ヨブ記1章21節 コリントの信徒への手紙二 5章1~5節
「確かなるものを求めて」田口博之牧師
わたしたちは、見えるものに囲まれて生きています。家や仕事、健康や人間関係、すべて見えるものです。それらが順調な時には、わたしたちに安心や満足を与えてくれることでしょう。この幸せがいつまでも続いて欲しいと願うことがあります。けれども、見えるものというのは、時に大きく揺らぎ、崩れてしまうのです。思ってもいなかった病気、リストラ。経済的困難、大切な人との死別。わたしたちはそのような時に、「本当に確かなものはあるのか」と、自らの存在の根っこを揺さぶられるような思いを抱かざるを得ません。見えるものに振り回されない生き方が求められます。
サン・テグジュベリの「星の王子様」に出てくるきつねは、「心で見なければものごとはよく見えないってこと。 大切なことは目に見えないんだ」と王子に語りました。この言葉は、4章18節の「見えないものは永遠に存続するからです」という言葉と響き合っています。見えるものを頼りにしてしまうわたしたちですが、ほんとうに大切なもの、確かなるものはわたしたちの目に見ることはできないのです。
今日は、コリントの信徒への手紙二 5章1節から5節をテキストとしましたが、新共同訳聖書の小見出しで明らかなように、4章16節から5章10節までは、一つのまとまりと考えるべきところです。そこを3回に分けて説教することになりますが、それは1回の説教では語り尽くせないほど内容が豊かだからです。
パウロはこの流れの中で「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」と言っています。ここでパウロが、「地上の住みかである幕屋」と言っているのは、目に見ることができるわたしたちの肉体のこと、地上の命のことです。「幕屋」とは、すなわちテントのことです。パウロは伝道者になってからもしばらくは、テント作りをしていました。幕屋のことに詳しかったパウロならです。わたしたちのこの体も、時とともに衰え、やがては朽ちていくものなので、テントと同じだと「地上の住みかである幕屋」とたとえたのです。
しかしパウロは、「地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている」ことを知っていると言って、地上での命を終えてからの話をします。元気な時には死んだ後のことを考えることはありませんが、死ぬほどの迫害に遭ったパウロは、死後の世界について何度も考えたのです。死について考えるということは、見えない世界を見ることになります。パウロは、この命、幕屋が滅びても、「天にある永遠の住みか」が備えられていることを確信することができました。その住みかは目に見えないものですが、パウロは見えないものを見る信仰の眼差しを持っていました。ヘブライ人への手紙11章に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。見えないものを見つめること、それこそが信仰者の目です。
地上での命を幕屋にたとえているということは、わたしたちは地上では旅をしているという意味でもあります。聖書研究祈祷会ではずっと、出エジプト記の幕屋について学んでいます。エジプトを出たイスラエルの民は、幕屋を移動させながら荒れ野の40年を旅して約束の地を目指しました。聖研に出られた方は、その幕屋が思いがけずしっかりした高価なものであり、テントをかけて畳むようなものとは違うことを知るところとなっています。それでも幕屋は幕屋です。荒れ野に定住したわけではありません。イスラエルの民は40年かけて約束のカナンの地に入りました。
パウロは地上の旅を終えた後、約束の地で憩うことができることを、幕屋と神によって備えられた建物というイメージで語っています。その建物は、幕屋のように人の手で造られたものではないので壊れることがなく、永遠の住みかとなるのです。
死んだ後、わたしたちはどうなるのか。イエス様もすでに答えておられました。ヨハネによる福音書14章で言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
見えるものと違って、見えないものには確かさがないように思えます。しかし、わたしたちが見ているものは、ほんの一部です。聖書はわたしたちが見えていないものを見させてくださいます。聖書が示された見えないものに目を注ぐとき、わたしたちは確かな平安を与えられます。それなのに、見えるものに心を奪われてしまっているとすれば、今をいかに楽しむかということに心を捕らわれていることになります。そうだとすれば、この世の人と変わらないことになってしまいます。
中世ヨーロッパの修道士たちは、日々「メメントモリ」と言って挨拶を交わしたと言います。「死を想え」「死を忘れるな」という意味を持つ言葉です。疫病や戦争で死が日常になっていた時代にあって、人間の命がいかに儚く、死がいつ訪れてもおかしくないという事実を受け入れ、神への信仰を深め、倫理的な生き方を追求した結果です。わたしたちもがんになるなど、大病を患ったときには死について考えます。しかし、病気について語るほどに、死については語ることはしません。そこには恐れがあるから、避けたいと思うからでしょう。
コロナを契機に病院にお見舞いに行くことが少なくなりました。最近は入院されている方が少ないということもありますけれども、以前はよくありました。末期の方は、自分はあまり長くないことを悟っています。そのときに死んだ後のことを話される方がいます。それは牧師だからかもしれません。ところがそこに家族が一緒にいる時に、そんな弱気なことを言ってはダメと、家族が言葉を遮る場面に出会うことがよくありました。その気持ちも分かるので、口を挟むことはあまりしませんでしたが、死んだ後のことを話しておくのは大切なことです。間違いないことは、メメントモリ、死について想うことを日常とすれば、あえて避ける必要はないのです。死後の問題にどう答えるのかが、宗教の役割だとも言えるのです。
パウロが5章で述べているのは死についてです。多くの人は死を苦しみや悲しみとして捉えていますが、幕屋のように朽ちるものではなく、天にある永遠の住みかが備えられていると語ります。そこには平安があります。ところが2節に「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と言っています。「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」いるのであれば、それは楽しみなことであって、苦しみもだえる必要はないのではないでしょうか。また4節に「うめいております」とあります。「苦しみもだえる」ときに言葉を発しても、それはうめきとなります。肉体を持って生きる人間の弱さが現れています。
