コリントの信徒への手紙二4章1~6節
説教 「落胆しない」 田口博之牧師

2024年度の歩みもあと半月で終わります。今日の午後には2025年度の第一次総会を行うことになっています。今年度わたしたちの教会標語は、週報の表紙にも記してありますが、「慰めの共同体」でした。わたし自身が1年を振り返って思うことは、牧師になって今年ほど慰めを得たいと思う年度はなかったということです。皆さんに送る誕生ハガキには、主題聖句としたローマの信徒への手紙15章4節「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」を書いています。昨日も3月末に誕生を迎える二人にその聖句を書きました。しかし説教原稿を書きながら「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」となぜ言えるのか。そんなことを考えてしまいました。
教会のホームページのアーカイブから、4月の第二次総会の日の朝の礼拝でお話した説教を読み返していました。テキストはローマの信徒への手紙15章1節から6節です。すると、「先週1週間、午後になるにつれて熱が上がってくるという経験をしました」という一文がありました。すっかり忘れていたのですが、この体調の悪さはそれから一カ月近く続き、気管支肺炎という診断が出て、教区総会さえ欠席したことを思い出しました。
説教を続けて読んでいくと、続く5節に「忍耐と慰めの源である神」とあります。神ご自身が、忍耐の源であり、慰めの源だというのです。そして13節には「希望の源である神」と書かれてあります。つまり、わたしたちが頑張って、聖書から忍耐と慰めを学び取って希望を持つという話ではなく、聖書から忍耐も慰めも希望があふれ出してくるということです。そのような言葉が紡がれていました。神が忍耐と慰め、そして希望の源泉だということです。
そして「慰めの共同体」という標語を受けて、ペンテコステ伝道月間を終えてから「慰めの賛歌」で始まるコリントの信徒への手紙二を読み始みました。1章3節から7節には、慰めという言葉が動詞も含めて9回も出てきます。パウロは自身が慰められることを求めると共に、コリントの教会が慰めの共同体となることを願ってこの手紙を書いていることを知り、続けて読んでいきたいと思いました。
わたしはコリントの信徒への手紙二というのは、パウロの様々な経験を通して慰めを語っていると書簡だと理解していますが、今日のテキスト4章の冒頭で、「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」とは言っています。「落胆しません」という言葉に心惹かれました。また16節にも「だから、わたしたちは落胆しません」と語っています。
なぜ「落胆しません」と言えるのでしょうか。とても羨ましく思えます。落胆するという言葉を話し言葉で使うことは少ないかもしれませんが、言い方を変えれば、失望する、がっかりする、挫折する、色んな言葉で言い変えることができます。そう考えてみると、わたしたちは、落胆と背中合わせに生きていると言えるのではないでしょうか。幼い頃を思い返しても、わたしは相撲が好きで応援している柏戸という横綱がいました。名前は柏戸剛(つよし)ですが、あまり強くなかった。ああ今日も負けてしまったと思うとがっかりします。
名古屋に戻ってきて、家族と教会に通うようになり、プレゼントだと渡すと満面笑みを浮かべて喜んだ子どもたちでしたが、それが「こどもさんびか」だとわかったとき、長男と次男がガクッと頭をうなだれ、落胆した姿は今も記憶に残っています。このようなことは重い話しではありませんが、落胆した経験がないという人は、一人もいないでしょう。生きていくのに苦しいほど落胆することもある。でもパウロは「落胆しません」というのです。
これはパウロが強い人であったとか、落胆しないで済む境遇に置かれていたとか、そういうことではないのです。1章8節を読むと、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」と言っています。明らかに落胆せざるを得ない状況に落ち込んでいたにもかかわらず、「落胆しない」と言うことができたのです。なぜでしょうか。
実はその理由もパウロは述べているのです。今日の4章1節をもう一度読んでみます。「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」パウロは、神の憐れみを受けたからです。さらに憐れ意を受けた者としてこの務め、すなわち使徒、伝道者としての務めをゆだねられているのだから、落胆しないと言っているのです。
あまりの苦難により、生きる望みさえ失っているのに、なぜそう言えるのでしょう。目の前のことで一喜一憂するのがわたしたちです。状況が好転して望みを持てたと思っても、それをかき消すような問題が降り注ぐと、右往左往してしまう。今の自分自身を振り返ってもそうです。その反動からか、ちょっとしたことで苛立ってしまいます。怒らない人になろうと誓ったはずなのに、とても怒りっぽくなってしまった。後になって情けなくなってきます。
