イザヤ書26章1~4節  ヨハネによる福音書16章25~33節
「力強い慰めを支えとして」田口博之牧師

2025年が始まりました。幼稚園は明日が入園式です。教会員のお子さんやお孫さんにも、小学校に入学する子、中学校に、そして大学に入学される方がいます。新しい出会いへの楽しみ、緊張も入り混じって新年度を迎えられたと思います。教会も同じように4月が年度始まりですが、教会には教会の暦という暦があり、年度替わりはたいていイースターの時期と重なります。昨年のイースターは3月31日でしたので、2024年度はイースターがなかったのですが、今年はイースターが遅く4月20日ですので、来週が受難週となります。

今日のテキスト、ヨハネによる福音書16章25節から33節は、13章31節から始まった、イエス・キリストの告別説教と呼ばれる最後のところです。この言葉を語った後、17章では説教後のイエスの祈りがあり、18章からは受難物語に入っていきます。昨日も、バッハのヨハネ受難曲を聞き流ししながら説教を作っていましたが、長い合唱曲が終わったのち、「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた 」という福音史家の独唱によりヨハネ受難曲は始まります。その意味で、受難週に入る前にこの箇所から学ぶのは、教会暦に照らしてふさわしいと言えます。

でもその理由から、このテキストを選んだわけではありません。選んだ理由というのは、16章33節組半の「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この言葉を2025年度の標語聖句としたためです。年度標語は昨年と同じ「慰めの共同体」としました。主の力強い慰めを受けて共々に歩んでいきたい。では主の力強い慰めとは何か、そこを考え思い巡らしたときに、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この聖句が与えられたのです。

実に力強い言葉です。慰められます。イエス様が、この言葉によって告別説教を終えられたということは、これはイエス様の遺言だということになります。イエス様は、さようならと言って旅に出られるのではありません。28節に「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と言っています。「世を去る」とは、死に赴かれるということです。

イエス様が「世を去る」と言った時、弟子たちは「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と答えました。「信じます」、ヨハネによる福音書に記された弟子たちの最初の信仰告白です。弟子たちは、イエス様が神の子であり、父なる神の元に帰られることを信じたのです。

弟子たちがようやくイエス様を神の子と信じた。ならばもう安心かといえば、そうではありません。32節「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来るいや、既に来ている」と言っています。なぜ、弟子たちは自分の家に帰ってしまってイエスをひとりきりにさせるのかと言えば、イエス様が捕らえられてしまい、弟子たちは怖くなったからです。イエス様が神のもとへ帰ると言ったとき、この地上に神の国が実現する。イエス様が神の国の王となり、自分たちは神の国の要職、大臣となる。ユダ以外の弟子たちは、そんなことを考えたのではないでしょうか。ところが、そうはならない。イエス様が捕らえられてしまったからです。怖くなった弟子たちはイエスをひとりぼっちにして、自分の家に帰ってしまいました。

では、自分たちの家に帰った弟子たちは、ほっと一息ついたのかといえば、そんなことはありませんでした。イエス様が復活されたという知らせを聞いた後も、彼らは自分たちの家の戸を閉ざして、中に閉じこもったままだったのです。ユダヤ人たちを恐れて、外に出ることができませんでした。そんな弟子たちのもとにやってきた復活のイエス様は、弟子たちの真ん中に立って「あなた方に平安があるように」と言ってくださいました。

弟子たちが「信じます」と言ったのは、嘘ではなかったと思います。かつてフィリポカイザリアの地で、ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、神の子です」と告白しました。第一コリント12章3節にあるように、「聖霊によらなければ、誰も、『イエスは主である』とは言えないからです」とあるとおりです。弟子たちが「信じます」と言ったことも、ペトロのメシア告白も聖霊によるものです。しかし、人間の信仰は揺らぎやすいですし、誘惑に弱いのです。直後にイエス様が受難予告すると、ペトロは「そんなこと言ってはなりません」とイエス様をいさめ始めます。「信じます」と言った弟子たちが逃げてしまうように、わたしたちの誰もがそんな弱さを持っています。それがわたしたちの信仰の現実です。イエス様はペトロに「サタンよ引き下がれ」と叱りましたが、ペトロをサタン呼ばわりしたわけではないのです。サタンというのは、神を信じている人間を躓かせて、神から引き離すことが面白くて仕方がない勢力です。とても悪趣味ですが、そのわなにまんまとはまってしまうのがわたしたちです。

