創世記37章34~35節、ルカによる福音書10章10~16節

「ひるまずに歩む」       田口博之牧師

コロナに揺れた2020年も今週で終わろうとしています。今日、12月27日は今年最後の聖日礼拝となります。今年は、名古屋教会のみならず、世界の教会にとって、かつて経験したことのない事態に向き合うことになりました。イースター礼拝も、そしてクリスマス礼拝も祝えなかったという教会もあるのです。そのようなことは、1年前、世界の誰も考えていなかったことです。この後、臨時長老会を行うことにしました。感染者が拡大している中、新年度から教会として対応すべきことはないか、今日中に確かめておく必要があると感じたためです。

いつの頃からか、1年の世相を漢字一文字で表すとどうなるか、これを清水寺の貫主が筆で書き上げるということをしています。今年は「密」となりました。三密の密です。先週のクリスマス礼拝は出席が73名とのことです。昨年までは100人をゆうに超えていました。密とは言えませんが、正直ほどほどだったかなという感想をもっています。コロナの問題は教会にも大きな影を落としました。それは経済的なことはもちろんありますが、もっと根本的な問題がある気がします。これまで教会は密であることを喜び、また密になることを目標としてきたということです。これを転換せざるを得ない状況が生まれてきたのではないかということです。名古屋教会でする教状報告といえば、出席者が何名ということしかしていません。しかし、数で計る時代は終わったと見ています。では、何で計っていくのでしょうか。これからの教会は何を目指していくのでしょう。このことが問われていく気がします。

さて、今日の礼拝から、しばらく中断していたルカによる福音書を読んでいきたいと思います。あれ、今年度は教会を主題にした説教にしたのではないかと言われるかもしれません。今日からルカによる福音書を読み始めるのはある事情によります。けれども、教会を主題とすることをやめるのでなく、教会を念頭に置きながら読んでいく、聖書に記されていることをわたしたちの物語として読んでいきたいと思う。もちろん、それはこれまでもしてきたことでもありました。

10章1節以下で、イエス様は使徒と呼ばれた12人に加え、72人を任命し伝道へと派遣されます。わたしたちが、72人のうちの一人として聞いていきたいのです。わたしたちがイエス様から任命された一人。「収穫は多いが、働き人が少ない」から出ていくのです。でも、一人で出ていくのでなく、イエス様は二人ずつ遣わされるのです。

イエス様が弟子たちに託した言葉が、ここに二つ記されてあります。一つは5節「この家に平和があるように」です。今年の平和聖日礼拝は、この言葉を中心に説教しました。そこで何をお話したか、これを今繰り返すよりも、自分が何を語ったか言葉に責任を持つ意味で、今日の説教と共に名古屋教会のホームページのブログにアップするつもりでいます。そして、イエス様が託されたもう一つの言葉が、9節にある「神の国はあなたがたに近づいた」です。

何もイエス様は、「平和があるように」、「神の国は近づいた」この二つを言いなさいと言われたということではありません。あなたがたか伝えることは、そこに集約されるということです。マルコは福音書の初めに、イエス様のガリラヤ宣教の第一声として、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」を挙げています。「神の国が近づいた」とは、イエス・キリストが宣べ伝える福音の中核です。極端な言い方をすれば、「あなたは神に愛されている」と言いかえてもいいのです。イエス様の言葉を聞く一人一人が、神の愛の支配に満たされる。そこに神の国はあります。イエス様は、この言葉を、ご自身の思いを伝えるよう72人に託されたのです。

先週のイブ礼拝では、もっぱら「天使」の話をしました。普段はしない語りであったと自覚していますが、天使が聖書に登場したから話をしたということでもあります。普段はあまりしないのは、クリスマスの物語以降、天使は頻繁には出てこなくなるからです。その理由は単純で、神の子であるイエス様が地上に来られ、神の御心を直接お語りになっているので、天使が登場する必要がなくなったからです。

