申命記26章5~11節、 コリントの信徒への手紙二8章1~7節
「恵みの業に満ち溢れるように」田口博之牧師

わたしたちは神様から多くの恵みを受けて生きています。今日の礼拝に来ることができたことも神の恵みと感じられるかもしれません。それを感謝して生きることは大切なことです。でも、そこにとどまってよいのでしょうか。今日のテキストはそのことを教えていると思います。

パウロは1節で「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と言っています。ここで言う「神の恵み」とは、わたしたちが普通に考える「恵み」とは明らかに違います。わたしたちは「恵み」というと、神様がくださった良い物と考えると思いますが、ここではそうではありません。パウロはここで、マケドニア州の諸教会が惜しむことなく「慈善の業」をしたことを語っています。「慈善の業」という言葉は、4節、6節、7節に三回も出てきますが、具体的にはエルサレム教会への献金運動に参加したということを指しています。4節の「聖なる者たち」とは、エルサレムの信徒たちのことです。

この「慈善の業」を言いかえれば「恵みの業」となるのです。1節の「神の恵み」もそういうことで、パウロはコリントの信徒たちに、フィリピを代表するマケドニア州の諸教会の信徒たちが、エルサレム教会への献金に積極的に参加したことを伝えようとしたのです。

エルサレムの教会の信徒には、ヘブライ語を話すユダヤ人と、ギリシア語を話すユダヤ人がいましたが、99%以上がユダヤ人のキリスト者であったと思われますが、彼らはとても貧しかったのです。エルサレムには神殿があり、ユダヤ教の総本山と言えるところでした。それだけにエルサレムの信徒たちは、異端者として苦しい生活を強いられていました。ヨハネによる福音書を読むと会堂追放の記事が何度か出てくるのですが、それはユダヤ人の共同体から追放されることを意味しました。

今日申命記26章5節から13節も読みましたが、ユダヤ教というのは、律法の精神から貧しい人々や寄留者たちには優しかったのです。かつての自分たちが貧しいエジプトの地で寄留生活をしていたので、その辛さを知っていたからです。そんな苦しい思いをしていたわたしたちを主が救い出してくださったので、その恵みに応えるべく貧しい人たちには施しがなされました。それは新約聖書の時代でも続いていたのですが、ユダヤ教の会堂から追放された人たちについては、自分たちの仲間ではないと援助対象から外されてしまったのです。エルサレムの信徒たちが非常に貧しかった原因は、そこにあります。

使徒言行録4章32節以下に(220p)に、初代のエルサレム教会では、信徒たちが自分の財産を差し出して原始共産生活をしていたことが分かる記述があります。4章34節に「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と書かれてあるとおりです。

ここに「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」とあるので、一見すると財産も分かち合っているし、皆が豊かだったように思えます。ところが、そうではなくて、富んでいる人が財産を差し出すことをしないと、エルサレムの信徒の多くは飢え死にしかねないほど貧しかったのです。それでもエルサレムの信徒たち同士の援助では限界があり、異邦人の教会からエルサレムの信徒たちを助けるという取り決めが交わされ、パウロもエルサレムの使徒たちから援助を頼まれました。

しかし、エルサレムの信徒たちを援助する目的は、彼らがただ貧しいからだけではありませんでした。エルサレムのユダヤ人キリスト者の中には、異邦人キリスト者に対する偏見を持つ人々がいました。キリストの十字架と復活の福音だけで、律法をないがしろにしていて救われてよいのかという偏見です。パウロはその考え方とは戦いましたが、テモテには割礼を授けるなど、「ユダヤ人にはユダヤ人ように」という考えも持っていました。パウロはユダヤ人の教会も異邦人の教会も、同じ主にある一つの教会なので、エルサレムの教会を援助することで、双方の教会が対立せず、互いの交わりを大切にしたいと考えていたのです。

もう一つ理由があります。今日のテキストは、ローマの信徒への手紙15章25節以下を読んでおくと、より理解できます。そこにはこう書かれてあります。ローマの信徒への手紙15章25節以下(295p)。「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」

ここでも、エルサレムの信徒たちのことを「聖なる者たち」と呼んでいますが、今読んだところで大事なのは、「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」とあることです。