先月、第二コリントの説教していたとき、4章4節ですけれども、「この世の神」という言葉が出てきたことを覚えておられるでしょうか。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」と書かれてあります。わたしは説教の中で、「この世の神」という言葉は、聖書のここにしか出てきませんが、多くの注解書は、これはサタンのことと解説すると言いました。でもわたしはその解説に対して、「サタンはむしろ、信じようとする人々の心の目をくらます存在です」と話しました。覚えておられた人がいればすごいと思うのですが、いずれにせよ、神を信じなくさせるというのがサタンの企みです。パウロはそれを「この世の神」と表現したのです。

信じる人を邪魔する方法はたくさんあります。神を信じることが喜びであることを忘れさせるような喜びを与える仕方がありますし、もっとも有効な手段はといえば、神を忘れさせるほどの苦難に与らせることです。苦難を与えることで、神の存在すらも疑うのがわたしたちです。苦難の当事者になったときもそうですし、第三者であっても「こんなことが起こるなんて神はいるのか」と呟いてしまう。苦難がこの世の神になってしまう時があるのです。その時、わたしたちの信仰は脅かされます。

イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある」と言われました。苦難はない方が幸いですが、避けられない時が来ます。それでもイエス様は、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われるのです。だから「しかし、勇気を出しなさい」と言うことができるのです。ここに大いなる慰めがあります。「しかし、勇気を出しなさい」これが、今日の礼拝で、いやこの年度を通して聞く言葉です。イエス様は、この言葉を、わたしたち一人一人に語りかけておられます。どれほどの苦難に置かれていようとも、「しかし、勇気を出しなさい」という言葉を聞く。キリスト教信仰というのは、主が語られるこの言葉に聞いて、励まされることだと言ってもよいのです。

「勇気を出しなさい」と似た言葉、いや似ているとは言うと語弊がありますが、励ましを与える言葉に「がんばろう」があります。幼稚園の運動会の開会式では「さあ、がんばろう」と先生が言って、子どもたちも「がんばるぞー」と答えて、競技が始まります。競技の最中にも、つねに「がんばれー」と言って応援します。綱引きの最中には、「がーんばれ、がーんばれ」の大合唱です。その応援に後押しされるかのように、子どもたちは一生懸命頑張ります。

ところが、皆さんも聞かれたことがあるでしょうが、この「がんばれ」という励ましは、注意しなければならない言葉だということが、随分前から言われるようになりました。わたしも牧師になる前、30年以上前に「がんばれ」という言葉は禁句だと教えられました。なぜ「がんばれ」と言ってはならないかといえば、人間には頑張りたくても、頑張れない時が来るから。先輩牧師はそう教えてくれました。それは自身の経験からの言葉でした。「がんばってください」と言われるのが苦痛だ、これ以上どうがんばればよいのか。それよりも「祈っている」と言ってくれた方が、はるかに励まされるのだと。

兄ががんになったとき、すでにリンパ節転移があり、大きな手術はできませんでした。それでも、黄疸を抑えるためなのか、胆汁を外に流すような小さな手術は何度かしました。わたしの母も兄の妻もみな「がんばって」と言って処置室に入るのを見送り、そのたびに兄は親指を立てるしぐさを見せていましたが、わたしだけは「がんばって」とは言いませんでした。先輩牧師の教えを守ってのことですが、実際に頑張るとすれば医者であって本人ではないからと思うからです。兄は信仰のない人でしたから、「祈っている」と、面と向かっては言わなかった気がします。指を立てる仕草も、逆に家族を励まそうと、気を遣っているのではとも思いました。でも、もしかすると、「がんばって」と言って欲しかったのではないか。そんなこともよく考えたものです。ずっとがんばって生きてきたからです。「がんばって」と言われないことで、自分はもうだめなのかと思わせているのではないか、そんなことを思いました。