そんな自分ですが、御言葉と向き合うときに、自分の目が塞がれていることに気づかされるのです。今日の御言葉も自分に与えられた言葉として読みました。目に見える状況に振り回されてしまうのは、自分が神の憐れみを受けているということを見失っているからです。パウロが受けた苦難は、神の憐れみにより使徒として召されたがゆえの苦難です。だとすれば、そこにも神の御手が注がれていると信じることができた、だから落胆しないのです。わたしもまた、神の憐れみにより、名古屋教会の牧師としての務めをゆだねられた者だということを。
目に見えるものや自分自身を頼りにしても、少々の問題であれば跳ね返すことができます。しかし、自分の力では手に負えない問題に襲われることがあります。その時に、目に見えるものだけを頼りにし、目に見えない神を仰ぐ眼差しが失われれば、落胆するしかありません。パウロは目の前の課題に振り回されない眼差しを持ち続けていました。だから16節で「わたしたちは落胆しません」と言った後、18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」という言葉が続くのです。
さて、1節で「落胆しません」と言ったパウロですが、2節で「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と言っています。この言葉はパウロに敵対する者たちのことを意識した言葉だと思います。彼らは、卑劣な隠れた行いをし、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げて、真理を明らかにすることがなかったのです。卑劣な隠れた行いとか、悪賢いというのは、言葉通りのことだと思います。そういう人はわたしたちの周りにも少なからずいます。
では、神の言葉を曲げるとはどういうことでしょう。それは自分の利益のために、神の言葉を都合よく解釈してしまうことではないでしょうか。ある神学者は、伝道で一番困難なことは、相手がどう思おうが、語るべきことを語ることなのだといっています。言葉を相手に届かそうとするために、聖書が意図しない例話などを用いて伝えようとしたときに、神の言葉を曲げることになりかねません。その結果、真理を明らかにすることができなくなるのです。
牧師をしていて、たいへんなことはたくさんありますが、もっともたいへんなことが何かといえば、毎週日曜日がやって来るということです。どれだけたいへんなことがあったとしても、毎週説教を準備して説教せねばならない。これ以上たいへんなことはありません。かつて、一人前の板前になるには10年かかるという話を聞いて、たいへんだなと思ったことがありますが、わたしもかれこれ30年になりますが、一人前の牧師になったとは、未だに思えないところがあるのです。おそらく隠退するまで苦しい思いが続くでしょう。
わたしは説教者としては、田口牧師はいい説教をするとか、分かりやすい説教だという言葉を聞くことがあります。ところが、田口牧師の説教は力強いとか、力のある説教を聞いたと言われた記憶がないのです。いつになく熱く語ったときに、今日の説教は力強かった、と言われたことがあった気もしますが、説教が力強いとは、熱量とか語り口の話ではないと思っています。では、いったいどういう説教をすれば力強いといえるのでしょうか。
そのことに気づいたのが、昨年の10月、世界聖餐日の在日大韓教会の金明均先生の説教でした。あのときの説教をわたしは下に降りずに、講壇の椅子で聞いていたのですが、率直に力強いと思いました。またその後にも、力強いという感想を述べた複数の教会員の言葉を聞きました。多くの人が、いい説教だとか、分かりやすい説教という言葉ではなく、力強い説教だと感じたのです。それはなぜか。
金先生は、エフェソの信徒への手紙4章3~6節より、「一つの希望に招かれて」という題で語られました。余計な話はされなかったと思います。声の調子も激しくはなかったけれども、聖書に語られていることを真っ直ぐ語られたのです。ピッチャーが真っ直ぐ、ストレートで押せるということは、投げるボールに力があるからです。説教者でいえば、語る言葉に力があるということでしょう。そうしてみると、わたしは変化球を使いすぎるのかもしれないと思いました。ストレートばかりだと、説教を聞いている皆さんを退屈させてしまってうつむかせてしまうのではないか。そんな恐れがあって変化球を多用しようとする。でも、そうすることで、神の言葉を曲げてしまうとすれば、何のための説教か分からなくなってしまいます。
4節に「この世の神」という言葉が出てきます。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」とあります。「この世の神」という言葉は、聖書のここにしか出てきませんが、多くの注解書は、これはサタンのことと解説します。確かにその通りにサタンと読み替えれば、すっと入ってきます。しかし、そうであれば、初めからサタンと書けばよいはずです。パウロがそう書かなかった理由があるのではないかと思いました。「信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし」とありますが、サタンはむしろ、「信じようとする人々の目をくらます」存在です。だから教会というのは、サタンの狙い場なのです。そう考えていくと「この世の神」とは、この世にあってまことの神のように思えるものということではないかと思いました。神の言葉を曲げてしまうとき、そこで証される神もこの世の神となり得る危険性があるのです。
