聖書  申命記15章7~11節       コリントの信徒への手紙二9章1~6節
説教 「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」田口博之牧師

水曜日に行っている聖書研究の時間では、出エジプト記を通して旧約の律法を学んできました。律法の学びを終えようとしたとき、改めて律法を学ぶ意味がどこにあったのかという問いかけがありました。律法を学ぶことで旧約と新約とのつながりが分かりますし、聖書の面白さを知ってもらえればと思って読み進めてきましたが、問いかけた方にとっては十分ではなかったかもしれない、申し訳ない気持ちになりました。

律法を学ぶことの意味については、神がどういうお方であるのかが分かるということです。律法は神の考えが言語化されています。つまり神の思いや心が律法には表れています。神は正しいお方なので、罪と悪を裁こうとします。同時に、神は恵みと憐れみに満ちた方ですので、律法は慈しみに満ちています。この律法の完成者がイエス・キリストです。律法に規定された祭儀での献げ物の規定を知ることで、イエス・キリストの十字架の贖いの意味が鮮やかに示されてきます。

今日の旧約のテキストとした申命記15章は、安息年の負債免除について語ります。ここにも律法の優しさが表れています。負債を帳消しにすることで、その時点で借金に苦しむ人はいなくなります。貧しい家に生まれたからといって、その人は一生貧しく生きるなどということにはなりません。11節に「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」とあるように、貧富の差がなくなることはありません。それでも、格差社会を抑制し、固定化しないための経済制度であることは注目に値します。イスラエルの民はエジプトでは寄留者であり、奴隷のように扱われていましたので、貧しい人に配慮する律法を行うことは、神の恵みを思い起こすことにも通じたのです。

パウロは、エルサレムの貧しい信徒たちを助けるため、かつて自分が伝道した教会の信徒たちに募金を呼びかけました。でも、貧しい人々を助けるのは、パウロのオリジナルでもただの同情心でもなく、安息年での負債の免除を定めた律法からが根本にあります。イエス様は律法の完成者として、貧しい人々を深く憐れみ、行動されました。「貧しい人々は、幸いである」と宣言されました。

新約時代のエルサレムの信徒たちは、ユダヤ教からの迫害により、貧しい人を助けるという律法の枠から外されてしまいました。そういう中にあって、畑を持つ者はそれを売って教会に差し出すなどして、貧しい人々と共に生きる教会共同体を造り上げていきました。しかしその助け合いも限界に達し、エルサレムの教会は、異邦人の教会に援助を求めるようになり、パウロはその要請に積極的に応えたのです。そのことをわたしたちは、コリントの信徒への手紙二8章を通して学んできました。

続く9章1節には、「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません」とあります。「聖なる者たちへの奉仕」とは、エルサレム教会のための募金活動のことです。このことについて、「これ以上書く必要はありません」とあるのですから、これで終わってもいいという思いがあったのでしょう。それでもなお筆を進めていくのは、まだ、伝えなければならないことがあるというパウロの思いをみることができます。

そうさせるのは、パウロの熱意という以外ないのではないでしょうか。先週の礼拝の中で、コリントに派遣するテトス以下3人の持つ熱心と熱意についてお話しました。8章16節では、「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します」と述べていました。ということは、3人はパウロの熱心と熱意を受けて、コリントに遣わされたことになります。

そして、9章2節でパウロは、「わたしはあなたがたの熱意を知っているので」と述べています。「あなたがたの熱意」とは、コリントの信徒たちの熱意のことです。彼らには、エルサレムの貧しい人々を助けようという熱意があったのです。この熱意が、マケドニア州の人々など、多くの人々を奮い立たせることになったのだと告げています。パウロは8章のはじめに、マケドニアの諸教会の熱心な募金への取り組みについてコリントの信徒たちに伝えていたのですが、その熱心は、実はあなたがたコリントの信徒たちから受けたものだったと述べているのです。このようなことを言うのは、コリントの信徒たちに、初めの頃の熱い思いを思い起こしてもらいたかったからです。

これまで述べてきたように、パウロに対する不信感もあって、コリント教会では募金に対する熱意が冷めていました。しかし、テストと再会しコリント教会の様子を聞いたことで、これまでのわだかまりが溶けたことを知りました。その喜びの中で、周りにいたマケドニアの信徒たちに対して、コリント教会の素晴らしさを誇ったのです。それでも、パウロは一抹の不安を抱いていました。もしコリントの教会が、献金を再開していなかったなら、どうなるのかという不安です。

