たちへの募金活動について、集中的に語っています。
これだけのスペースを取って述べているのですから、重要なことを語っていることは間違いありません。とは言っても、お金の話です。献金の勧めです。説教も今日で5回目となりますので、いい加減もういい、と思われたとしても仕方ありません。聞く方もそうでしょうが、語るわたし自身にとっても鍛錬となっています。でも、確かにお金の話ではあるのですが、パウロは信仰者の生き方の話をしてきました。
実はパウロは、コリントの信徒への手紙一の16章でも、エルサレム教会の信徒たちへの募金を呼び掛けていました。323頁、第一コリント16章1節から4節までを朗読します。
「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。」
ここを読むと、パウロがこの募金を最初に呼びかけたのは、ガラテヤの諸教会だったことが分かります。パウロが、第一次、第二次、第三次伝道旅行のすべて回ったのは、ガラテヤの諸教会でした。ガラテヤでは、死と隣り合わせの迫害にも遭いましたが、パウロを支えた人も多かったと思います。この募金活動を、マケドニア州の諸教会やコリントの教会に広げていったのです。
しかし、コリント教会においては、パウロとの信頼関係が失われていく中で、第一の手紙で呼び掛けられた募金活動も中断していました。この募金活動の再開を促しているのが、第二の手紙の8章と9章です。
ちなみに研究者によれば、コリントの信徒への手紙二というのは、四つまたは五つの手紙の集合体だと言われています。パウロはコリントには行くと言いながら、実際にはほとんど行けなかったので、その分たくさんの手紙を書いたのです。原典にもっとも忠実とされる岩波訳の聖書、2年前に改訂新版が発行されていますが、これによれば五つの手紙の集合体と考えられていて、8章は第4の手紙、9章は第5の手紙という仮説を立てて、そのとおりに並べてあります。ですから9章15節でコリントの信徒への手紙二は終わっているのです。これも興味深いことです。
さて、9章6節には、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。豊かに献げることの大切さを、種蒔きになぞらえて述べています。惜しんでわずかしか蒔かなければ、刈り入れはわずかで祝福が少ないけれども、惜しまず豊かに蒔けば、刈り入れも豊かで、たくさんの祝福をいただくことができる。これが神の法則です。祝福されている人は、必ずといってよいほど、献げる喜びを知っている人です。
これは献金だけのことではなく、奉仕においてもそうです。あの人はたくさんの奉仕をしているけれど、やりすぎではないかと思える人がいるかもしれません。でも、多くの方は喜んでされていると思います。その喜びは、祝福を受けているからです。
パウロは続く7節でも、献金や奉仕に対する基本的態度について教えています。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」ここでは具体的に四つのことが教えられています。第一に不承不承でするものではない。第二に、強制されてするものでもない。第三に、心に決めたとおりすべきもの。そして第四に、喜んでするということです。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」と言っています。
教会での献金も、この四つの基準を大切にしながらされるのが一番です。クリスマス献金について、「月定献金の2倍を目安に」と呼びかけました。このように具体的な呼びかけをしたのは、わたしが着任してからは初めのことですし、これまでもなかったかもしれません。ここ数年目標額に達しないことが多く、そのために目標額を下げてきたけれども、実はどれだけしてよいのか分からない人も多いのではないか。目標額というのは、教会総会で神の御前で約束した額です。教会の会計の原則は、収入から予算を立てるのではなく、支出から決めています。つまり目標額というのは必要額なのです。これを目安にしていただければ、必要が満たされる。神様との約束を果たすことができると、考えた上での呼びかけです。
でも、目安に従って決めるのは信仰的に正しいかというと、そうだとは言えません。信仰的にといえば、聖書の基準に従うということです。それが7節に示された四つのこと、不承不承ではなく、強制されてでもなく、心に決めたとおりに、喜んでするということです。こういう基準を踏まえつつ、自分自身の信仰の自由な決断として献げるのです。献金について基本的に大切なのは、献げる人の心です
申命記の15章10節には、「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」とあります。心に未練があってはならない。というのも、先の基準に加えることができるでしょう。神は喜んで与える人を祝福してくださいます。
コリントの信徒への手紙二の8節から10節には、そのようにして献げる人に対する神の豊かな祝福が述べられています。
「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」
惜しむことなく、喜んで与えることを勧めた理由がここに記されています。「すべての点ですべてのものに十分」とか「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせる」という言い方は、現実離れしているようにも思えます。でもパウロは、神はこのようにできると確信しています。収穫は多い時もあれば、少ない時もあります。誰でも、いい時もあれば、悪い時もあるのです。しかし、そのような中にあっても、必ず主の恵みを数えることができます。
今日の礼拝後に「土器」の編集委員会が行われます。毎回、皆さんが締め切りを守ってくださるので、十分に校正したものを予定通り出すことができています。ところが今愛、締め切りに間に合っていない原稿が一つだけありました。2面目に掲載される長沢道子先生の証の原稿でした。郵送で原稿依頼したのですが、お忙しい方ですので、確認のメールを入れておくほうがよいかなあという思いが最初からありました。次第に心配になり、締め切りの三日位前に電話とメールを入れましたが、折り返しもない。やまばと学園に電話すると、「先生は先ほど帰られて、明日から出張です」とのお返事。お元気でいることにとりあえず安心したところで、折り返しの電話がありました。
