マラキ書3章17~18節  ルカによる福音書19章11~27節
「ムナのたとえ」 田口博之牧師

先週は3年ぶりに本格的な子ども祝福礼拝を行いました。次週の召天者記念礼拝も1階のホールに召天者の写真を並べ、礼拝では聖餐を祝います。他教会でも、先週、今週と3年振りにバザーをしている教会が複数あります。そう思う時、クリスマスもふた月を切っていますが、今年は盛大な愛餐会とまで言わないまでも、もう一歩進めることができないか。感染状況を見据えてのこととなりますが、そのような希望が持てる子ども祝福礼拝でなかったかと思っています。

さて、今日のテキストは先週のザアカイの物語の続きです。冒頭、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された」という場面設定で始まっています。「これらのこと」とは、エリコでのイエス様とザアカイのやりとりのことです。二人の会話に聞き耳を立てていた人々がいたのです。ザアカイが悔い改めた出来事に接して、「エルサレムに近づいて」いる中で「神の国はすぐにも現れる」という期待を抱いた人々は少なくなかったと思われます。

そういう状況下で語られたのが、今日の「ムナのたとえ」です。イエス様はこれまでに何度も「神の国」について話されました。またエルサレムで何が起こるのか、受難予告も繰り返しされましたが、弟子たちはまったく理解できていなかったのです。彼らはエルサレムに入れば、イエス様が神の国の王となって、イスラエル民族が待望するメシアの王国、神の国が始まると思っていたのです。ですから、このたとえ話の直接の聞き手は、イエス様に従っている弟子たちことだと考えてよいでしょう。それは、礼拝に集っているわたしたちへの語りでもあるのです。

イエス様は初めに「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という話をします。たとえ話という形をとりながら、自分の話をしているのです。つまり、わたしはエルサレムについてすぐに「王の位を受ける」のではなくて、まさにそのことのために「遠い国に旅立つ」と言われたのです。

さらに「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」とあります。すると、ムナのたとえというのは、しばらく主は留守をされるが、その間にわたしたちはどう過ごせばよいのかということが、語られているということが分かります。

興味深いことは、この国民は遠い国へ旅立った人を「憎んでいた」と書かれてあることです。僕たちは、主人からムナを預かっているのですが、その主人は国民から憎まれていたというのですから、そんな主人の留守を守る。そんな主人から預かったムナを元手に商売をするというのですから、その商売は決してやりやすいものではなかったということが想像できます。

言うまでもなく、国民から憎まれている主人とはイエス様のことです。ピラトの裁判の時、人々はイエス様を「十字架につけろ」と叫びました。十字架上のイエス様を見て皆が嘲けるほどイエス様は憎まれたのです。エルサレムに入れば王座につくという期待が裏切られたからです。今、日本シリーズをしていますが、絶対的守護神と信じていたピッチャーがエラーし打たれたことをきっかけにチームが敗れる。すると信頼は脆くも崩れ憎しみへと変わってしまう。それが人間です。

すでに予告されていたとおり、主は三日目に復活されました。そして、使徒言行録第1章に記されているように、復活された後、40日にわたって弟子たちと共に生きられました。彼らは神の国が来るのは、今、この時ですかと尋ねましたが、イエス様は「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言い、まだ戻って来ることを約束して天に昇られたのです。

すると、ムナのたとえにあった「遠い国へ旅立つ」とは、主の昇天のことであり、僕が預けられたムナは聖霊のことだと考えることができます。あるいは神の言葉だと考えることもできます。そして、ムナを預かった僕とは弟子たちのことであり、それは教会に生きるわたしたちのことなのです。

日本ではずっと昔から、キリスト者人口が1%未満だと言われています。教会に集うわたしたちは、日本においては実にマイノリティーな存在なのです。旧統一協会の問題で教会は非常に迷惑しています。統一協会はキリスト教会とは関係ないといいつつも、キリスト教と関係ないところから生まれたわけではないのです。他にもキリスト教系の「カルト宗教」と呼ばれるものはいくつもあります。このことは、よく考えねばならないことです。パウロが警戒を呼びかけた偽預言者、「あの犬ども」、「残忍な狼ども」が後を絶たないのです。そのために、キリスト教会そのものが誤解され、警戒されかねない。イエス様が人々から憎まれていると言われかねない日本の中で、わたしたちは預かったムナをどう用いて生きていくかが問われています。

15節に「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした」とあるように、遠い国に行った主人は行ったままではなく、帰って来るのです。そして、あなたがたに預けておいたムナをどのように用いたかを問われるのです。すると、ここから語られるのは、終末の裁きのことであることが分かります。あなたに授けた聖霊の賜物をどう用いたか、あなたに託した御言葉をしっかりと語ることができたのか、裁きの座で問われる時が必ず来るのです。

最初の者は、預かった1ムナで10ムナを儲けます。主人は「良い僕だ。よくやった」とこの僕を褒め、十の町の支配権を与えます。二番目の者は、1ムナで5ムナを稼ぎます。主人は五つの町の支配権を与えます。そして他の者は、「これがあなたの1ムナです」と示します。ムナは増えていません。1ムナを元手に商売することなく、大事にしまっておいたのです。そのため増えもしないし、減りもしませんでした。

場合によってはそういう選択もありではないかと思いますけれども、しまっておいただけの僕は、「悪い僕だ」と主人に叱られてしまうのです。彼は「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と弁解しましたが、その言葉のゆえに裁かれました。