そのパウロの思いが、3節と4節に表れています。「わたしが兄弟たち(テトスら3人)を派遣するのは、あなたがた(コリント教会)のことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです(募金の用意のことです)。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがた(コリント教会)はもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。」そう言っています。

この「恥をかくことになりかねない」というのは、募金の用意が出来ていなければということです。パウロは、自分は恥をかきたくないし、コリント教会の恥になるようなこともさせたくないと言っています。そして、コリント教会のことを誇ったけれども、あなたがたが募金を始めていなければ、その誇りも無になってしまう。そんなことにならないように、パウロは前もってテモテら3人を遣わせたのです。ここでのパウロの恥ずかしいという感情や、三人を先に送るというやり方は、信仰的というよりも、人間的だと思えます。でも人間的だからといって、それが、聖書的、信仰的ではないのかといえば、それも違います。

召天者記念礼拝で、アブラハムが妻サラを葬るために墓を買ったという話をしました。アブラハムは土地の人から、サラのお墓にする土地なら差し上げますよと言われたのに、当時の商取引に則る方法、すなわち大勢の証人の前で商人が用いる通用銀で支払い、墓地を手に入れたのです。信仰生活は、神に対する責任を持って生きるということですが、それは人に対して、世に対しても責任を持つということです。これは教会のやり方であって、この世では通じないことをしていては、世の証しにはなりません。

パウロは、コリント教会への誇りが失われないようにするため、わたしもあなたがたも恥をかくことがないようにするために、5節です。「そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました」と言うのです。自分がそちらに行ったときに、募金を始めるというのではなく、あるいは真最中ということではなく、集めたものを受け取れる状態になっていることを望んでいます。三人の兄弟を遣わすのは、そういう意図があるのだと説明しているわけです。実に用意周到です。

明日から全国教会婦人会連合の研修会が行われます。話し合いに参加する中で、ここまでするのかと思うほど、きめ細かな準備をされていることに驚いています。準備委員の熱い思いが、熱伝導のように広がっていると感じています。どれだけ準備をしても、行き当たりばったりで進めても変わらないということがあります。でも大事なのは結果よりもプロセスです。

実際にパウロはこの手紙を通して大切なことを伝えています。兄弟を一足先にそちらに行かせて、贈り物の用意をしてもらうことが必要と言った後で、5節後半ですけれども、この贈り物は「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです」と告げています。前もって用意してもらうというだけではなく、どういう心で用意するのかが肝心だと言うのです。ここでパウロは「贈り物」という言葉を使っていますが、具体的には募金ことです。募金は必ず受け取り手がいますので、その募金は贈り物となります。災害募金でも、そのツールも用いられ方も様々ですが、最終的には被災者への贈り物となります。

そのときに大事なことは、パウロが言うように「渋りながらではなく、惜しまず差し出す」ことができるのかということです。そう言われても、実際には渋々することも、惜しんですることもあるのがわたしたちです。礼拝ごとの献金でも、そういうことが問われていると思います。でも、神様が見ておられるのは、どういう心で献げるのかということです。長老会は、クリスマス献金について「月定献金の2倍を目安に」と打ち出しましたが、これは献金しようとする人の心を問うメッセージだと思います。「イエス様が、レプトン銅貨2枚を賽銭箱に入れたやもめの様子をご覧になって「誰よりもたくさん入れた」と言われたのは、彼女が「渋りながらではなく、惜しまず」に献げたからでしょう。「誰よりもたくさん」とは、神様に献げるときの彼女の心の大きさをご覧になってのことです。

自分で蓄えたものは、できるだけ手元に置いておきたいと考えるのは、当たり前のことです。あの人は今困っているかもしれないけれど、自分だって、いつ必要になる時が来るか分からない。大きな病気をしたり、事故に遭ったりするかもしれない。そう考えればためらって当然です。でも忘れてはならないことは、今自分が手にしているお金は、神様からの預かり物だということです。預かっているならば、預かった人は、これを適切に管理するという務めがあることを知ります。怪我や病気や事故が心配ならば、前もって保険に入っておくことも管理者の務めだと言えるでしょう、それは自分自身を適切に管理することにも通じます。わたしたちのこの体も神様から授かったものだからです。

