詩編68編20~21節  コリントの信徒への手紙二4章16~18節
説教  「見えないものに目を注ぐ」田口博之牧師

パウロは16節で「だから私たちは落胆しません」と語ります。「落胆しません」というこの言葉は4章1節にもあり、確か3月に「落胆しない」という題で説教していました。コリントの信徒への手紙二というのは、落胆しない人生の秘訣を語る手紙ということもできると思います。羨ましい限りです。とはいえ、落胆しない人がいるでしょうか、言い方を変えればがっかりしないということです。わたしたちの人生は、がっかりすることの連続ではないでしょうか。

では、なぜパウロは落胆しないと言い切ることができたのでしょう。伝道には落胆がつきものです。家族を教会に誘ってもちっとも来てくれないと落胆することがあります。落胆したくないから誘うことを止めてしまうことをします。パウロの場合は、誘っても誰も来てくれなかったという程度ではなく迫害されたのです。かつて伝道したコリントの信徒たちの心が、自分から離れていったのです。これはとても辛いことです。ではどうして、「落胆しません」と言えたのでしょうか。

その理由を示すように、「だから」という言葉が使われています。すると、その前のところで落胆しない根拠となる言葉が語られてきたということです。パウロが落胆しなかった理由として、二つのことを挙げることができます。一つは、土器186号の巻頭説教で振り返ったことですが、「土の器に納められた宝」です。わたしたちは土の器に過ぎませんが、神から与えられた福音という宝を納めているのです。だからこそ、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と語ることができたのです。

もう一つが「復活の希望」です。14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」とあります。キリストの復活こそ、土の器に納めた福音の中心であり、わたしたちにとって確かな復活の約束です。これは死後の希望だけではなく、今を生きる力でもあります。神が死者をよみがえらせるほどの力をもって、今の私たちの人生にも働いてくださる。その確信が、幾度となく打ちひしがれたパウロを立ち上がらせたのです。こうした経験があるからこそ、パウロは「落胆しません」と言うことができたのです。そして、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と語ったのです。

では「外なる人」、「内なる人」とは、一体何を意味するのでしょうか。人間の外面と内面ということでしょうか。考えやすいことは「肉体」と「魂」です。つまり、外なる人とは肉体のことで、内なる人とは魂のことだとする理解です。現実問題として、肉体がだんだん衰えるということは、多くの人が経験します。肉体の衰えを痛切に感じている人もいらっしゃるでしょう。そもそも体力のピークは20代でしょう。スポーツ選手でも、30歳を過ぎれば下降線に入っていき、かつてのような成績が残せなくなります。

わたしが桜山教会に赴任した39歳のとき、小学校4年生の次男と、一度だけ名古屋シティマラソンに出たことがあります。マラソンと言っても5キロの部です。当時はまだ日曜日の開催ではありませんでした。大会の1カ月くらい前から夜に一緒に走りに行きました。次男は小柄でしたが、サッカーをしていたため体力もあり足も速く、39歳と小学校4年生の時点で逆転されたことを感じました。説教でこれを書いているときに、当時家の中で幅跳びをしたことを思い出しました。二人ともだいたい畳の丈180センチ位でしたが、その時点で昔よりかなり跳べなくなったことを感じたものでした。それを思い出したところで止めておけばいいのに、今はどうなのかと思って跳んでみました。今度は畳の巾をようやく超える1メーター程度で、大股の1歩と変わらない、跳んだといっても跳べてないことに愕然としました。当時と比べて米袋15キロくらいを体にまとっているので当然のことかもしれません。

このように肉体、外なる人は衰えていくのです。しかし、信仰のある人は、その魂においては何歳になっても若々しく生きることができる、そんな読み方が成り立ちます。そのような理解は分かりやすいことですし、いくつになってもそのような信仰生活を歩んでおられる方もいらっしゃいます。でもそれは、聖書の本来のメッセージとは少し異なるのです。そう理解すれば、ギリシア哲学のプラトン的な二元論に陥るからです。二元論とは命と死、光と闇というように異なった原理を立てていく考え方ですが、朽ちていく肉体は悪で、朽ちない魂は善、死によって魂が肉体から解放されるという考え方です。