読んでいて気付かれた人が多いと思いますが、このムナのたとえは、マタイによる福音書に出てくるタラントンのたとえとよく似ています。皆さんの中で、タラントンのたとえはよく知っているけれども、ムナのたとえと聞いてピンとくる方は、少なかったのではと思います。ムナのたとえは、タラントンのたとえと比べて馴染みが薄いのです。

以前の口語訳聖書では、タラントンはタラントと訳されていました。タラントは英語のタレントの元になった言葉で、才能とか、賜物を意味します。その意味でもタラントンの話は、入ってきやすいのです。他方ムナは口語訳聖書ではミナと訳されていました。遠い国へ旅立った主人の話も、それだけで独立した話でもあり、組み合わされたことで話が複雑になっています。

そして、タラントンのたとえとムナのたとえを比べてみると、似てはいるけれども、大きな違いが二つあることに気づきます。一つは、ムナはタラントンよりもはるかに少額だということです。といっても、1ムナは100デナリオン、一労働者の1日の実質的収入の100倍ですので、そんなに少額ではありません。神様はケチな預け方はしないのです。そうだとしても、1タラントンの方は6000デナリオンに相当します。ムナの60倍の貨幣価値があるので、話としてかなり大胆です。

そしてもう一つ、タラントンのたとえでは、ある者には5タラントン、ある者には2タラントン、ある者には1タラントンが預けられたように、人によって預けられている金額が異なっています。ところがムナのたとえでは、10人の僕が呼ばれて全体で10ムナ、一人が1ムナずつ均等に渡されている。そういう違いがあります。

このことは、信仰生活には一人ずつ違った賜物が預けられている面と、等しく同じものが預けられるという、二つの面が存在していることを表しています。その意味で、タラントンが一人一人に違ったかたちで授けられる聖霊の賜物であるのに対して、ムナの方は、等しく与えられる神の言葉と理解するのがよいだろうと考えます。

このテキストで、「あなたの1ムナで10ムナ儲けました」、「あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました」という言葉が出てきます。主人から褒められた僕たちの言葉ですけれども、原文では「あなたの1ムナ」が主語になっています。つまり、「あなたの1ムナが10ムナの儲けとなりました」、「あなたの1ムナが5ムナの稼ぎとなりました」と訳した方が正確なのです。すると「あなたの1ムナ」を用いて上手く商売し、元手を増やした僕の手柄が主ではなくて、「あなたの1ムナ」すなわち、神の1ムナ、すなわち御言葉そのものに力がある。そこに力点を置くことが大事なのです。

2世紀の古代教父に殉教者ユスティノスと呼ばれる神学者がいます。彼はこの物語を、種を蒔く人のたとえと結びつけて、やはり預けられたお金を神の言葉とし、僕たちがどういう土地であり、神の言葉がどうなったのかを検証します。そして、旅から帰っていた主人は再臨のキリストです。この話は、概ねそのように解釈されてきた歴史があります。

しかし、そこにとどまるべきではありません。今日、10月最後の礼拝を宗教改革記念日礼拝としている教会が少なくありません。宗教改革者たちは、たとえ話を寓意的に解釈する仕方を斥けました。ジュネーブの改革者カルヴァンは、遠くへの旅に関して、主人が不在の時というのは欠乏と苦難の時期であるとしました。キリストはまだすべての敵を打ち破ってはいない、キリストは御言葉をもって支配しているが、この力はなお隠されており、終わりの時に初めて啓示されるであろう。そのように言って、キリスト者に対して、主の到来を希望と忍耐をもって待つことを勧めています。

わたしたちは、使徒信条の言葉を用いれば、天に昇られたイエス様が、「全能の父なる神の右に座したまえり」時を生きています。すでに2千年近くが経っていますが、「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のようです」と言われているとおり、主は再臨の約束を遅らせているのではありません。

26節以下に、「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」という、物騒に聞こえる主の言葉がありますが、主は打ち殺したくはないのです。でも義なる方ですので裁きは行われます。自分は憎まれたとしても、憎んだ人を裁きによって滅びることがないようにというのが主の願いです。そのために、一人一人が授かったムナを宣べ伝えることで、5人でも10人でも主に立ち帰る人が与えられることを、忍耐して待っておられるのです。

わたしたちは、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」イエス様を、主キリストと告白して歩んでいます。それが教会です。イエス様は、教会に連なるわたしたちに対して、それぞれに与えられたタレントを大胆に用いること、等しく与えられている神の言葉である1ムナを、しっかりと用いることを、タラントンとムナのたとえを通して告げています。

土の中に大切に隠しておいたり、布に包んでしまっておいたりすること、今風に言えばタンス預金を主は喜ばれないのです。今は銀行に預けたところで利息もつかない時代になっていますが、イエス様は預けたものを安全に保管するのではなく、しっかり運用することを求めておられるのです。それはすなわち、失敗を恐れなくてもいいんだということです。リスク管理は大切ですが、リスクを恐れていては、1ムナから10ムナ、あるいは5ムナを作り出すことはできません。

主は「預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい方」であったとしても、わたしたちの失敗を責めるお方ではないのです。主から与えられたものを、わたしがいただいた恵みとして独り占めするのは喜ばれません。それぞれが与えられた賜物に応じて主の恵みを伝えていく。御言葉を伝えることができるようになる。そこに牧師と信徒との区別はありません。主は、ムナのたとえをとおして、主を証しする人生の素晴らしさを伝えてくださっています。