福音はまずユダヤ人に告げ知らされ、それから異邦人へと広がったことは、福音書とパウロの伝道の記事によって分かります。ペンテコステの日に聖霊が降り、その日のうちに3000人が洗礼を受けたのもエルサレムです。ということは、エルサレムが福音の出発点となりますから、パウロはエルサレムの教会への献金は、恵みの感謝として当然なされるべきだというのです。この親がいなければ、自分は存在しなかった。だからこそ助けるのは義務だとさえ言うのです。

このようなパウロの考えをよく理解していたのが、マケドニアの教会でした。先ほど読んだローマ書に「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」とあります。マケドニア州の州都がフィリピ、アカイア州の州都がコリントでしたが、献金運動の先陣を切ったのが、フィリピらマケドニア州の教会で、パウロはコリントの教会にこれに倣うよう進めているのです。

また25節に「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」。28節に「それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」と述べていることにも心に留めたいと思います。

ちょっと聖書の巻末地図の8と9を見ていただきたいのですが、ローマの信徒への手紙というのは、コリント近くのケンクレアイで書かれたというのが定説になっています。パウロはローマの都にまで福音が伝わっていることを知って、ローマに行きたくて仕方がなかったのです。でもローマの信徒たちが正しい福音理解に立っているかという不安もあったので、ローマの信徒への手紙というのは、教理的な部分と実践的な部分とに分けて、実に論理的に詳しく述べていきました。

パウロの伝道地の最終目標は、この地図には出てこないイスパニア、今のスペインだったと述べていましたが、当面の目的地はローマでした。ところが先ほど読んだところですが、「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」。「それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」と述べています。ローマ行きだけを考えれば、アカイア州にいるのですから、イタリア半島に渡るのはそんなに遠くないのです。ところが、今はこの募金を届けるために、エルサレムに行ってから行くと述べているのです。

このときのパウロの思いがよく分かるのが、使徒言行録20章17節以下です。パウロはエルサレムに行く前に、どうしてもエフェソの長老たちに別れを告げたいと思い、ミレトスの港にエフェソの長老たちを呼び出します。そのときの言葉ですが、22節以下でパウロはこう語っています。

「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

つまりパウロは、エルサレムに行けば、投獄と苦難は確実に待ち受けているが、何が起こるか分からない。死ぬ覚悟をもってエルサレムに献金を届けに行ったのです。ではどうなったのかといえば、聖霊が示されたとおり投獄と苦難を受けました。神殿の境内で逮捕され、イエス様のように最高法院で裁判を受け、ローマ総督のもとに送られ裁判を受けました。そして囚人としてローマに護送されることとなります。殺されなかったのは、パウロがローマの市民権を持ってローマ皇帝に上訴することができたからです。しかし、ローマ船旅の途中で船は難破し死にかけました。パウロは囚人としてローマに行くことになりましたが、そこまでしてでもエルサレムへ献金を届けたのです。

振り返ってパウロの第三次伝道旅行というのは、献金を集めることが目的だったとも言えるのです。でもそれは、ただの金集めではなく、福音を宣べ伝えることに匹敵するほど大切なことだったのです。今週の週報にも報告を載せていますが、わたしたちは、台風被害を受けたやまばと学園への募金、中部教区互助制度を支える自主献金を行いました。その前にはダルクのための募金を行いました。教会では月定献金や礼拝献金や感謝献金などを行うのに、なぜそのような対外献金や募金活動をするのかといえば、わたしたちの信仰にとって、とても大切なことだからです。

それは献げるという行為が神の恵みの業だからです。そのことを通して、互いのことを覚え、覚えられるという交わりが生まれるからです。また今日のテキストの8書4節に「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」とあるように、奉仕の業でもあるからです。パウロがエルサレム教会への献金を勧めた理由はそこにあります。わたしたちが教会総会で定めている信仰の4本柱というものがありあすが、その四つ目に「交わりと奉仕を喜びとする」があります。ここのいう交わりと奉仕とは、教会内のことだけでないのです。

