詩編112編6~10節 コリントの信徒への手紙二8章16~24節
「愛と誇りの証し」田口博之牧師
コリントの信徒への手紙二の8章から9章にかけては、エルサレム教会を助けるための献金運動のことが集中して記されています。ところがパウロは、これまで献金とか募金という言葉は出さずに、「慈善の業」とか「奉仕」という言葉で語っていました。19節に「わたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」とあるのも募金のことなのです。20節で「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について」とありますが、ここで初めて募金という言葉が出てきます。
9章の小見出しに「エルサレムの信徒のための献金」とありますが、本文の中では募金とか献金が、言葉としては出していません。ですから、わたしがこれまでの説教で、ここでパウロは貧しいエルサレムの信徒たちを支えるための募金を勧めているという話をしなければ、分からない話だったかもしれません。
パウロとしては、お金の話をしていることを隠そうという意図があったわけではないでしょう。いずれにせよ、8章から9章というのは、福音を宣言しているような箇所ではありません。だからといって、そんなに大切でないとか、たかが募金の話と聞き流すのではない。19節に「主御自身の栄光と自分たちの熱意を現す」という言葉が出てくるほどに、信仰者としてどうあるべきなのかが大いに学べるテキストだということができます。
今日のテキストでは、初めにテトスのことが語られています。テトスはパウロの愛弟子ですが、聖書全体を読んでもテモテのようにその人となりが、あまり語られていません、テトスについて、もっとも詳しく語られているのが、7章6節以下です。テトスは信頼関係が失われていたパウロとコリント教会の間を取り持つ大切な役割を果たしました。パウロは、8章に入って募金の勧めをずっとしてきましたが、ここで募金に関するすべてのことをテトスに託そうとしています。
コリントの信徒たちは、テトスのことをよく知っています。好印象を持っていたでしょうし、信頼関係もできていました。パウロは、そのことを知っているからこそテトスを遣わすのですが、お金を預けるということになれば、これまでと以上に細心の注意が必要だということを誰よりも分かっていました。
ですからパウロは、テトスを一人で行かせようとはしていないのです。18節で「わたしたちは一人の兄弟を同伴させます」とあります。「一人の兄弟」と言うだけで、具体的に誰なのか分かりません。でも彼のことを「福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです」とあります。その人が誰かということよりも、パウロが紹介するその兄弟が「教会で評判の高い人」であり、「諸教会から任命された」人であることが重要です。
教区の三役を仕事の中で、牧師が交替するときの人事について扱うことがあります。各教会は、神学校に依頼したり、個人的なつてを頼るなど様々で、すべてを教区が把握するわけではありませんが、たとえば教区から神学校に紹介を依頼することもあります。わたしが一つ学んだことは、教師の人事において、その人の名前を頼るにしてはいけないということです。本を出していたり、著名な教師だからいいとは限らず、結構わがままな人がいます。他方、名前は知られていなくても、弱さを抱えていたとしても、その人が「教会で評判の高い人」であることの評価は信頼できます。その人が神から見てどうなのかが大切には違いないのですが、それが分かるのは、その方が地域の教会において評判がよい人かどうかです。しかも「福音のことで至るところの教会で評判の高い人」と言われています。その人の性格の良さとか優しさではなく「福音のことで」と言われます。その教師の福音理解と信仰,指導力が正しく判断できるのは教会です。しかも、ここでパウロが推薦するその人は、「至るところの教会で評判の高い」人なのです。
だからこそ、テトスの「同伴者として諸教会から任命」される人となり得るのです。パウロがテトス一人で行かせるのでなく同伴者をつけるのは、お金を扱うという理由が大きかったと思います。教会の会計もそうですが、一人でするには無理がありますし、正確さを記すためにも二人必要となります。そうしないと正しいチェックにはなりません。
パウロがこの募金のことに気を遣っていたことは、20節「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています」ということ。21節「わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」という言葉からも分かります。