パウロはたびたび「うめき」という言葉を使いました。ローマの信徒への手紙8章でも、「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言っています。おそらくパウロは、将来、神の子とされる希望を与えられていても、今の自分は救われるにはふさわしくないのではないか、こんな自分が救われることへの葛藤があり、それがうめきとなったのではないでしょうか。
しかしかし、パウロはそういう中にあって、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望みました。そして今日の第二コリント5章2節と4節で「天から与えられる住みかを上に着たい」と繰り返し語っています。苦難の現実、罪ある自分に心を奪われてはいないのです。それは見えるものばかりでなく、見えないものに目を注ぐまなざしを持つということです。自分を見つめて罪の自覚を持つことは大事なことですが、そこに留まって神の約束に目を留めることがなければ、希望はありません。キリスト教は自力宗教ではないのです。誰かを傷つけたとき、その人に赦していただかなければ赦されたことにはならないでしょう。神との関係においては尚更です。そう思えば「うめき」が、ただの苦しみから来るうめきではなく、救いの完成を待ち望む、魂の深い切望から来るうめきであることが分かります。
ところでパウロは、「地上にすみかである幕屋」と「天にある永遠の住みか」という言葉で、この世の命と死後の永遠の命をたとえました。ところが、2節から4節を読むと、住みかを脱ぐとか着るとか脱ぐとか、住まいのことを衣服のように表現しています。また3節には「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」と言っています。これは不思議な表現です。
義人ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言いました。この言葉は、「人は何も持たずに生まれてきたし、死ぬときも何も持っていけない。財産も家族もすべて神から与えられたものなので、主なる神がそれを取り去られるとしても、わたしは主の御名をほめたたえる」という信仰の言葉です。
パウロはこの言葉を意識して、生まれたときのように裸で神のものに帰ると言ったのですが、死んだ後は、天から与えられる住みかを着ることになるから、裸のままでいることはならないというのです。パウロがこのようなことを語ったのは、ギリシャ的な霊肉二元論的な救済との違いを明らかにするためでしょう。ギリシャ思想における救いは、肉体の牢獄から魂が解放されることにあります。だとすれば、死によって肉の衣を脱ぎ捨てるのですから、裸のままで構わないことになります。
ところが、聖書の救いはそうではなく、肉体も神が造られた良いものだと考えるからです。地上の住処を脱ぎ捨てたいと言っているのではなく、天から与えられる住みかを上に着ることを切望しているのです。地上の命が終わるときには、魂と肉体は切り離されますが、切り離されて終わるのではなく、復活の新しい体が与えられるのです。そのことが「天から与えられる住みかを上に着る」という言葉で表現していると考えることができます。
パウロは復活の体について、すでにコリントの信徒への手紙一の15章で詳しく語っていました。復活の体についてずっと語ってきて結びとなる15章 53節で「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と、着るという言葉を用いて復活の体が与えられることを言い表しています。復活の体は地上の体のように朽ちることはない、死ぬことはないのです。
さらに念押しするように「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と、旧約聖書の言葉を引用しつつ、死に対する完全勝利を宣言しています。
「牧師より」に書きましたが、かつて結婚式をした方が逝去されて先週の月曜日に葬儀をしました。大学2年の長女と高校3年の長男がおられます。先週の礼拝が済んでから桜山教会に向かって納棺の祈り。その後は前夜式のような形ではなく、2時間ほど時間をとって弔問の方の挨拶を受けるビューイングという形で、故人との別れの時間を持ちました。たくさんの方が来られていましたが、若い方であり、闘病されていたことを知る人も多くはなく、嗚咽される方が大勢いらっしゃいました。1年3カ月の闘病は本人もご家族もきつかったと思いますが、死と別れに対する備えができていたようにも感じ、特にお子さんたちが明るく振舞われていたことは慰めでした。
信仰を持ったご家族ではありませんでしたが、22年前に結婚式をした牧師に葬儀を頼もうと思われたことも神の働きかけがあったのだと思います。4月から八事斎場が建て替えということで、港区の第二斎場で火葬を行いましたが、時間短縮が求められ向こう3年間は、着いたらすぐに火葬するという決まりとなったため、桜山教会から出棺する際に、火葬前の祈りをして今日の御言葉を読みました。ご遺族がすべてを神に委ねる思いになり復活の希望を持てたったとすれば幸いなことです。
死んだらどうなるのか、その答えを示すのは宗教の役割と言いながらも、簡単なことではありません。どんなに言葉を重ねても、ほんとうにそのようになるという確証はありません。やはりこれは信仰の事柄と受けとめるしかないのです。それでも聖書の言葉にはブレはありません。死後の命の信仰の確かさについて、5節では、「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」と語られています。
わたしたちには多くの罪があります。罪が赦されたといっても罪の残滓があります。けれども、天国に行けるかどうかと心配する必要はありません。神は死後の救いの保証として霊を与えてくださっています。そもそも死んだ後の救いを考えるということは、人間は霊的なものを持っているからです。そして霊が与えられている人の特権として、これもローマ書8章で言われていることですが、わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。聖霊もわたしたちと一緒にうめいてくださる。それは大きな恵みです。
わたしたちの命、地上の幕屋は壊れゆくものですが、神様は天の住まいを保証してくださっています。揺れる世界の中で、「確かなるもの」を求めて歩むわたしたちを神は祝福してくださるのです。