ところが、イエス様はいつまでも地上におられたのではありません。では、代わりに天使を呼ばれたのかというとそうではありません。天からの使いを呼ぶのではなく、もっと確かな方法を取られた。ご自身で12人人を選び使徒とされ、ここでは72人を遣わしたのです。この遣わすという言葉は、使徒という言葉に通じ、さらに言えば、「天使」も同じなのです。イエス様が来られると天使がいらなくなったように、教会の時代となっても、天使の代わりを務めるものをイエス様は任命されたのです。キリスト者として選ばれるということは、天使として遣わされているということです。

この72人の派遣は、9章51節にあるように、イエス様が天に上げられる時期が近づいたと悟り、ガリラヤを去り、エルサレムに向かう決意を固められた後の記事です。72人というのは、当時数えられた世界の民族の数だとも言われています。聖霊を受けた使徒たちが、ユダヤとサマリアの全土、また地の果てに至るまで、神の国の福音を宣べ伝えるために出ていくことになる。いわばその先取りと理解していい。8節に「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ」とあります。この言葉は明らかに、ユダヤの外に出て行ったときのことが想定されています。その地で宣べ伝える言葉、その中心は、イエス様と同じく「神の国はあなたがたに近づいた」であると教えておられる。天使が羊飼いたちに良き知らせを伝えたその役割を、ここで与えられておられるのです。

けれども、これを聞く人々が皆、「神の国はあなたがたに近づいた」という言葉を、受け入れることではないのです。イエス様もこのことを分かっておられ、もう一つの言葉を託しています。それが10節の「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』」です。たとえ、伝える相手がメッセージを受け入れなかったとしても、伝える言葉は同じく「神の国は近づいた」なのです。

これはとても大切なことを教えています。主に遣わされる者が宣べ伝えるのは、どこまでも神の国の福音なのだということです。この言葉は受け入れられなかったから、じゃあ次の言葉を用意するのではないのです。これはダメでもこの言葉なら相手は聞くだろうと、おもねる必要もないのです。そのようなことを考えてしまう誘惑を、イエス様は斥けられたのです。

そして、神の国の福音を受け入れなかった町に対して、「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」と裁きを予告し、13節以下では、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤ湖の北部にある三つの町へわざわいの言葉を語ります。この町はイエス様のガリラヤ伝道の主要な宣教地でした。特にカファルナウムにはペトロの実家があり、イエス様の伝道拠点となった町です。イエス様はここで福音を宣べ伝え、神の国の訪れのしるしとして、多くの病人をいやしました。イエス様は多くの弟子たちをここで召されました。収穫はあったはずなのです。

でも言われるのです。「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」と。ティルスやシドンとは、地中海沿岸の町、これらは異邦人の町です。しかし、この町のように、お前たちは悔い改めなかったではないか。何のために、わたしがお前たちのところに言ったと思うのか、そのような、イエス様の悔しさ、嘆きが伝わってきます。

アドベント第二主日で聞いたイザヤの預言を覚えておられるでしょうか。忘れたかたも読めば思い出されるでしょう。マタイが引用した言葉でいえば、マタイによる福音書の4章15節「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」がそうです。暗闇に住む地の民に大いなる光をもたらすためにイエス様はガリラヤに行かれました。

また、同じ4章12節は、「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」とあります。イエス様はこの町に住んでくださった。なんとすてきなことでしょうか。しかし。彼らはそれほどの光栄をいただいたにも関わらず、その感謝をお返しすることはできなかったのです。

その問題に気づいたならば、とうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」と言われるのです。この行為は、激しい嘆きと悔い改めを表しています。ヤコブは息子ヨセフの血まみれの着物を見て、ヨセフが野獣に食われて死んだと思い込みました。その悲嘆の様子を、創世記は「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ」と記されています。カファルナウムもそこまで悲しむべきことだったのです。救い主がここで生活してくださった。神の国をもたらしてくださった。でもガリラヤは福音の起点とはなりませんでした。多くのものを与えられたにも関わらず、鈍感に過ぎたのです。

