哀歌4章1~2節   コリントの信徒への手紙二4章7~12節
「土の器に宝を」 田口 博之 牧師

名古屋教会では年に2回「土器」という機関紙を発行しています。今も4月5日が締め切りの「土器」第186号の原稿依頼を受けている方がいらっしゃると思います。第1回の発行は、戸田先生が着任してまもない1963年6月でした。当初はB5判で隔月を目標に発行する予定でしたが、まもなくタブロイド版となり発行回数が減ってきたようです。「土器」は教区内の全教会に送っていますが、「土の器」を送ってくださりありがとうございますと言ってくださる牧師がいます。

百年史を読むと、戸田先生は「つたない土の器だけれどもこの中に宝がもられているような機関紙でありたいとの願いである。「土器」は教会に来られない人々のために教会の様子を知らせ、また意見や希望や感想を発表する対話の場である」と記されていました。果たして発刊から60年が経って、発刊の願い通りの「土器」となっているでしょうか。いやもしかすると、当初思い描いていた以上の機関紙になっているのではないか。編集委員のメンバーは、前号よりもよい仕上げになることを目指しつつ、編集作業に当たっていることを感じています。

さて、戸田先生が「つたない土の器だけれどもこの中に宝がもられているような機関紙でありたい」と願ったということは、今日のテキストのコリントの信徒への手紙二の4章6節「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」から取られたことは間違いありません。

それにしても「土の器」とは印象に残る表現だと思います。三浦綾子の小説に『この土の器をも』があります。『道ありき』三部作の第二部にあたる結婚編が『この土の器をも』です。三浦綾子の書いた『氷点』が朝日新聞の1千万円懸賞小説の第一位を取ったときのことが最後に書かれています。夫の光世さんは、このことでチヤホヤされないように、「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾々は土から作られた土の器にすぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」と語りました。

わたしたちもしばしば「土の器」という言葉を用いることがあると思いますが、それは間違いなく自身の謙遜を表す言葉として用いています。でもそのときに、「自分は土の器に過ぎないから何もできない」、「わたしには土器の原稿なんて書けない」、「証しなんて無理」そんな使い方がなされているとするならば、その用い方は正しいとは言えません。確かにわたしたちは土の器にすぎません。創世記は、人(アダム)は土の塵(アダマ)によって形づくられたと告げています。でもパウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と言うのです。

大切なのは、弱くて脆い土の器に宝が入っていることなのです。では宝とは何でしょう。お金とかお金に換えることができるものではありませんパウロはこの宝のことを、7節後半で「この並外れて偉大な力」と言い変えています。では、その「力」とは何を指しているのでしょうか。考えられるのは「福音」です。わたしたち罪人を救いへと導くこの力は、人間ではなく神からのものです。だからこそ、8節と9節にあるように、

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と言えるのです。勇気が与えられる言葉です。この御言葉は、絶望の先に希望が見出せると言っているのではありません。今が絶望しかない状態に置かれていたとしても、希望が持てるというのです。

だからこそ、先週の説教でもお話したように、パウロは「落胆しません」と言うことができたのです。落胆するような経験がないというのではなく、落胆しそうになっても落胆しないといえる。ここでも、四方から苦しめられたとしても、行き詰まらないと言うのです。途方に暮れても、失望しないと言うのです。虐げられても見捨てられないし、打ち倒されても滅ぼされないと言うのです。それは、苦難の先ではなくて、苦難のただ中にあっても望みを失ってはいないということです。「明けない夜はない」と言って、今は辛抱の時だからもう少し頑張ろうと励ますのではありません。今どんな闇の中にいようとも、さ迷ようことはない光を見出しているのです。福音の光は闇を照らします。だから、福音の力の知る人間は、決して絶望することがない。

では、土の器に宝を納めている人間とは、いったい何者なのでしょう。パウロはここで「わたしは」ではなく「わたしたちは」と言っています。では「わたしたち」とは誰のことでしょうか。この手紙は、最初の挨拶のところを見ると「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟、テモテから」とあります。「わたしたち」とは、手紙の差出人である「パウロとテモテ」のことと考えることができます。

