コリントの信徒への手紙二5章6~10節
「主に喜ばれる者でありたい」田口博之牧師
人は死んだらどうなるのか。この問題に正しく答えることが、教会には求められています。それは神の主権に関わることですので、「このようになります」と答えることは危険な面もあります。しかし、わたしたちには、その答えを導く指針が与えられています。その指針とは聖書です。先週学んだコリントの信徒への手紙二5章1節から5節において、パウロは地上の命を「幕屋」すなわち仮の住まいにたとえ、死んだ後も、神によって「天にある永遠の住みか」が備えられていると語りました。死は終わりではなく、新しい命の始まりだというのです。これはパウロの考えというより、聖書全体を通して言われていることです。その根本がイエス・キリストの復活です。
パウロが、永遠の命と体の復活を確信するにいたったのは、その保証として“霊”が与えられているからです。聖書で、ダブルクォーテーションマーク付きで書かれてある “霊”は、聖霊のことです。聖霊は、信仰者に与えられる賜物です。聖霊は「見えないものを見るまなざし」を与えます。そのまなざしを与えられたものは、死んだ後の希望を持つことができます。
だからこそパウロは、「それで、わたしたちはいつも心強いのです」と言うことができたのです。8節でも再び「わたしたちは心強い」と言っています。どうでしょう、こういう言葉を聞くと、どこかホッとするのではないでしょうか。「心強い」とは、わたしたちが日常使う言葉だからです。遠いと思っていた聖書の言葉が近くに感じられます。4章を読んだ時にも同じことを思いました。パウロは「わたしたちは、落胆しません」と繰り返し語りました。わたしたちは、落胆します。心強いと思うことは少なく、すぐに心が弱くなります。ふとしたことで強められることがあったとしても、そんなに長続きしないのです。そして落胆します。でも、パウロは落胆しなかったし、いつも心強くあったのです。
「心強いのです」という言葉、新しい聖書協会訳では、「安心しています」と訳されていました。心が強くされているときは、安心しています。一方で心が弱いきには不安になっていす。なぜ自分の心はこんなにも弱いのか、嘆きから抜け出せなくなるときもあります。わたしたちの生活にはうめきがあります。苦しい時に、「うーうー」とうめいていれば、楽になったような気がすることがあります。しかし、パウロは「わたしたちはいつも心強い」と言うのです。「わたしたちは落胆しません」と言うのです。神の力である聖霊が与えられているからです。
ところがパウロは、「わたしたちはいつも心強いのです」と言った後で。「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」と述べています。体を住みかとしているとは、この世で生きているということです。この世で生きている限り、主から離れているというのは、見えるものに頼って生きているからです。そのことを7節では、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と言いかえています。「信仰によって歩む」のは、この世での歩みです。永遠の住まいに迎え入れられたなら、信仰は必要ないのです。それはおかしな言い方に思われるかもしれませんが、その時には、自分は信仰が足りないなどと悩まなくてもいいということです。主と顔と顔とを合わす交わりに生かされているからです。
パウロは愛の賛歌と呼ばれるコリントの信徒への手紙一13章12節で、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と言いました。信仰によって歩むとは、見えないものに目を注いで歩むことですので、鏡でおぼろに映ったものを見ているにすぎません。イエス様のことを知っているといっても一面しかわかっていないのです。
ですから、この世にあっては信仰理解の違い、福音理解の違いというものが生まれます。おぼろにしか見えていないので、見え方が違うのです。イエス様の見方も、自分の眼鏡で見ているようなところがあります。時にその眼鏡は偏っています。ピントが合っていない。信仰は神から与えられたよきものではありますが、あくまでこの世でのものです。希望もそうだと言えます。主のみもとに行けば信じようと思わなくても自ずと信じているし、希望を持とうと思わなくても希望に包まれているからです。
だから13節で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と続くのです。愛はこの世のものだけでなく永遠だからです。その意味でいえば、この世に生きる限りでは、どれほど神に愛されているのか、「神は愛です」と言いながら、わたしたちは十分わかっているわけではないのです。それほど神の愛は計り知れることができないのです。