でも聖書はそういう考え方はいたしません。神はご自分に似せて人を造られました。肉体を伴った人をご覧になって「極めて良い」と言われたのです。肉体が悪であるならば、体の復活など喜ばしいものではなくなってしまいます。このことはアテネの哲学者たちとの討論で、パウロが受け入れられなかった背景の一つです。しかし、聖書は明確に「体の復活」を語ります。

では、「外なる人」が肉体、「内なる人」が魂ではないとすれば、一体何を意味すると考えればよいのでしょうか。その手掛かりとなるのが18節です。パウロはここで、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言っています。ここを読んで思わされることは、「外なる人」というのは「見えるもの」に目を注ぐ人。「内なる人」とは「見えないもの」に目を注ぐ人だということです。

「目を注ぐ」の注ぐという字は、注意の注という字です。「目を注ぐ」とは、ただ見ることではなく、注意深く見ることです。なぜ注意深く見るのかといえば、そのことに関心があるからでしょう。あれは一体何だろうかと、立ち止まって目を注ぐ。そうすると、目に見えるものの背後にあるものが見えてきます。何気なく見ただけでは見過ごしてしまっている大切なものが見えてくることがあるのです。だとすると、内なる人というのは、そのように見えないものを見る眼差しを持っている人と言ってもよいのではないでしょうか。

再び個人的なたとえをはさみますが、わたしは2年前のアデノウイルス感染で目を悪くし、眼鏡をかけるようになりました。ところが今年の視力検査でも、裸眼でも1.0あり眼鏡をかける前より良くなっているのです。目薬や眼鏡で矯正しているわけではありません。この眼鏡は老眼が始まった20年前にはすでに作ってありました。では視力が1.0あるのに何で眼鏡をかけているのか。皆さんも定期健診や免許の更新時に視力検査をされるでしょう。アルファベットのCの字のように、円の一部分が欠けていて、右とか上とか、欠けている方向を示すことで視力を測定します。あの時わたしは、円が三つダブって見えているのです。つまり乱視ということですが、だから本を読むときにも字が読みにくい。それでも視力が1.0あるのは、三つ見える円をじっと見ていると、三つのうち一つが濃く見えてくる。あの視力検査の時のわたしは、真実は一つだと言わんばかりに集中して目を注いでいます。それで結果的に1.0の視力を獲得しています。運転するときも、眼鏡は条件ではありませんが眼鏡をかけています。

ただし、このように見えるものに目を注ぐことで真実が見えてくるというたとえは、見えないものに目を注ぐという主題とは少し違います。いくら見えるものを注視しても、それ自体はやがて過ぎ去っていくものだからです。失われるものとは肉体、健康だけではありません。富もそうですし、プライドもそう、社会的地位や名誉などもそうです。この世でそれらを拠り所としても、あくまでこの世でしか通用しません。自分はそんなものは最初から持ち合わせていないから当てはまらないと思われるかもしれませんが、持っていないからこそ、持っている人に頼るということはないでしょうか。憧れたり嫉妬したりすることもあります。しかし、それらを持っている人もまた失われるのです。それら一切のことが、「外なる人が衰えていく」という言葉で表現されているのです。この世で自分が拠り所としていたもの、その一切が意味を失っていく。それがこの世に生きるわたしたちの現実ではないでしょうか。

しかし、「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」とパウロは言うのです。「内なる人」は、見えないものに目を注ぐ目を持つのです。その人は、日々新たにされていくというのです。内なる人とは、この後5章17節にあるように、キリストと結ばれて新しくされた人のことです。これは洗礼を受けた人、クリスチャンのことと言ってもよいと思います。

そうだとすると、「外なる人」と「内なる人」とは、肉体と魂のように切り離されるものでないことが分かります。信仰者は「外なる人」と「内なる人」を併せ持って生きる人です。これをバランスよく持つ人こそが真のクリスチャンだと言ってもよいのです。信仰者は、日々新しくされる内なる人と共に、日々衰えて滅びゆく外なる人も持っているのです。外なる人に注視すると、洗礼を受けても前と変わらないと落胆してしまう。それはバランスを欠いた信仰だと言えます。

