聖書  ルカによる福音書11章37~54節
説教 「律法主義の問題」田口博之牧師

「律法主義の問題」という説教題をつけました。掲示板に貼られた礼拝案内を改めて見ながら、いかめしいと言うか、もう少し何とかならなかったのかという思いも持っています。教会の横を通って、ああこういう話なら聞いてみたいと思う人がおられたとしても、「律法主義の問題」という題では、関心を持つ人はいないのではないか。そもそも「律法主義」という言葉を聞いて何のことか分からない。何か考えたとしても、これはキリスト教の中の問題を扱っている、そう考えるだろうと思いました。

どんな説教題にすればよいか、とても迷いましたが、問題は説教題によりも、この箇所から何を語るかにあります。説教塾の学びで教えられたことの一つに、説教は否定から入らない方がいいという教えがありました。すでに否定から入ってしまったところがありますが、説教が否定から入ると否定で終わってしまう。それはよくないのだと。もう一つ言われることは、説教が律法主義的になっていないかということです。律法主義的な説教だと、聞いていて叱られた気分になる。礼拝に来て福音が聞きたい、喜びに満たされたいと思ってきたのに、落ち込んで帰らねばならない、それではいけないという批判です。

その意味では、今日の聖書テキストは、律法主義者との闘い、律法主義に対する批判なので、否定的なことを語ったとしても問題ないではないか、そういう考え方もできます。だとしても、ここでのイエス様の口調はとても厳しいです。ここから福音を語る、喜びを聞き取るのは難しいことです。イエス様らしくない言葉が続きます。ですから、聖書学者の間でも、これは実際のイエスの言葉ではなく、その後の教会の状況を見て、イエスが語った言葉として付加したのではないかという人もいます。新約聖書が書かれた時代、それはパウロもぶつかった問題でしたが、ルカの共同体においても、ファリサイ的な律法主義者との戦いがあったのです。

ところで、律法主義とは一体何でしょうか。律法主義の問題とはいったい何でしょうか。まず確認しとおきたいことは、「律法」と「律法主義」とは違うということです。律法というのは、ヘブライ語の「トーラー」。広い意味では、旧約聖書の初め、モーセ五書とも呼ばれる「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」を「トーラー」=「律法」と呼んでいます。イエス様が「律法」と言われる時には、「預言書」と共に「旧約聖書全体」を指すことになります。

「律法」という漢字をひっくり返せば「法律」になります。しかし、似て非なるものといってよいでしょう。律法の中心に十戒があり、確かに「法」という形を取っているように思いますが、実際には「教え」に近いです。なぜなら「法」であれば、通常は三人称で表現されますが、「律法」の場合は、主なる神が、その民に向って、「あなたがたは」と、親しく二人称で語りかけた言葉だからです。律法の根底にあるものは、神と民との契約です。律法は、一方的な「神の愛」に基づく契約の言葉です。

では「律法主義」とは何でしょうか。もともとユダヤ教は神殿での祭儀中心の宗教でしたが、バビロン捕囚で国が滅んだときに、律法に背いた罪による裁きという問い直しが起こり、律法を専門に解釈する学者たちが生まれました。エルサレム神殿でなくても礼拝できるように、各地にシナゴーグと呼ぶ会堂が作られるようになり、そこでは律法が朗読されて、それが律法の専門家たちによって解釈されるようになり、これがユダヤ教の中心になってきたのです。

狭い意味で「律法」と呼ばれる教え、戒めを数えると613あるようです。613とは多いようでそうではありません。それは神からの教えの大枠を示しているにすぎません。教会にも教憲・教規があり、各教会には教会規則がありますが、たとえば長老を選出する場合でも、受洗して何年とか、年齢制限とか、休職期間のあるなしは、教会の内規とか細則によって規定されることが多いのです。細かな決め事がどうしても必要になってきます。律法をきっちり守ろうとしたとき、こういうケースではどうなるのか、これは許されるのか、許されないのか、細かな取り決めが必要になりました。そのようにして律法とは別に口伝律法といって、律法学者たちによって定められた細かな規定ができてきました。聖書にも「昔の人の言い伝え」という言葉が出てきますが、それを指します。