だからこそパウロは8節で、「わたしたちは、心強い」と言うものの「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。「体を離れて、主のもとに住む」とは、自分は地上の生に未練はない、早く主のおられるところに行きたいということです。信仰者の歩みは「すでに」と「いまだ」の中間に生きていると言えます。わたしたちはすでに救われています。それは決して曖昧なものではないけれど、生きている限りわたしたちの信仰には揺らぎがあります。不信仰に誘われてしまいます。その意味で、いまだ救いは完成されてはいません。だからこそ、「御国を来たらせたまえ」と主を待ち望んで生きるのでしょう。
わたしたちは将来の完全な救いが約束されていますが、そこに至る前に最大の関門が待ち構えています。10節に「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち」という言葉が出てきます。誰であれ、キリストの最後の審判を受けなければならないのです。キリストの審判を受けるときには、「善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」とあります。
わたしはよく、コリントの信徒への手紙二4章16節から5章10節を葬儀のテキストとすることがあります。昨日の納骨式でもそうでした。すると言いながらもたいていは、5章5節で終えています。それは説教が長くならないように、10節までだと式次第の1ページで収まりにくいのという実際的な理由もあるのですが、いちばんの理由は、10節に語りにくさを覚えるからです。
わたしたちは誰であれ、キリストの裁きの座の前に立つことになります。わたしも立ちますし、皆さんも立ちます。今生きている人ばかりでなく、死んだ人も立つのです。キリスト者だからといって主の裁きの座に立たない人はいません。マタイによる福音書25章31節以下が思い出されます(新約50p)。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」王は右側の羊グループの人々には祝福の言葉を授け、左側にいる山羊グループの人々には呪いの言葉を言っています。その判決にいたる判断材料が何かといえば、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした」のか、しなかったのかということです。
恐ろしい言葉だと思います。10回はそのようにしたとしても、1回はしなかっただろうと主から言われれば、心当たりがないなどとは言えません。しかし、そのように指摘されるとすれば、救われることは決してないと思います。自分もそうだけれど、救われる人は一人もいないと思えます。最後46節には「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」で終えています。自分にとってただ一度のこと、忙しさにかまけて、後回しにしてしまうことがありますが、それが永遠の命と永遠の罰の分かれ道になったとすれば、たまったものではないと思わされます。
しかし、そのような恐れを持つ読み方を聖書は求めているわけではないのです。この右側の羊さんの列に並んだ、主から祝福を受ける人は、「わたしたちはいつそのようなことをしたでしょうか」という答え方をしています。明確な心当たりがないのです。特別なことをしたという自覚がないのです。それは何かを誇るような生き方はせず、自然な生き方をしてきたということです。「それでいい」と言われるのです。「あなたのおかげ」、「あなたに助けられた」と言われるようなことはしてないとしても、「あなたがそこにいるだけでほっとする」。だれかに慰めを与えることのできる存在になっている人は大勢います。そういうところを主は見つけてくださるのです。
他方、左側の山羊さんの列に並んだ人たちは、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と言っています。この人たちは、自分がお世話をしたことは覚えていても、お世話しなかったことに対しては無自覚なのです。イエス様は、そこに気づいて欲しいので、こういう話をされているのです。
「コーラム・デオ」という言葉があります。主の御前にという意味の言葉で、わたしが大切にしたいと思っている言葉です。わたしたちは、特別な時だけではなく、いつどんな時でも、主の御前にいることを自覚することが大切です。日曜日の生活とウイークデーの生活は区別されるものではないのです。主はいつも共にいてくださるのですから。礼拝のときだけ畏まる必要もない、いつも主の御前に安心して生きたらよいのです。そこに救いがあります。
わたしたちの地上での歩みが欠けたものであったとしても、イエス・キリストの十字架と復活の救いによって、わたしたちは罪赦され、主のもとに迎えられます。それは間違いないことです。隠れたことをいっぱいしているとしても、恐れることはないのです。ではなぜパウロは、このような裁きの話をするのでししょうか。
昨日、車でラジオを聞いていたとき、Nコン、NHK合唱コンクールの課題曲が流れていました。それを聴きながら、テレビで何度か見た結果発表の様子を思い出していました。そこで表彰されるチームもあれば、されないチームもあります。金賞や銀書を取って、ブロック大会、全国大会に進めるチームはほんの一握りです。では、よい賞を取ったチームだけが報いを受けたかといえばそうではないのです。合唱で県大会に出てテレビに出たというだけで、努力したことの報いを受けているとはいえないでしょうか。