ところで、8章2節に「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」とあります。ここでの「彼ら」とは、マケドニアの信徒たちのことです。彼らは、苦しい試練を受け、また極度に貧しい人々でした。彼らは経済的な余裕があるわけではなく、他の人々に援助できるような生活状態ではなかったのです。常識的に考えれば、「むしろ自分たちこそが憐れんで欲しい、助けてもらわねばならない」そう訴えてよかったのです。ところが3、4節にあるとおり、「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」と、しきりに願い出たとのです。自分の力、いや力以上の献金をしたのです。しかも、パウロが呼びかけたからではなく、自ら願い出ていたのです。

献金というのは、お金持ちの人がたくさんするとは限りません。自分の努力でこの富を築いたと思えば、努力していないから貧しいで終わり、貧しさには無関心になってしまいがちです。むしろ貧しい人の方が、あるいは豊かな人でも貧しさを経験した人は、その大変さを知っているだけに、これでは大変だと精一杯するという面があります。

かつて、賀川豊彦は神戸のスラムで生活をして、貧しい人の心理を研究しました。賀川は、「金持ちにも二通りある。足りない足りないと連発する『金持ち貧乏』と、何ごとにも感謝して、心豊かに生活することができる『貧乏金持ち』である」と語りました。マザーテレサも日本に来た時、ホームレスの横を素通りしていく人々を見て、日本人の心の貧しさを指摘しました。「心の貧しい人々は幸いである」と言われたイエス様の言葉が響きます。

パウロは4節で、エルサレムの信徒への献金のことを、「慈善の業と奉仕への参加」と表現しています。この「慈善」と訳されている言葉は、1節と同じく「恵み」という言葉です。聖書協会共同訳では、4節は「聖なる者たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、しきりに私たちに願い出たのでした」と訳していました。パウロは献金を受け取る人たちが、恵みにあずかると言っているのではありません。献金をすることが恵みにあずかることだと言うのです。

6節と7節にも「慈善の業」という言葉が出てきますが、聖書協会共同訳ではやはり「恵みの業」と訳し変えています。パウロは繰り返し、献金することを「恵み」と呼んだのです。迫害や貧しさの中で、喜びに満たされて、自発的に募金することができるのは、慈善というよりも、神の恵み以外の何物でもありません。献金や募金を慈善というと、貧しい人を憐れんでの行いという響きがありますが、現実には自分が貧しくても、生かされている恵みへの感謝から起こることです。

イギリスやアメリカで起こったボランティア運動は、明治期に日本にも伝わってきましたが、富める人が貧しい人に施すという慈善という色が強く、慈善は偽善だという批判も起こり、あまり使われない言葉となってきました。わたしは相撲好きでしたが、NHKで放送された「慈善大相撲」を楽しみに見ていました。ところがある時から、「福祉大相撲」に名前が変わったのです。内容は変わらないのに、なぜ変わったのかと思いましたが、先に述べたような理由かもしれません。

日本で本格的なボランティア活動が浸透したのは、阪神淡路大震災の時です。1995年をボランティア元年と呼ぶゆえんです。多くのボランティアが被災地に駆けつけ、支援活動を行ったことで、ボランティア活動の重要性が認識されました。お金に余裕のある人だけでなく、貧しい人でも自発的に支援活動に参加するようになりました。ボランティアとは、宗教に関わりなく行われることですが、教会は積極的です。イエス様は誰よりもボランタリーな方でした。教会でも若い時のように、体力的に被災地にボランティアに行くことはできないけれど、せめて募金でという人は少なくありません。

イエス様が5つのパンと2匹の魚で5千人の人々を満腹にさせた物語があります。弟子たちがイエス様に、もう群衆を解散させた方が伝えたとき、イエス様は、あなた方が食べ物を与えなさいと弟子たちに命じられました。戸惑った弟子たちは、ここにはパン五つと二匹の魚しかないと答えたのです。けれどもイエス様は、そのわずかな食べ物を手に取って祝福して分けられると、そこにいた5千人の人々は養われました。

自分たちは何も持たないからと言って何も出来ないというのではなく、マケドニアの諸教会の信徒たちが、力に応じて、また力以上に、自分から進んで献げたように、神の御心にそって自分自身を献げるとき、神は豊かな恵みを与えてくださるのです。