律法には、神の心や思いが表れているという話を初めにしましたが、律法以上に具体的に表したのがイエス様の言葉です。金持ちの青年から、「永遠の命を得るには、どんな善いことをしたらよいのか」と問われたとき、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。この言葉を聞くと、そんな真似は自分にはできないと考えてしまうでしょう。でもこの時のイエス様の言葉は、永遠の命を求めてやってきた金持ちの青年との固有の関係性の中での言葉です。さらに言えば、このメッセージは、全財産を貧しい人に施すことが中心ではないのです。あなたは、たくさんの財産を抱えているから自由を失っている。それらを貧しい人に施すことで、自分を軽くして、わたしに従うということができる。そのようにすれば、あなたは「天に富を積む」ことになるし、あなたが望んでいる永遠の命は約束されるという、命への招きの言葉なのです。

固有の関係でと言いましたが、聖書の固有性というのは、その人との関係にとどまるものではありません。それはマタイ福音書のタラントンのたとえからも分かります。ある主人が、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントを預けて旅に出ました。そこだけ読むと、神様は不平等じゃないかと文句が出そうになりますが、この主人は、「それぞれの力に応じて」預けたのです。わたしたちも神様から預かっているものは、一人一人違います。自分のキャパ以上のものが預けられたとすれば、大変なことになってしまいます。それは教会での奉仕を考えても、分かる話ではないでしょうか。力以上のものを与えられたら、つぶれてしまうこともある。神はこの人なら、これだけのことを任せても、ちゃんとやってくれると信頼して託されるのです。それにどう応えるかということを、タラントンのたとえは教えているのです。

このタラントンのたとえ話と、今日の9章6節のパウロの言葉は響き合っています。パウロは、「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」と言っています。5タラントンと2タラントン預かった人は、預かったものを惜しまずに豊かに蒔いたのです。それで刈り入れも豊かだったという。でも、それを用いることなく、ただしまっていた人は、わずかしか蒔かなかったというより、何の種も蒔かなかったことになります。だから叱られたのでしょう。「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった」とは、わずかでも種を蒔いておけば、わずかでも収穫があったのにという話なのです。

最近は金利の上昇により銀行の利息が付くようになり、長老会の会計報告でも「おっ」と声が上がることがあります。でも実際には、金利以上に物価は上がっているので、お金の価値としては下がっているのです。政府は貯蓄より投資を推進していますが、為替や株価の変動も日替わりなので、躊躇したとしても当然です。たくさんのリターンを期待できても、それだけにリスクがある。実際の種まきでも、多く蒔いたからといって、多く収穫できるとは限りません。でも、わずかしか蒔かないのに多く収穫することはありえないのです。ここでパウロは、天に富を積む話をしているのです。多いとか、少ないという話も、金額や量の話をしているのではなく、どのような心でしたか、惜しんですることはなかったのかを問題にしているのです。

日本は贈答文化だと言われます。贈り物をする時もあれば、いただく時もあります。同じものであっても、そこにメッセージが添えられたり、特別な包装がされていたりすれば、贈り主の心を感じるのではないでしょうか。どれほどたくさんの贈り物をしたとしても、お付き合いで一斉にというのであれば、それで豊かに蒔いたことになるのでしょうか。

安息年の負債の免除を記した申命記15章9節、10節を読むと、「『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい」とか、「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」とあります。

「よこしまな考えを持つ」ことがないように、とか「心に未練があってはならない」と律法で語られていることも面白いなと思います。神は人の心をよくご存じなのに、さらに心を見ておられるのかと思うと恐ろしさも感じます。でも神は、裁くための冷たい目で見ておられるのではありません。「このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。」と言われるように祝福のまなざしを注がれます。

イエス様は「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。人の性分をよくご存じだからこその言葉です。神は、わたしたちの心がどこにあるのかをご存知です。神に祝福されている人は。豊かに蒔く喜びを知っている人です。だから刈り入れも豊かです。だから祝福されるのです。

これは献金だけの話ではありません。奉仕もそう、伝道もそうです。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」折しも収穫感謝の時期です。タイパ、コスパと、効率が重視される時代となっていますが、神が効率主義でないことは、聖書を読むと分ります。「収穫は多いが、働き手は少ない」のです。豊かに、惜しむことなく種蒔きの奉仕に仕えたい。献金もそのことのために用いられます。収穫の主が、豊かに刈り取ってくださいます。