聖書 出エジプト記34章29~35節    コリントの信徒への手紙二3章12~18節
説教 「栄光から栄光へ」田口博之牧師

キリスト者は主にあって新しい人間である筈ですが、わたしは古い時代の人間だと自覚しています。最近、いろんなところで昭和のよき時代が回顧されることがあるように思います。それは高度経済成長期の昭和です。皆さんのいちばん古い記憶がいつ頃か分かりませんが、3歳ころまでの記憶はほぼ残っていないのではと思います。わたしの物心ついた頃の出来事で、今も記憶に残る一番古いカットが何かといえば、伏見通りを走るオリンピックの聖火ランナーの姿です。所得倍増、高度成長の真っただ中を子ども時代に過ごし、10歳のときに大阪万博が行われました。今年も大阪で万国博覧会を行うようですがまったく盛り上がっていません。会期は70年の大阪万博より1日長い184日間。開幕まであとひと月半ということをご存知でしょうか。受難週、棕櫚の日から始まるのです。EXPO70の時は、1年くらい前から三波春夫の歌が聞こえてきたように思います。ワクワクする思いでした。

その裏では安保闘争などもあり、名古屋教会にとっても、いちばん大変な時代だった思います。しかし、大変なことが起こったのは、教会に集う一人一人に力があったことの証でもあります。その方向性はともかくとして、活力があったのです。でもそれは50年以上前のことです。敗戦を経験した人たちが立ち上がり、昭和の古き良き時代を造り上げていったパワーは、今現職で働いている人たちは持ち合わせていません。牧師を志す人がいなくなっています。以前は主の召しがなくても、職業としての牧師という選択肢があったのです。それはそれで問題はあるので、召命感なく辞めていく人もいます。しかし役が人を作るように、成長する人もいます。でも今は、そもそも牧師を志そうとしない。働き方改革とは別世界に生きています。わたしは自分が古いタイプの人間だと言ったのは、古き良き思い出を持っていること、身を粉にして仕事をしても、やって当然だという思いを持っていることでもあります。

いつの時代にも古い時代の人と新しい時代の人がいるということは確かです。パウロはもともと古い時代の人間でした。律法主義者だったパウロは、イエス・キリストを信じる人々を受け入れることができず、新しい道を求めている人々を迫害しました。しかし、ダマスコ途上で復活のイエス・キリストと出会ったことで方向転換し、古い人が新しい人となりました。

パウロの後でコリントに入ってきた伝道者、パウロ批判をする人々は元々ユダヤ人でした。キリスト教の伝道者、福音を宣べ伝える新しい人であった筈なのに、律法の民としての誇りを捨てきれずにいました。古い人としての自分を持ち続けたのです。信仰だけでは十分ではない、律法の力もやはり必要だとしたのです。そこでコリント教会でパウロ批判を始めました。パウロはエルサレム教会からの推薦状を得ていない。そもそも資格がないという非難し、そのことをコリントの信徒たちは信じたのです。そこで彼らも一緒になってパウロ先生を批判した。コリントの信徒への手紙二というのは、そういう批判に対するパウロの弁明がたくさん出てきます。

パウロは推薦状がないという主張に対して批判的に答えるのではなく、いやいやあなたがた自身が推薦状だ、そればかりではなく、あなたがたはキリストの手紙だ、そういう肯定的な言い方ができる人でした。資格に関していえば、3章6節ですけれども、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」と答えました。新しい契約というのは、イエス・キリストによる新しい契約です。新しい契約が生まれれば、元々の石に刻まれた文字による契約は古い契約となります。十戒に代表される律法のことです。古い契約と新しい契約。これは少し言葉を変えれば、旧約聖書と新約聖書ということです。