新共同訳聖書では13節以下について「悔い改めない町を叱る」という小見出しを付けています。けれども「叱る」という言葉が適切なのか疑問に思います。むしろ、神の恵みに気付くことに鈍感な町に対する、イエス様の悲しみと嘆きを感じとるべきではないか。

今年の世相を表す漢字一文字は「密」であったと話しました。では第二位をご存知でしょうか。鬼滅の鬼でも滅でもなく、「禍」(わざわい)という字です。やはりコロナ関係で、「コロナ禍」という言葉でよく目にするようになりました。この字は、思いがけない不幸を言い表す時に用いられる言葉です。

イエス様もここで、禍(わざわい)、不幸を語りました。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と。この「不幸だ」という言葉についてですが、実はギリシア語聖書には「不幸だ」という言葉は出てこないのです。「お前は不幸だ」は、ギリシア語本文では「ウーアイ、ソイ」という言葉です。「ソイ」は二人称代名詞、「ウーアイ」は、苦痛や悲嘆を示す感嘆詞です。「ウーアイ」と発音していますが、おそらくは「ウー」、「アー」と声にならぬような叫びにも似たうめき声で発する言葉なのです。もっといえば、お腹の中にあるものを(ウェーッ)吐き出すような、声というより、音を発しているのではないか。その意味でも、悔い改めなかったから叱るというものではないのです。

イエス様は、腸がちぎれるほどの思いをもって、わたしたちを憐んでおられます。表面上のつくろった言葉で、「イエス様はわたしたちを愛してくださっています」そんな簡単に言うことはできません。イエス様は存在をかけて、まさにわたしたちの身代わりとなって死んでくださったのです。「神の国は近づいた」と言われたイエス様ご自身が神の国なのです。けれどもこの町は、神の国の訪れを見過ごしてしまいました。

若い牧師から相談を受けたことがあります。一生懸命に教会に仕えて御言葉を語っている。でも、牧師として一人前に見られない、重んじられていない。御言葉よりも、あれをして欲しい、これもして欲しい。それしかないんだと。とても誠実な牧師なのです。わたしはその牧師に言いました。あなたがそこまでの思いで仕えているのに、受け入れられないというのであれば、とどまることを考えるよりも、新しいところに向かうことを考えたほうがいい、このルカによる福音書の10章11節の言葉を読みました。

これは何も、あなたが教会を裁くのでも呪っているのでもない。裁きをなさるのはイエス様であり、しかも、それは「かの日」、神の国であるお方が、神の国を完成させるため、再び来られる時になさること。あなたが語ることは、ただ「神の国が近づいたことを知れ」。どこまでもイエス様の使者であり続けることが大事ではないかと。ひるむことはないのだと。

イエス様は16節で「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」と言われました。とても重い言葉です。

ここでイエス様が呼びかけている「あなたがた」とは、直接任命された72人ばかりではありません。教会の牧師、伝道師として献身している者だけでもありません。教会に連なるわたしたち、洗礼を受けてキリスト者となった者は誰でも、イエス様に遣わされてこの地上を生きているのです。それはこの地上に神の国を宣べ伝えるためなのです。

コロナの問題で世の中が疲弊しています。こんな禍が襲うとは誰も思っていませんでした。でも、疫病が流行るのはこれが初めてではありません。ここに来てコロナの変異種とか新たな問題も生まれています。でも、マスコミやネットを通しての情報に踊らされないことが大事です。わたしたちにはもっと確かな言葉が与えられています。ひるむことなく、神から与えられた確かな言葉を拠りどころとしましょう。そしてこの世で天使として働きましょう。たとえ翼は持っていなくても、齢(よわい)80、また90を迎えるとしても、欠けがいっぱいあったとしても。