パウロはずっと「わたしたち」を主語として語っています。5章だけを取ってみれば「わたしは」と1人称単数で語ったのは、5章11節に「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」と一度あるだけで、それ以外はみな「わたしたち」と1人称複数を主語に語っています。ここでいう「わたしたちは」とは、手紙の差出人であるパウロとテモテのことでなく、手紙の読み手すべてを視野に入れて「わたしたちは」を含んで語っています。将来の救いが保証されたわたしたちですから、呪われることはないのです。Nコンに出たのに、テレビに映らない。そんな仕打ちを受けることはないのです。主がわたしたちを愛してくださっているからです。誰であれ相応の報いを受けるのです。でもそこには差があるとことも事実です。
先週の聖書研究祈祷会で尹先生が最後の奉仕をしてくださいました。6月16日をもって韓国に帰られると言われました。15日の地区総会に出てからと考えたので16日です、律儀な方です。宣教師であれば、7年に一度は取るべき安息年休暇を一度も取ることをせずに、21年間日本で続けて働かれました。来週のペンテコステで地元の民生委員の方が洗礼を受けられると言われました。それは尹先生にとって、何よりの報いだろうと思いました。種を蒔く人のたとえをテキストに語られましたが、イエス様が固い地を良い土地にするために土をならしつづけてくださることを信じて、種を蒔き続けたことの報いを神はくださったのです。洗礼者一人の実りは30倍、60倍、100倍にも匹敵する実りです。30倍だからと言って100倍よりも少ないかといえば、そういうことはありません。それは神様の計算式ではないのです。
やはりマタイによる福音書25章にタラントンのたとえがあります。ある主人があるものに5タラントン、あるものに2タラントン、あるものに1タラントン預けて旅に出て行ったというたとえです。わたしたちは何でそんな差をつけるのかと考えてしまいますが、持って生まれたものには差があることを、わたしたちは体感しています。そこに文句を言っても仕方のないことです。スポーツ選手でいえば、大リーガの大谷選手、横綱になった大相撲の大の里は、体の大きさからしても、初めから与えられたタラントンは一般の人とは違います。でも、彼ら以上のタラントンを与えられている人もいるはずなのです。与えられたものをどれだけ用いるのかが分かれ目です。5タラントンの人が1タラントンしか用いないことと、1タラントンの人が1タラント用いるのとはまったく違います。主は与えられた賜物を、精一杯に用いれば用いる人を喜んでくださり、そこからさらに大きなタラントンを与えてくださる。それが報いです。しかし、最初から報いを求めて行うことではないのです。
9節でパウロは、「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれるものでありたい」と願っています。わたしたちが求めるのは、主から与えられる報いではなく、主に喜ばれる者として生きるということです。なぜ、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言うのでしょうか。いや、なぜと言っても理由などないのではないでしょうか。その人を愛すれば、その人を喜ばせたいと願うはずだからです。愛する人が喜んでくれれば、家族がいつも笑顔でいてくれれば自分は嬉しいと思う。辛い思いをしていたら、その辛さを分かち合って、荷を軽くすることができれば、そう考えるのではないでしょうか。それが愛です。パウロは主を愛するがゆえに、主を喜ばせたいと願いました。「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と思ったのです。
パウロは、どんなときでも、主に喜ばれる者となるようということを人生の目的とした人でした。地上を離れて主のもとで主と共に生きることを憧れつつも、地上の生活を無意味だとは考えはしなかったのです。いや、地上に生かされている今こそが、主に喜ばれる生き方をすべきだし、そうありたいと思ったのです。
そのように生きれば「キリストの裁きの座の前に立つ」という言葉も、今を生きる励ましの言葉になるのではないでしょうか。わたしたちが主と会いまみえるのは裁きの日ですが、わたしたちはその日を恐れの日ではなく、慰めの日として待ち望むのです。あなたは救われるという保証が与えられています。裁き主として来られる主は、わたしたちの罪を背負って十字架にかかってくださった愛の主だからです。イエス様は、最も重要な掟として、「神を愛し、隣人を愛すること」を教えられました。この掟は、昨年1年かけて学んだ十戒の中心です。わたしたちが、このことを主に喜ばれる生き方の土台として歩むことを主は望んでおられます。