旧約の律法の代表といえばモーセです。パウロは13節以下で、モーセが自分の顔に覆いをかけていたことを述べていきます。読んでいると、繰り返し「覆い」という言葉が出てくることに気づかされます。13節、14節、15節、16節、そして18節にも出てきます。顔を隠すための覆いです。この話の根拠が、出エジプト記34章29節以下です。ここにも33節、34、35節に「覆い」が出てきます。ここに書かれてあることを要約すれば、モーセが十戒の二枚の板をもってシナイ山から降りてきた時、モーセの顔は光輝いていたため、人々は恐れてモーセに近づくことができなかった。旧約では神の顔を見ると死んでしまうと言われています。それは神の栄光があまりにもまばゆいからで、太陽を直接見ることができないのと似ています。この主の輝かしい栄光が、律法を授かったモーセの顔に映し出され、それでモーセは顔に覆いをかけたのです。

パウロはこの出来事をよく知っていて、今日のテキストコリントの信徒への手紙二3章13節以下に記しているのですが、よく読むと覆いをかけた理由が異なっています。「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けた」と書いています。パウロはいい加減なことを言っているのでしょうか。そうではなくて、モーセの顔に輝いた光は一時的なものでしかなかったと言いたいのです。そのことを隠すため、モーセは顔に覆いをかけたのだと。ここでパウロはモーセ批判しているのではありません。パウロの教えから離れ、律法主義に傾いた人々を説き伏せるためです。律法に従う生活は立派そうに見えるかもしれないけれど、それは自分を隠すだけのことでしかないという論理です。

さらに14節です。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです」とあります。彼らとはイスラエルの民を指します。また15節には「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています」とあります。覆いが掛かったままだと、せっかく旧約聖書が読まれても、本当の意味が分からないまま今日に至っているというのです。それゆえ、律法が古い契約だということが分からないままなのです

もちろん、律法は神の言葉なので、悪いものではありません。精一杯律法を守ることも間違いではりませんし、むしろ正しいことです。しかし、律法守るという正しさによって神に認めていただけると考えたのであれば、それは自分の正しさを拠り所としていることに他なりません。これは信仰義認ならぬ自己義認です、心に覆いがかかっていたとは、真実が言えていないということです。では、その心の覆いはどのようにして取り除かれるのでしょうか。パウロは14節の終わりで、「それはキリストにおいて取り除かれるものだからです」と語っています。また16節でも、「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」とあります。

主の方に向き直るとは、悔い改めるということです。古い契約、律法に固執して覆いのかかった、いつもモヤモヤしながら生きるのではなく、イエス様の方を向いて新しい歩みを始めていくということです、ところが17節を読むと「ここでいう主とは、“霊”のことです」と書かれてあります。“霊”すなわち聖霊です。聖霊によって、覆いは取り除けられます。「主の霊のおられるところに自由があります」と言っています。聖霊は真理の霊であり、自由の霊でもあります。

多くの人は、自由を求めるがゆえに罪の奴隷となることがあります。自分の欲望を満足させるために好き勝手なことをすればするほど、罪に捕らわれていきます。でもそれはほんとうの自由ではありません。パウロはローマの信徒への手紙において、「律法によっては罪の自覚しか生じない」と言いました。律法によっては救われない。それはまさに覆いがかかった状態にあると言うことです。しかし、主に向くときには、その覆いは取り除かれると言うのです。そこではっきりと何が真実であるのかが、分かるようになるのです。聖霊によって、福音によって生きるとき、目の前の覆いが取り除かれて、はっきりと見えるようになる。そのとき人は真の自由を得ることができます。

それにしても、ここでのパウロの言葉は大胆だと思います。例えばわたしが、礼拝で出エジプト記の講解説教をしていて、今日の34章29節以下で説教するようなったとき、パウロが言ったような話にはなりません。あくまでもモーセの顔の肌が主の光を受けて輝いていた。人々が恐れて覆いをしたのだと。そのようにして主の栄光の素晴らしさを語ります。パウロが言うように「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けた」などとは言いません。そんな勝手な解釈をすれば異端となります。もちろん今この箇所で説教するなら、コリント書の方も同時にテキストにするので、異端とはなりません。しかし、この時代パウロの手紙は手紙であって聖書ではありませんから批判を受けて当然です。パウロが律法のことがよく分かっていない人であれば、勝手な解釈もあり得るかもしれませんが、パウロは律法学者だったのです。