あるいは、手紙の受け取り手であるコリントの信徒たちも含めて「わたしたち」と解することもできます。わたしが説教で「わたしたちは」という言葉を使うとき、説教を聞く皆さんを含めて語っています。「皆さんは」とは「あなたがたは」という言い方はあまりせず、一緒に御言葉を聞くわたしたちという捉え方をしたいからです。牧師だけでなく、ここにいるわたしたちは土の器にすぎませんが、福音という宝を納めています。

ただし、テキストの流れからすれば、1節で「こういうわけで、わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません」とあるように、あくまでも主の憐れみを受けて、使徒としての務めを委ねられたわたしたちのことだと推察できます。実際にパウロは、この手紙を通して自らが使徒であることの正当性を主張しています。たとえばパウロの後から来た伝道者が、自分たちはエルサレム教会からの推薦状を持ってきているけれども、パウロは推薦状などなかったではないかと非難されていました。それでもパウロは落胆することなく、語るべき言葉を語ってきました。

パウロが何よりも大切にしてきたのが、5節にある「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」ということです。この言葉は、伝道者に求められる基本姿勢だと言ってよいでしょう。自分をアッピールしていては伝道にはなりません。何も負け惜しみで言っているわけではありませんが、牧師が人気者になる必要はないのです。ある牧師が教会に赴任して礼拝の人数が増えたとしても、教会を去ったら教勢が下がってしまった。そんなことがあったら最悪です。その牧師がどれだけ努力していたとしても、いなくなって教勢が下がったとすれば、教会を育ててはいなかったことになるからです。目指すべきことは、牧師が変わっても変わるとのない教会を造り上げることです。

そのためにも、ひたすら主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。自分が主になるのではない。イエス様こそが主であって、その主の僕として仕える。主の御体である教会と人に仕える。そこしかないのです。イエス・キリストこそが真の神であり、救い主であると伝える。パウロはそこに専念していました。パウロと共にいたテモテやテトスも同じです。10節以下で「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と言っています。

パウロはここで何を言おうとしているのでしょうか。「わたしたち」とは、誰かという話をしてきました。わたしたちも土の器にすぎないけれど、福音と言う宝を納めることがゆるされているかぎり、わたし田口も、今共に礼拝を献げているわたしたちも皆わたしたちである。そのように読んでいいし、読みたいと思いつつも、この10節以下で語られているわたしたちと、今のわたしたちとの間には隔たりがあると感じました。

なぜならわたし自身、「いつもイエスの死を体にまとっています」とか、「絶えずイエスのために死にさらされています」とまでは言えないなと思うからです。そこで分かってきたことは、パウロが「土の器」という言葉を使ったのは、単に弱くて脆いから、そんな話ではなくて、イエスこそが土の器となって死んでいかれた。その土の器としてのイエスの死を我が身に負う。わたしも土の器である。そのようにイメージしたのではないかと思うのです。

パウロはイエスを知るまで、自分が土の器だという意識はなかったと思います。むしろ自分はエリートだと思っていました。生まれて8日目に割礼を受けた生粋のヘブライ人、出自は誇り高きベニヤミン族、ファリサイ派に属し、律法に関しては非の打ちどころがなかったし、教会を迫害するほどに熱心だった。自分は高価な器、落としても土のように簡単には割れない鉄や銅で出来た頑強な器、そのように思っていたのではないでしょうか。しかし、キリストと出会ったことのあまりの素晴らしさから、高価な器だと思っていた過去の自分は、土の器でさえなく、塵あくた、ゴミとしか思えなくなったのです。

実はコリント産の陶器はとても有名だったようで、ネットを見てもコリントス陶器というのが出てきます。幾何学模様全盛の時代に、動物や植物をモチーフとした陶器が生み出されました。葡萄酒やオリーブ油を入れる壺、食器、陶芸品などが愛用されました。古代ギリシャの絵画は。キャンパスや紙に描くのではなく、壁と陶器を素材としたようです。画家にとって土の器は自分の芸術表現ができる素材であり、コリントは陶器の産地となったのです。伝道者はその土地を愛せよと言いますが、パウロもコリント滞在中陶器に注目したはずです。