先ほど神の言葉を真っ直ぐに語るということから、あらためてカール・バルトの説教に学ばねばと思わせられました。バルトに思いを馳せたとき、近代、啓蒙主義の時代以降の特徴として、「神の人間化」という言葉を使ったことを思い出しました。神をわたしたちの周辺世界に引き下げてしまう。別の言い方をすれば、絶対者である神が相対化されるということでしょう。神が相対化されるとは、新約聖書パウロの時代にはなかったのではとも思いますが、パウロはたくさんの神々がいるギリシャ、ローマ世界で伝道したのです。特にアテネでの伝道に失敗し、失意のうちにコリントに向かったときのパウロは、第一コリント書2章にあるとおり、優れた言葉や知恵を用いるのでなく、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。そうすることで、この世の神ならぬ、まことの神、十字架のキリストに集中したのです。
現代にも「この世の神」はたくさんいます。少し前のことですが「神ってる」という言葉が流行語大賞を取りました。今日本に来ているカブスの鈴木誠也選手が、広島カープ時代に神がかった活躍を続けたことを当時の緒方監督が「神ってる」と言ったことで使われ始めたと記憶しています。何のことはなく「すごい」ということでも「神」となり得る時代なということです。配慮が行き届いた受け答えをすれば「神対応」とまで呼ばれます。あと10年もたたないうちに、AIによる説教が当たり前になってくる可能性は大だと思います。牧師風の生成AIが作り出されて牧師不足を補おうとする。そこまでしなくても、A教会でする礼拝の様子がB教会のスクリーンに映し出されて、それで十分だとする教会も生まれている、そんな時代となっています。
まことの光が届かなくなっている。パウロは3章の終わりでモーセの顔の覆い、律法には覆いがかかっていることを語りましたが、3節で「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです」と述べています。福音にも覆いが掛かることがあり得るのだというのです。それは福音を語る側の問題もあれば、聞く側の問題もあります。
福音とは、喜びの知らせという意味ですけれども、自分が期待する幸せというのは、人によって異なるのです。罪が赦されるということ、永遠の命が与えられること、しかも無償で与えられるのですから。これ以上に幸せなことはありません。しかし、それを求めている人が、多いかといえば必ずしもそうではありません。もっと身近な要求に応えてくれるこの世の神を求めているのです。たいていの人は自分に罪があるとは思っていないので、罪を赦してもらう必要を感じていない。福音の素晴らしさが伝わらない。イエス・キリストの十字架の救いを語っても、「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては、愚かなものです」とあるとおりむなしく通り過ぎてしまう。そういう時代にあって、教会はどうすれば落胆せずに歩むことができるのか、途方に暮れそうになりますが、愚かだとされる十字架の言葉も、「救われる者にとっては、それが神の力」とのだと告げています。
6節に「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」という言葉で今日テキストは結ばれています。パウロは創世記の光の創造に匹敵する復活の主の光を受けて回心しました。その後パウロはアナニアから洗礼を受けましたが、アナニアという名はヘブライ語ではハナナヌヤーであり、主の憐れみを意味する名前です。アナニアダマスコの「直線通り」を通ってパウロのもとに行きパウロの目を開かせたことが、使徒言行録9章10節以下に記されています。敵対するパウロのもとに真っ直ぐ向かったのです。アナニアを通して憐れみを受けたパウロは伝道者へと転換しましたが、そのパウロを見出したのがバルナバでした。バルナバという名は「慰めの子」という意味であると使徒言行録4章36節には記されています。
一昨日教会幼稚園の卒園式があり、今年は講壇で修了証書を渡しました。宣教師のお子さんも二人いたのですが、普段は使わないセカンドネームが書かれていました。一人がジャスティス、正義、公平、もう一人がバルナバスでした。「慰めの子」になって欲しいという願いを込めて両親がその名を付けたと思い証書を渡しました。
落胆せねばならない陥ることがありますが、神は憐れみの神です。そして聖霊は慰め主です。そしえ必要な助け手を与えてくださいます。今日の総会では新年度の計画が主となりますが、新しい年度は今年度にも増して、互いにアナニア、そしてバルナバとなって、「慰めの共同体」として歩んでいきたい、そう願っています。