わたしたちも自分の仲間だと思っていた人が、急に向こう側に行ってしまうと、憎しみも倍増するという経験をすることがあります。パウロもそう思われたとして当然です。でもパウロは、旧約の限界を、律法を守るだけでは救われないことを知ったのです。だから、キリストによって覆いを取り除かねばならない。主の方に向き直って、覆いが取り去られねば、真っすぐには歩めないと言っているのです。

そして18節「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」と述べています。この「造りかえられる」という言葉は、メタモルフォーシスという言葉で、英語にもなっていますが、元の姿が分からなくなるぐらいに変わってしまうということを意味する言葉です。顔の覆いが取り除かれると、それほどの劇的な変化が起こるのだとパウロは言うのです。しかも「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」と言っています。パウロはこの素晴らしさを何とかして伝えようと思って、手紙を書いています。しかし、手紙を書くことを通してパウロが味わっているのは、自分は変わっているということではなかったでしょうか。

パウロは誰よりも自分が変わったことを確信していました。圧倒的ともいえる主との出会いがあったのです。使徒言行録9章に記されているダマスコ途上での回心です。パウロは突然の天からの光に照らされ、復活された主の栄光を目の当たりにして見えなくなりました。その後アナニアから洗礼を受けることになるのですが、聖霊で満たされたちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになったと記されています。元どおり見えると言うと、視力が回復したことになりますがそうではなく、物の見え方が新しくなったのです。

パウロはモーセを貶めているような書きかたをしていますが、決して否定しているのではありません。キリスト教会もまた、旧約聖書は神とイスラエルとの古い契約だと言う理由で廃棄してはいません。イエス様は言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と。形だけ律法を守ればよいという話ではない、律法は何を願い求めているか、それは神を愛し、隣人を愛することなのだと。イエス様は、言葉と行いとにおいて、身をもって律法の本質を伝えられました。

説教の初めに、わたしは古い時代の人間だと言いました。社会に出てからも、昭和的な古い考えを持って生きてきたので、今の若い人との考え方にはついていけないところがあります。また昭和のいい時代は子どもの頃であり、その時代を懐かしいと思うこともあります。でもそこに帰ろうとは思いません。なぜならその頃の自分は主を知らなかったからです。色んな苦労を経験し、今も激しい渦の中に取り込まれそうになることがあります。昨晩もあるキリスト教学校のトップをされている方からメールをいただきました。今起きている状況を知らせてくださっていましたが、わたしもその方に相談することがあります。その方は学校経営に労苦されていたけれども、ある企業とのタイアップの話を進めていたがいろんな難しい問題があった。しかし、学校の名前もキリスト教主義もそのまま残してもらえることが決まった。そして最近、双方でプレスリリースが出たことを教えてくれました。

主の導きを感謝しつつ、わたし自身が今抱えていることもメールに書いているうちに、状況に振り回されて祈りを忘れていることに気づいてそのことを伝えると、それでも「砂の上の足跡の詩人のように、主が先生を支えてくださっていると」送ってきてくださった。その恵みに気づかされたと同時に、後からそれを気づくのではなくて、インマヌエル、主が共にいて支えてくださっていることを支えにしていかねばと思いを新たにすることができました。信頼できる信仰の友がいることの幸いを知りました。

ある神学者が、聖霊を受けるということは、主が物事を受け入れられるのと同じ仕方で、私たちが物事を受け入れることができるようになるということ。聖霊を受けるということは、聖書を読むときにも。この世の中の出来事を見るときにも。主がご覧になったと同じような見方をすることができるようになる。すると、ある困難な出来事にぶつかったときにも、イエス様が受け入れられたのと同じような仕方で受け入れることができるようになる。私たちに霊が与えられているのは、そういうことだと言われました。今ぶつかっていること、イエス様ならこれをどうご覧になって、どう受け止められるだろうか。そう問いながら自分に出来ることをしていこう。自分の力ではできなくても、聖霊がその力を与えてくださることを信じることができるなら、何と幸いなことでしょう。そのことを通して、わたしたちは古い人間から新しい人間へと変わることができる。造りかえていただけのだとすれば、それこそが栄光から栄光へと歩む道につながるのではないでしょうか。