信仰者は「内なる人」に目を注ぐべきなのです。「日々新たにされていく」自分、「新しく創造された」自分に目を注ぐのです。その新しさは、自分の努力によって獲得するのではありません。神が恵みによって新しくしてくださるのです。だから目を注ぐべきは、目には見ることのできない神なのです。

詩編68編20-21節には「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神」とあります。このように、主は日々、昨日も、今日も、明日も、わたしたちを担い、救ってくださるお方なのです。そして死から解き放ってくださるのです。この視点を持つことができれば、苦しみの意味も積極的に捉え直して、苦しみの中から神の恵みを見出だすことができるのです。

そのことが17節、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」という言葉に表されています。パウロは「一時の軽い艱難」と呼んでいますが、外なる人の目から見れば、すべての者が滅んでいく。一時でも軽い艱難でもなく、長きにわたる耐えがたい艱難だったのです。それは1章8節以下を見れば明らかなことで、パウロはアジア州で被った苦難について、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言うほどです。なのに「一時の軽い艱難」と言うことができたのは、どれほどの艱難であっても、やがて与えられる「重みのある永遠の栄光」と比較すれば軽く思えてしまったからです。

その意味で「見えないもの」とは、「永遠」という言葉で言い換えることができます。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあるとおりです。歳を重ねるごとに、多かれ少なかれ衰えを感じるようになます。出来ないことが増えてきている。長生きすればするほど、コツコツ蓄えていたお金も目減りするでしょう。お孫さんがいらっしゃる方は、幼い頃にはよく遊びに来ていたのに、大きくなるにつれて遊びにくることも減っていく。そんな経験もします。それは楽なことではありますが、寂しさも拭えません。

でも、使徒信条で告白するように、わたしたちの信仰は「永遠の生命を信ずる信仰です。どれほど衰えを感じ、耐えがたい艱難に見舞われていたとしても、見えないもの、すなわち永遠なるものに目を注ぐとき、目に見える苦難もやがては過ぎ去って行くことを感じるようになります。大いなるものに目を注ぐときに、大きな悩みでも小さく思える経験をするのです。

わたしが信徒の時代、牧師が説教でよく語った言葉が、「終末的に生きる」、「終わりから今を見つめる」ということでした。説教を聴くたびに、それはどういうことかと考えていました。「終末」「終わり」とは、世の終わりのことです。普通に考えれば、世の終わりとは世が滅びていくのですから、恐ろしいことでしかありません。でもそれは、目に見えるもので判断する外なる人の見方です。内なる人は、そういう見方ではなく、世の終わりを滅亡ではなく、完成として見るのです。ヨハネの黙示録21章にあるように、目に見える最初の天と地は過ぎ去っても、「新しい天と新しい地」を見ることができるのです。その時に、目の涙はことごとくぬぐい取られます。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」新しい世界が完成する。それが神の国の完成です。そんな素晴らしい永遠の世界がわたしたちを望み見ることができる。それが「内なる人」の持つ人が持てる眼差しです。

世の中には視野の広い人がいます。広い視野が持てれば、どんないいことがあるか。流行りのチャットGTPに聞いてみたら、1. 他人を理解しやすくなる、2. 柔軟な判断ができる、3. トラブルに強くなる、4. 視座が高まり、自分の立ち位置がわかる、5. 小さなことにとらわれなくなる、6. 他者に希望を与えられる、という6項目の答えが返ってきました。その答えは当然といえば当然なのであり、瞬時に返ってくるという点でAIの賢さには圧倒されます。また、その答えを聞いて改めて広い視野を持ちたいと思わされます。

同時に思わされることは、本当の視野の広さというのは、今日のテキストから拾えば「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことができるということです。そうすれば、「一時」ではなく「永遠」を望み見る眼差しを持つということができますし、「外なる人」の衰えに一喜一憂するのでなく、「内なる人」として新しく生きることができます。

そうすれば自ずと、死の問題の捉え方も変わってきます。人は死んだらどうなるのか、死の問題は人生最大の関心事となります。このことについて、生と死を行き交う経験をしたパウロは独特の見方を持っていました。そのことについては、引き続き次週の礼拝で考えていきたいと思います。