今日のテキストに、ファリサイ派の人々と律法の専門家という二つのグループが出てきます。律法の専門家の多くはファリサイ派の出身ですが、これを区別するとすれば、律法の専門家とは、言葉通りですが、律法を専門的に研究する人、学者です。イエス様がよく「先生」と呼ばれるのは、律法の専門家として見られていたからです。他方、ファリサイ派というのは、律法の専門家たちの教えを忠実に守り実践する人たちです。

この律法の専門家とファリサイ派によって、ユダヤ教が律法主義化していきました。口伝律法を忠実に守る、律法の専門家やファリサイ派のような人にならなければ救われないと。憐れみ深い神は、文明の栄えた大国エジプトや、メソポタミアで興った国々の脅威に常にさらされる小さなイスラエルを、ご自身の契約の民とし律法を授けました。律法は恵みの言葉に他ならなかったのですが、ユダヤ教が律法主義化することで、律法が与えられた自分たちこそが特別な存在だとする選民思想が生まれ、同じユダヤ民族であっても、律法を守ることのできない人々を差別するようになってしまった。律法主義によって律法の本質が失われてしまったのです。

そこで、律法の本質を取り戻すために登場したのがイエス様でした。だからイエス様は、自分が来たのは、律法を「廃止するためでなく、完成するためである」と言われたのです。人を差別する物差しになっていた律法主義ではなく、律法の本質は「神を愛し、隣人を愛する」ことに尽きることを教え、ご自身の生涯において身をもって示すことにありました。

今日の説教、「律法主義の問題」という説教題から伝えたかったには、そのことであって、ルカのテキスト11章37節から54節という長い箇所の細かな部分を解説することは目的としていません。それでも、この箇所でイエス様が、ファリサイ派の人々と律法の専門家とを激しく非難することになった、発端の部分については触れないわけにはいかないと思います。

ここでまず確認しておきたいことは、イエス様はファリサイ派の人から食事の招待を受けているということです。食事の招待をするのは、たいていは親しい間柄です。するとファリサイ派や律法学者とイエス様との関係は、わたしたちが想像する以上に近かったのではないかと考えられます。深読みすれば、彼らがイエスを陥れる場にしようと企んだといえるかもしれませんが、イエス様が彼らの食事の招きに応える場面は他にも出てきますし、イエス様が招待を拒むということもありません。ここでは対立しましたが、互いに認め合う場面も出てきます。聖書を読むと、先ほどの「神を愛し、隣人を愛する」ことが、もっとも大切な掟だという理解は、律法学者たちも持っていたことが分かります。問題は、それが頭で分かっていたとしても実践されるまでには至らなかったことです。いや、隣人を愛することが大切であることを知り、実践もしていたけれど、それは極めて限定された隣人であって、あの人の隣人になるということまでは及ばなかったのです。

今日の場面で、なぜ両者が対立したのかといえば、食事に招かれたイエス様が、身を清めないままに食事の席に着いたことにあります。食前に身を清めるというのは、言いかえれば手を洗うということです。特にコロナの問題が起こっている今、イエス様が手を洗わなかったとすれば、わたしたちは律法主義者でなかったとしても、注意しないわけにはいきません。

しかし、ここで問題となっているのは衛生上のことではなく、宗教上の問題、言いかえれば律法主義の問題です。この時代、穢れを清めるために手を洗う時のしきたりまでもが、言い伝えられた律法となっていたのです。ここで手を洗う水も、聖別された樽に汲み分けたところから、手に水を注いで肘まで伝わせ、今度は肘に水をかけて手の先に伝わせる。そうした作法を長い時間をかけることで穢れを落とすことが、しきたりのようになっており、ファリサイ派の人たちは一挙手一投足を吟味していたのです。ところが、そのような身の清め方は、実際の律法にはないので、イエス様は行おうとはしなかったのです。

ファリサイ派の人は、それを見て不審に思いました。聖書は「不審に思った」であり批判したとは書いていません。ここは食事の席だし、今何か言うとせっかく用意した食事も美味しくなくなる。不審に思いながらも、今は黙っておくかと、大人の対応を考えたかもしれません。ところがイエス様の態度は違いました。彼の不審を察知すると、言い返す隙を与えないほど、非難の言葉をたたみかけるのです。ファリサイ派の人は、さぞかし面食らったに違いありません。招いた客にどうしてここまで言われなければならないのか。わたしたちがこの場に居合わせたとすれば、イエス様のほうが非常識も甚だしい、そう思うのではないでしょうか。