募金の額はどうあれ、献げようという一人一人の思いは尊いです。たくさんの人の募金を集めればそれなりの額になります。それを預かり必要とするところに届けるわけですから責任重大です。だれからも非難されないようにするということは必須です。そしてもう一つが、公明正大にふるまうということです。「主の前だけではなく、人の前でも」と書かれてあります。これはお金のことだけでなく、信仰生活のすべてに当てはまります。教会生活はきっちとしている、献金もよくされる。でも、家の中では、お金の面でも生活の面でもだらしないというのでは困ります。わたしたちは神の国の栄光を仰ぎ見つつ信仰生活をしていますが、その信仰生活というのはこの世においてなされます。あの人は信用できないと思っている人が信じているものを、どうして知りたいと思うでしょうか。信頼できるあの人が通っている教会なら、わたしも行ってみたいと思うのではないでしょうか。
さて、パウロはテトスに加えて信頼できる一人の兄弟を同伴させてコリントに行かせると記しましたが、22節で「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます」と言っています。つまりコリントには三人を送るというのです。二人ではなく三人というのは、お金を扱うという実際的な理由があります。教会の会計のことを考えても、二人できっちりしたとしても、さらにチェックをします。それが会計監査です。監査をきっちりすることによって、誰からも非難されず、公明正大だといえる会計となります。
ただしパウロは、監査のためにもう一人の兄弟を選んだとは言っていません。実は先に紹介した一人の兄弟について、パウロに同行したルカではないかという学者がいます。ルカは福音書の続編として使徒言行録を記しました人で、パウロの主治医として伝道旅行を共にしました。もちろん名前が出ていないので、同伴者がルカだという確証はありませんが、そのように楽しい想像をしながら聖書を読むことも悪いことではありません。
そして22節のもう一人の兄弟について、やはり名前は出てきませんが、この人はテトスと直接的なつながりがなかったか人ではないかと考えられています。親しい三人が旅をしたら、二人以上に緊張感のない旅になる危険性もあります。最近は、不正が疑われるような問題が起こると、第三者委員会を作ることが流行りになっていますが、第三者になる人は、利害関係のない人でなければなりません。利害関係があることで、忖度したいい判断しかできない危険性もあります。
しかし、この人が第三者で、利害関係がなければよいという話にはなりません。22節をもう一度読みます。「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています」とあります。ポイントは彼が熱心であるということです。
実は「熱心」であることの評価は、テトスについても語られていました。16節以下にこうあります。「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。 彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。パウロが熱心であることを重視し、そのことゆえに推薦したということが良く分かります。
どうでしょう。彼らは「信仰熱心」だったわけですが、皆さんも「熱心だねえ」と言われたことがあるかと思います。ご近所の方が、あの人は毎週日曜日の朝には教会に行かれる。それは、熱心でなければできないことだと思うはずです。あるいは、信仰者同士の目からも、あの人は、よく祈っているなあ、聖書をよく読んでいるなあと思える人に対しては、熱心な信仰だと感心することもあるでしょう。
その一方で、時にわたしたちは誰かの熱心さに迷惑するという経験をすることもあります。あの熱心さにはとてもついていけないと感じる。周りの人を疲れさす信仰があるということも否定できません。キリスト者の中にも、極端な終末信仰とか、社会運動の方を優先するような姿勢を持つ方もいます。わたしたちが立つべき土台は、日本基督教団名古屋教会なのですから、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を基軸とするということです。そうであれば疲れることはありません。あるいは、あの人はあんなに熱心だったのに、近頃は全然見ないよね。いったいどうしちゃったのと思う人もいます。過度に熱心になるという人は、その反動で冷めるのも早くて、戻って来れないということもあり得ます。
パウロ自身も。熱心の怖さを知っていた筈なのです。かつての自分は、「熱心さの点では教会の迫害者」だと語ってもいます。イエスを十字架につけた人々は、皆、熱心な人だったのです。自分がしていることは間違ってはいないと思えるほどに熱心だった。でも、その熱心さが神の子を殺したのです。熱心の原動力は、悪ではなく正しさです。悪いことを熱心にする人はいません。いろんな詐欺事件が横行していますが、熱心に騙そうとしているのではなく、それは冷たさからするのです。心理学的にも、正義感が強く熱心な人は、自分と相反する考えを持つ人を受け入れません。自分の正しさを一度でも否定されると、否定した人を敵とさえみなす傾向さえあります。
