子ども祝福礼拝
「神さまを知る道」
今日は子ども祝福礼拝です。たくさんの子どもたちと一緒に神さまを礼拝できることを感謝します。子どもたちの「アーメン、ハレルヤ」の讃美歌の合唱も力強かったです。
今日は「神さまを知る道」というタイトルでお話します。以前、子どもたちも一緒の礼拝で、「わたしたちが生きるためにいちばん大切なことは何か」と問いかけました。生きるためには空気が必要です。水も食べ物も必要です。お金も健康も必要です。でもそれだけで生きていけるかといえば、実はそうではありません。たくさんのものを持っていても、生きていても辛くて苦しいだけ、そう思えるときもあるからです。
では、生きるためにいちばん大切なものは何でしょう。その答えは「神さまを知ること」です。神さまを知ることができれば、わたしたちは神様に愛されていることが分かります。生きていく中で、大きなピンチが訪れる時がありますが、神様に愛されていることを知れば勇気が湧いてきます。一人ぼっちの時にも、自分は一人じゃない、神様はいつも一緒にいてくださることを知ることができます。
ではどうすれば、神様を知ることができるのでしょうか。それが今日の問題です。考えられることは、一生懸命勉強して神さまを知ろうとすることです。ところが、どれだけ聖書を読んだり、牧師の話を聞いたりしても、神さまを知ることは簡単ではありません。神様はあまりにも大きなお方だからです。それに比べるとわたしたちはとっても小さい。だから、神様のことが分かったと思っても実はほんの少ししかわかっていないのです。勉強して知るというのは、下から上へのぼっていくようなやり方です。これには無理があって、分かってから信じようと思っても、それは一生かかってもできないことです。
ではどうすればいいのでしょうか。下から上へ、が無理だとすれば、上から下へという方法があるのではないでしょうか。実は神さまがその方法を取ってくださったのです。神さまがわたしたちの住む世界へイエスさまを与えるというやり方です。なぜ、神さまがそういうことをしたかといえば、神さまはご自分のことを知ってもらいたいと思っているからです。イエスさまは神の子ですが、わたしたちと同じ人間として誕生させてくださいました。わたしたちは人となられたイエスさまをとおして、神さまの思いを知ることができます。神さまに愛されていることを知ることができます。
神さまのことを知れば戦争なんて起こりません。神さまがいるのに、どうして戦争なんて起こるのかと聞かれることがありますが、それは戦争をする人が、人が傷つくことを悲しんでいる神さまの心を知らないからです。神さまのことを知れば、あの人は敵だとか味方だという考え方は生まれません。たとえ敵だと思ったとしても、憎むのではない。イエスさまは敵を愛しなさいと教えられました。神さまは人が傷つくことを悲しまれるのです。まず傷つくのは小さい子、弱い人たちです。神さまを知れば、争うのではなく、平和を求めるようになります。イエスさまの言葉、教え、生き方には、わたしたちを愛してくださっている神さまの心がいっぱい詰まっています。
イエスさまは、ご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。讃美歌でも歌いましたね。「主イェスは 道です 真理です 命です」と。イエスさまは、わたしたちが神さまに向かって歩める道となってくださいました。
皆さんの中で迷子になったことがある人がいるでしょうか。どこかに出かけて、いつの間にかおうちの人と離れて泣いちゃったことはないでしょうか。わたしは迷子になった記憶はありません。でも自分のお父さん、お母さんに「博之がいない」と探させてしまったことがあります。
わたしは小さい頃に中区にある6階建てのマンションの5階に住んでいました。もう60年も昔のことです。その当時6階建てというのは、デパートくらいしかありませんでした。テレビ塔の双眼鏡を覗くと部屋の中も見えたのです。家の前は伏見通り、窓から右を見れば錦通りと広小路通り、左を見ると桜通りがあって、大昔ですが、車もいっぱい走っている。そんなところに住んでいたので、わたしが帰ってこないと知ったお父さんとお母さんは心配したことでしょう。小学校1年生だったと思います。
でも表通りには出てなかったのです。エレベータの前はけっこう広いスペースがあって、そこで一人で遊んでいました。そうすると同じ階に住む夫婦がエレベータから出てきて、誘われて家に遊びに行ったのです。その夫婦はマジシャンで、何度かショーを見に行ったこともあるので、多分、そこそこ売れていた人たちだったと思います。おうちでマジックを見せてもらったかどうかは覚えていませんが、家に何も言わずに出てきたので、その方も、そろそろ帰った方がいいよねと話していました。そしたら急に空が暗くなってきました。夕立ち、今で言うゲリラ豪雨のように空が荒れて雷も鳴ってきました。今帰ると、同じ階でも雨でビショビショになることが分かっていたいので、家では心配しているだろうと思いつつ、天気がおさまるのを待っていました。
そうすると玄関のチャイムがピンポーンと鳴ります。お父さんとおかあさんが立っていました。きっと一件一件、探したと思うのです。わたしも怒られましたが、一声かけなかったマジシャンの夫婦も父親から相当な勢いで怒鳴られてしまい、そんなに怒らないで、僕が悪いからと泣いて謝ったことを鮮明に覚えています。やがて自分もお父さんになり、今はおじいちゃんになっていますが、そうなると余計にどれだけ心配したかが分かります。
その時のことを思い返すと、自分では迷子になったと思っていなくても、神さまの目から見れば迷子になっています。ほんとうなら、ここにいるべきところにいないのですから。そんなわたしたちを、神さまは必死に探してくださいます。わたしは叱られましたが、見つかると喜んでくださる。そこに神さまの愛があります。
神さまは、わたしたちが迷っても、ここにわたしがいるよと教えるためにイエス様をくださいました。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。真理とは真実、ほんとうにという意味です。「アーメン、ハレルヤ」を歌いました。練習しているとき、ハレルヤは神をほめたたえますということ。アーメンは「ほんとうに」、「その通りです」という意味だとお話しました。まさにイエスさまが真理、ほんとう、アーメンのお方です。イエスさまという道をとおるとき、わたしたちは神さまに向かうことができます。命へと導かれます。
今日は「詩」を作ってみましたので、これを紹介して終わりたいと思います。
世界には、たくさんの道がある。
まっすぐな道、曲がりくねった道。
にぎやかな街の道、さびしい山の道。
平らな道、でこぼこの道、険しい道。
この道がどこに続くのか知らずに歩く人がいる。
元気に歩く人もいれば、疲れて倒れる人もいる。
道から離れてしまう人もいるし、反対から歩いてくる人もいる。
けれど、そんな世界に 特別な道がひとつある。
それは、神さまのもとへと続く道。
私たちがそこへ行けるように、神さまがくださった贈り物。
それはイエスさまという道。イエス様と一緒に歩む道。
イエスさまが一緒だから、迷わない。
イエスさまが一緒だから、倒れない。
神さまのところまで進んでいける道。
「この道においで」とイエスさまが呼んでいる。
さあ、一緒に歩もうこの道を。真理の道、命の道を。