しかし、イエス様はお構いなしです。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」と非難します。

イエス様はここで、形式的に外面だけが整っていれば内面は問題なく、すべてが事足りると考えている。そこに律法主義の問題があるのだと指摘したのです。食事の席に招かれたのに非常識ではないかと言いましたが、食事をお腹いっぱいいただいてから、「ところで」と言って非難の言葉を向ける方ではなかったということです。むしろ、食前に告げることで、律法主義の問題性に早く気づいてほしかった。そういう思いだったのではないでしょうか。

続いて語られる十分の一の献げ物の問題も、十分の一という形だけ整えれば、心は伴わなくても問題なしという姿勢を、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と批判します。ある牧師が「献金は信仰のバロメータ」だと本に書きました。その通りです。しかし、たくさん献げていれば、その人の信仰が篤いということにはなりません。献金とは、今日も命を与え、教会へ導いてくださった神への感謝と、時も体もすべてを神にお献げすることの目に見える献身のしるしを献金という形で表したものです。大事なことは、イエス様がレプトン銅貨2枚を献金として献げたやもめを見て、「誰よりもたくさん入れた」と言われたように額の大小が問題ではありません。これを献金して痛いなと思わなければ、たくさんしたことにはなりません。レプトン銅貨とは最小の単位の硬貨ですが、やもめにとっては大きな財産です。それを1枚入れて1枚残すこともできたのに2枚入れたのをイエス様は見られたのです。

イエス様は、形式的な律法主義では、神にどう見られるかよりも、人にどう見られているかの方に傾いてしまう問題性を指摘します。「あなたたちは不幸だ」と、42節、43節で繰り返し語るのです。その場にいた律法の専門家が、口を挟まずにはいられなくなって、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言うと、間髪入れず「あなたたち律法の専門家も不幸だ」と批判します。46節、47節、52節で、繰り返し語ります。厳しい裁きの言葉です。

その結果、53節にあるように、律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様に激しい敵意を抱くようになりました。イエス様が何も言わなければ、敵意など抱かれなかったのです。しかし、何も言わないわけにはいかなかったのです。敵意を抱かれたとしても、律法主義の問題を糾すことを使命とされたのです。

誰も好んで敵を作りたいとは思いません。毎月発行している「長老会だより」の最後のところに、「日本基督教団信仰告白のミニ解説」を載せています。これについて、これまで特にコメントしませんでしたし、コメントを頂いたこともありませんが、わたしたとしては毎回大切なことを書いているつもりです。

今月は「洗礼と聖餐」の二つの礼典について、特に「洗礼から聖餐へ」という順序のことを触れました。あの記述は、ある立場の牧師たち、つまり「洗礼から聖餐へ」という順序にこだわらなくてもいいではないかと考える牧師たちからすれば、癇に障る主張として見なされます。そう考える牧師たちの多くは、周りの人はパンと杯を取っているのに、洗礼を受けていないというだけの理由で取ることができないとすれば疎外感を受けてしまう。それは差別ではないか。イエス様は差別するようなことはなさらない筈だと主張する。

特に現代は多様性を大切にし、違いを認め合うことの大切さが主張されます。わたしは、そういう主張はよく分かります。けれども、その考えを理解し、色々あっていいよねと済ませてしまっては、教会が聖餐共同体ではなくなってしまうという危惧を覚えます。最後の晩餐で、イエス様が「これはわたしの体」、「わたしの血」と言って、パンと杯を配られたことを思い起こすとき、洗礼を受けていなくても、信じている方はどなたでもどうぞ、という司式を執行することはできません。そのように言うことで敵を作ったとしても、個人の主張ではなく、教会のいのちに関わることとして済ますことはできない。

教会はイエス様がわたしたちのために十字架に死なれ、復活されたことを信じた人々が集められるところに建てられていきます。イエス様は律法主義と戦われましたが、時代の精神を認める考えでなければという律法主義も生まれることもあるのです。名古屋教会が神の御前に喜ばれる教会として堅く立ってゆけますように。