しかし、ここでパウロが着目したのは素焼きの陶器、まさに土の器であって、彩色を施した美術品ではありませんでした。落とせばすぐに割れて捨てるしかない土の器にイエスの死を重ねたのです。10節以下に何度か出てくる「死」という言葉は、死んでしまった状態ではなく、死につつある状態を表す言葉です。イエスがゴルゴタへの道を歩まれた時のように。イエスの生涯のべて十字架へ向かう歩みであったように、自分たちも死へ向かって歩んでいる。自身が負っている苦難や迫害そのように捉えたのです。しかしそれは、「死ぬはずのこの身にイエスの命がこの体に現れるため」だと言うのです。

パウロは、自分が使徒として受けている苦難をイエスの受難と重ね合わせたのです。もちろん、イエスが死に引き渡されることと、使徒たちが死に引き渡されるのは同じではありません。たとえ殉教の死を遂げたとしても、罪人である限り罪の贖いとはなれないのです。しかし12節で、「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」とあるように、イエスの死と自分の死を重ね合わせまあした。死から命への福音の引き渡しが確かに起こるのです。

戦後、シベリアにおける強制収容所で生き延びた人は、人体の剛健な人ではなく、信仰を持った人だったそうです。パウロは自分たちの死と、コリントの人たちのうちに働く命を対比しますが、どちらにも並外れて偉大な力が表れているのです。神がイエスを死から復活させられたように。わたしたちも復活の命にあずかることができる。ここにも、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」理由があります。

三浦綾子の『この土の器をも』を紹介しました。三浦綾子は日本基督教団の信徒でしたが、日本基督教団の信徒であった作家に阪田寛夫がいます。詩人、児童文学者でもあり、「サッちゃん」の作詞家として知られています。父親は組合教会の代表的な信徒で実業家、祖父がサカタインクスの創業者です。母親も教会のオルガニストで、熱心なキリスト者の家庭で育ちました。

阪田寛夫は、1975年に芥川賞を受賞しますが、この作品名が『土の器』、阪田の私小説です。母親はおそらくは奈良学園前の大和キリスト教会だと思われますが、亡くなる前年の受難日礼拝のオルガン練習に出かけたとき、外れていたカーテンを直そうと机に上ったときに落下して肩を骨折してしまいます。それでも、冷汗が出て体を震わせながら受難日礼拝の奏楽をやりきるのです。気丈な母親でした。土の器にたくさんの宝を納めた人でした。しかしその1年後にすい臓がんが見つかります。母親は痛みと向き合います。見舞いに行った阪田が讃美歌を一緒に歌うくだりがあります。「行けども、行けども、ただ砂原、道なきところを」まで歌うと、母は黙ってしまった。後で讃美歌の歌詞を見ると、「焼けたる砂原いたむ裸足。渇きの極みに絶ゆる生命。帰るに家なく疲れ果てて、望みもなき身は死をぞ願う」であった。

この小説の終わりには、今では考えられない生々しい治療の様子が描写されています。「流れ込む点滴の液は陽に光って透明だが、出てくる尿は濁り固まった暗褐色の血うみだ。その濁りは人間そのもの、あるいは「罪とが」という感じがした。肝臓と腎臓の機能が殆ど停止したと告げられた日、兄は姉と私を呼んで改めて安楽死の話を持ち出した。・・・母はその夜と、もう一夜を生きて、たくさん笑って、安楽死ではなく痰を咽喉につめて死んだ。」

気丈夫な信仰の篤いキリスト者の女性でしたが、土の器のような弱さ、脆さを認めざるを得ません。しかし彼女の内には宝を納めていました。宝を納めた人の死は虚しく終わらず命との交換がおきます。思い出したのは「土の器」ならぬ松本清張の「砂の器」の主人公です。彼は自分の過去、弱みを懸命に隠そうとして、名前を変えて新たなる器を作り上げましたが、脆くも崩れ去ってしまいました。

名前を変えて第二の人生を生きようとしても、罪人である限り変わりようがありません。人は自分の力で自分を変えることはできません。神に変えていただくしかない、福音の力が必要なのです。どれだけ高価な器、たとえ表面に金箔が上手に貼られたとしても、器の口が閉じてしまっていては、中身は空っぽです。でも、たとえ脆い土の器であったとしても、器の口が開いて福音の宝を納めることができるのであれば、その人は変えられます。それが16節以下にある「外なる人」と「内なる人」の違いだといえるでしょう。阪田の母のように、外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていく。そしてその人は、落胆することがないのです。