では、なぜパウロはここで、熱心であることを肯定したのでしょうか。パウロは、「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します」と言っています。つまりテトスの熱心は、自分の正義感から生まれる熱心ではなく、神がパウロのような熱心さをテトスの心にも抱かせたということです。これは熱心という霊の賜物をテトスに授けた、そういう言い方をしてもよいと思います。
三人目のもう一人の兄弟も同じです。22節によれば、パウロはこの人が熱心であることをいろいろな機会に認めていました。そして「今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています」と言います。そういう人だから推薦したのです。
では二人目はどうだったのでしょう。一人くらいは冷静でいれる人の方が、バランスが取れていいとパウロは思ったのかといえば、そうではないようです。彼が諸教会から任命されたことの根拠として、「それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように」と書かれてあります。彼もやはり熱い心を持っていました。この奉仕に熱意がなければ、主の栄光を現すことはできないのです。
これまで語ってきたように、この募金活動は、エルサレムの貧しい信徒たちを助けるためだけでなく、パウロは教会の一致が目的としていました。異邦人の教会がユダヤ人の教会を助けることで、教会が一つとなる。ユダヤ人と異邦人の隔ての壁が取り除かれ、和解が実現する。これによって、主の栄光が現すことができる。そのためには、生半可ではない、熱意、熱心が必要だったのです。旧約聖書に「熱情の神」という言い方が出てきます。背く者を妬んでしまうほどに愛している。その熱い愛から流れ出る熱意です。伝道にも熱意が必要です。神の愛は、独り子を世に遣わされたことに表されています。そのクリスマスが近づいています。気候は日々寒くなっていきますが、教会が熱意を傾けて伝道する季節です。
24節で「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください」と言われています。「あなたがた」とはコリントの信徒たちのこと、「わたしたち」とはパウロのこと、「彼ら」というのは、「テモテと同伴する二人の兄弟」のことです。つまりこの24節は、派遣する三人の紹介から、コリントの信徒たちへの勧告に変わっています。わたしが全幅の信頼を寄せてあなたがたの元へ遣わす彼らに対して、愛の証しを見せてください。具体的には、彼らを心から受け入れ、彼らが勧める募金に協力してください。それが彼らへの愛の証しとなり、エルサレム教会への愛を証しすることになります。そのことを通して、主の栄光を現すことになるのです。
では「あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証し」とは何でしょうか。意味の分かりにくい日本語です。分かりやすく意訳したリビングバイブルはこう訳しています。「そうして、私が公の場で、「コリント教会の人たちなら、きっとこうします」と、彼らに誇ってきたことを裏づけてください。」つまり、パウロはコリントの信徒たちのことを誇ってきた。コリントには素晴らしい信徒たちがいると諸教会に証してきた。そのことに是非、応えて欲しい。献金に協力することで、わたしが誇ってきたことを裏付ける証しをして欲しいと言っているのです。
誇りについては10章で詳しく述べられていきますが、「誇る」とは「喜ぶ」と訳してもよい言葉です。わたしは教会が、自分の教会に誇りを持つ、喜びとするのは素晴らしいことだと思います。教会の健やかさは、教会の兄弟姉妹を誇りとする、喜びとすることで証しされます。逆に争いや非難合戦が起きている教会は病んでいます。教会の問題を指摘することは簡単です。言い始めたらきりがなくなるかもしれない。でも、そんな教会には行きたくないと思うでしょう。パウロは10章の終わりで「誇る者は主を誇れ」と言っています。これは自己推薦をすることの問題を語っているのであって、教会の兄弟姉妹を誇るということは、自分を誇ることではありません。
わたしは、皆さんが名古屋教会を誇って欲しい。この教会に連なっていることに誇りを持って欲しいと願っています。それは歴史が長いとか、いい場所にあるからという理由ではなく、ここで共に礼拝していることを喜びとして欲しいのです。良い熱心とそうではない熱心があるように、誇りにも自分を過信してしまう悪い誇りがあります。でも、いい誇りを持っていただきたい。大谷翔平の活躍は誇らしいと思うでしょう。誇りを持てば元気になります。大胆になれます。大胆に自信をもって教会にお誘いすることができます。美味しくて感じのいいレストランを見つければ、そのお店を紹介したくなるでしょう。それと同じです。でもこのままではダメと思うとすれば、そこをダメだしするのではなくて、どうしていけばよいかを共に考えていく。そういう教会は健康的であり、皆が健やかになります。教会は高齢化しています。若者が少ない、課題はいっぱいある。それで内向きになるのではなく、事実教会は、第二、第三の人生をよりよく過ごせる場であること思っています。いいところを見つけていく。そのようにすることで、教会は主御自身の栄光を現せる教会となるのです。