案の定、名古屋教会からの郵便は見たけれど、原稿依頼だとは思わなかったとのこと。それは見たとは言えないことですが、以前のことなので原稿も残っていないし、どうしましょうと言われる。運よく、わたしがスマホで礼拝の録音をしていたので、録音データを送ったところ、校正に間に合うように原稿を送ってくださいました。しかも、土器に掲載する証の要約だけでなく、証の全文を文字起こししてくださっていました。読んでみると、改めて心を打つ証でしたし、教会にホームページにもアップしましたので、是非ご覧ください。証の題は、「数えてみよ、主の恵み」です。
やまばと学園を創立したご主人の長沢巌牧師はとても有能な方でしたが、医療過誤ともいえる処置により、やまばとの誰よりも重い、重度の心身障害者になってしまいました。長沢先生は、「どうして 神様は、神様のために一生懸命働いてきた人を、何もできない人にしたのか 」という抗いつつ、3年間介護に専念した後に、1986年にやまばとの理事長に就任。先生がお亡くなりになる2007年まで、理事長の仕事と、夫の介護という二つの役割を果たすことになりました。
先生の証を読むと、わたしたちは、良いことがあると「恵みをいただいた」と思いがちですが、そうではないということを知らされます。「神さまの計画は、長沢に、何かを達成する活動者の役割ではなく、何もできない無力な役割を与えることだったのかもしれません」と述べておられますが、そのように思えることも、溢れんばかりの主の恵みです。
どんなときにも、主の恵みを数えることができるとするならば、その人の人生は幸いです。誰もが、満ち溢れた歩み、豊かな生活をしたいと願うでしょうが、どうすれば、それが適うのでしょうか。たくさんのものを所有し、それが減らなければ適うのでしょうか。将来のために、たくさんの蓄えたとして、それが豊かさの保証になるでしょうか。
パウロは、本当の豊かさを与え、恵みに溢れるようにしてくださるのは神だけだと語ります。では、何のためにあらゆる恵みを与えてくださるのかといえば、「あなたがたが、いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように」なるためだと言っています。自分の力では、善い業ができるどころか、失望するしかありません。しかし、神の恵みによってそれができるようになっていきます。
人は本来、神と交わり、神に従う者として造られているわけですから、本当の意味で自分自身になる。自分を回復するということでが、本当の意味で満たされたものとなるということです。神はわたしたちを真の意味で豊かにし、満たすことができるお方なのです。
パウロはまた、詩編112編9節を引用して、「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と言います。惜しみなく、貧しい人に喜んで与えた人に、神の慈しみは永遠に続くというのです。それゆえ10節で「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」と言うことができるのです。
わたしはキリスト教とは縁もゆかりもない家庭に育ち、名付け親はお坊さんであり、お寺の幼稚園の出身ですが、亡くなった兄は、かつて瑞穂区にあった聖公会系の柳城幼稚園の出身でした。母親からも柳城幼稚園の話をたびたび聞くことがあったので、縁もゆかりもないわけではなかったのかもしれません。最近、柳城の創立者であるマーガレット・ヤング宣教師の話を聞く機会がありました。ヤング先生は、正義心と豊かなる奉仕の人、祈りの人であり、その信仰が実生活に息づいていたと言われます。話の中で、「種蒔き」という題のヤング先生の詩が紹介されました。
翼広げた天使が 愛と真理と光明との
種子を一粒手に持って 飛ぶのを止めて考えた。
「これが大きくなったなら、素晴らしい実がなるように
どこに蒔いたらよいのだろ」
救い主さま、それを聞いて にっこり笑っておっしゃった。
「私のために その種を子どもたちの心に 蒔いておくれ」
短い詩ですが、子どもたちの心に、神の愛という種を蒔くことを使命としたヤング先生の思いが込められています。種を蒔く人がいなければ、実がなることはありません。ここにキリスト教保育の根本を見る気がしました。その精神を受け継いで、柳城は種を蒔く人を養成するという働きを教育の根本に据えて歩んできたと思います。古くからの友人が今年、柳城学院の理事長に就任し、ちょうど昨日も話をしたところですが、互いに多くの課題を担う者として励まし合ったところでした。
コリントの9章10節の御言葉に照らせば、種を蒔く人が蒔くほどに、神はさらに種を与えてくださり、慈しみという豊かな実が結ばれると語られています。そのことは11節から14節で明らかです。(朗読)
「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」
パウロは施すことについて、奉仕の働き、奉仕の業という言葉を用いながら、惜しむことなく種を蒔くことの恵みを四つ語っています。第一に、この奉仕の業によって、神への感謝を引き起こすにことになるということ、第二に、感謝を通して、助け合いの業がますます盛んになるということ、第三に、その結果、福音が公に宣言されて神の栄光があらわされるということ、第四に祈りに覚える者となるということです。奉仕による交わりと祝福の広がりが語られています。
そして、これまで語ってきたことを15節の言葉で閉じています。「言葉では言い尽くせない贈り物について、神に感謝しています。」先に紹介した学問的成果に照らすとすれば、この手紙は、13章の終わりの三位一体の神の祝福ではなく、9章の終わり、神への感謝で閉じられていると読むことができます。
神への感謝で閉めているパウロですが、誰が感謝しているとは書いていません。パウロが感謝していると読めるし、贈り物を受け取ったエルサレムの信徒たちのように読めます。加えて贈り物をすることによって、恵みが増すことを知るコリントの信徒たちが感謝するとも読めるところです。イエス様が「受けるよりも与える方が幸いである」と言われたとおり、贈り物をすることができるような者とされていくところに、神の祝福が注がれていくことは間違いのないことです。
わたしたちは神さまからの最大の贈り物であるイエス様をプレゼントされています。アドベントはその恵みを確かめる季節であり、教会はその恵みを存分に伝えていくことが求められています。先の見通せない時代にあって、まことの光を指し示していきましょう。