しかしそれから後も、お見舞いを行ったときに「がんばってください」と言ったことは一度もありません。励ましの言葉は「祈っています」ですし、実際に祈っています。イエス様は今日のテキスト、16章26節で「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われました。この言葉のとおり、わたしたちは、イエス・キリストの御名によって願い、祈ります。弟子たちにとってまだ先のことであった「その日」を、わたしたちはすでに生きています。もしかすると、わたしたちがイエス様の言葉に忠実なのは、「主の御名によって祈ります」ということ、これが一番であるかもしれません。

しかし、そこで思うことは、その言葉が形式的なことに留まったのではいけないということです。「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言わなければ、祈りが終われない。皆でアーメンと祈り合わせることができない、ということはあると思いますが、それよりも大切なことがある。それは、イエスの名に信頼を置くということです。「名は体を表す」と言いますが、名前と言うのは、ただの名前ではなくその人自身を表します。「誰々さんから紹介を受けた」と名前を出したとき、それは名前を出したにとどまらず、その人自身です。その誰々さんが、影響力のある人であれば、相手も失礼なことはしません。互いにその人の名を辱めないようにします。でも、わたしたちが祈るときに使うイエスの御名は、わたしたちが考えているよりもはるかに尊く力があります。それは神そのものの名だからです。

かつて東京神学大学の学長をされた近藤勝彦先生は、この箇所で説教したときの説教題を「しかし、勇気を出しなさい」としました。そしてこれを含むいくつかの説教を掲載した説教集のタイトルも『しかし、勇気を出しなさい』としています。その説教を読んでいて印象深かった言葉に、「主の名によって願うこと、つまり祈ることと、勇気を出すこと、この二つは同じこと」。「わたしたちが、主の名によって祈りとき、勇気が出るのです」。「キリストの名によって祈ることが勇気なのです」。「真の勇気は、『祈りによる勇気』以外にないのです。どんな時にも祈りを失わない。それが勇気を失わないことです」。そのような言葉でした。

わたしは、これまで勇気と祈りとを結びつけたことがなかったので、目からうろこでした。祈ることで勇気が与えられるというのは、祈りの力を知っていなければ出てこない言葉です。そのように、祈りの力を知っているならば、先輩牧師が言われたように、「がんばって」と言われるよりも「祈っている」と言われた方が、どれだけの励ましになることかと思います。であるならば、それだけの確信を持って祈る祈りが、ほんとうの祈りだといえます。

イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と言われました。十字架で死なれたのですから、世に負けたとしか思えないことですが、「わたしは既に世に勝っている」とイエスは言われるのです。悲しみの道を、十字架を担いで歩くイエス様は,シモンの助けが必要なほど弱り切っています。人も目から見たら敗者の姿にしか映りません。復活することが確かだから、逆転勝利することが分かっているからではありません。「いずれ勝つ」ではなく「わたしは既に勝っている」と言われます。こう語られてから1日も経たないうちに、イエス様は「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」のです。そのことが分かっていながら、「わたしは既に世に勝っている」と言えたのはなぜでしょう。不条理としか思えない人間の裁きに身を任せることで、世が救われるからです。神の救いの計画が、この世の思惑を超えて実現するからです。だからこそ、「既に世に勝っている」と言えるのです。

そう語られる前、33章の前半ですけれども、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」とイエス様は言われました。「平和を得る」とは、苦難がなくなることではありません。この世界ではさまざまな紛争が今も繰り広げられています。人間の命を一息に飲み込むような自然災害があります。わたしたちの身近な日常においても、悩みや心配事は尽きません。時に平穏に過ごしていると思っていた日々がくつがえるような苦難に襲われることがあります。そのときわたしたちは動揺します。そうした中でイエス様は「あなたがたに平和があるように」と言ってくださるのです。その平和とは、「わたしによって平和を得る」とあるように、イエスと共にある平和です。

昨日も4月から5月生まれの方の誕生日カードに「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」の御言葉を書いていました。一人一人を思い浮かべながら、主の力強い慰めの言葉に支えられてひとめぐりの1年を歩むことができるよう祈りつつ。わたしたち人間の頑張りには限界がありますが、この世ばかりでなく、死に勝利された主の御言葉に励まされることで、勇気を出して生きることができるのです。今日から始まる2025年度、わたしたちの教会が「慰めの共同体」として力強く歩んでいくことができますように、主イエス・キリストの御名によって共に祈りあい、勇気を出して歩むことができますように。