創世記8章20~21節、コリントの信徒への手紙二 2章12節~17節
「キリストの香りを放つ教会」田口博之牧師
2025年が始まりました。皆さん、いいお正月を過ごされたでしょうか。昨年は元日に能登半島を最大震度7の地震が襲い、翌2日には羽田空港で大きな飛行機事故がありました。昨年と比べれば無難なスタートが切れたと言えるかもしれませんが、何が起こるかわかりません。平安な1年となるような願いを込めてコリントの信への手紙二1章2節の御言葉によって祝福の挨拶としたいと思います。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
今年の元旦、わたしは金城教会の新年礼拝に27年ぶりに出席しました。地区の新年礼拝が南山教会なので遠かったという理由でしかないのですが、伝道者としての出発点となる教会でしたので、思いを新たにしたものでした。先だって小田部先生も同じようなことを言われましたが、メンバーが随分と変わったという印象を受けました。それは新しい人がいるということもそうですが、いるはずの人がいないということでもありました。少なくともわたしがいた頃の長老でいらした方の出席は3分の1くらいだったと思います。当時若手だった長老も髪の毛が白くなっています。そこで思ったことは、教会は変わらないようで変わっているということです。教会の周囲の環境も教会の中の施設も人も変わっている。そういう中で、変えていいものと、変えてはいけないものをどう見極めていくかということの大切さを、1年の初めに示された気がしました。もしかすると、2025年の名古屋教会のテーマになるかもしれません。
さて、今日はコリントの信徒への手紙二2章12節から17節をテキストとしましたが、実はここは難しいテキストです。13節と14節との間に分断があるからです。ただ段落が変わっているということではない分断がある。ですので、初めに断っておくと、今日は別の二つの説教をしかねない恐れがあります。そうならないように努力しましたが、結論として難しかったということ、そして前半は聖書研究的な話になってしまうことを初めにお断りしたいと思います。
今日のテキストの冒頭、2章12節にトロアスという地名が出てきます。ここはパウロにとって思い出深い場所です。第二次伝道旅行に出たパウロは、小アジア、現在のトルコで伝道しようとしましたが、なぜか聖霊が御言葉を語ることをゆるさず、トロアスまで行くことになりました。パウロがここに来ると、マケドニア人の幻が現れて、「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください」と語りかけます。自分たちのところに来て、福音を宣べ伝えて欲しい、そう頼んだのです。そこでパウロは対岸のマケドニアに渡りました。アジアからヨーロッパへ福音が伝播される基地となったのが、トロアスです。
今述べたことは、使徒言行録16章の6節以下に出てきましたが、使徒言行録には、もう一か所トロアスでの印象深い逸話が記されています。20章6節、パウロが第三次伝道旅行でマケドニアとギリシアに行った後でトロアスに七日間滞在した日曜日のこと、パウロの話が夜中まで長く続いたため、エウティコという青年が眠ってしまって、3階の窓から下に落ちてしまったという出来事の舞台になりました。
パウロは第三次伝道旅行エフェソに行って伝道した後、20章1節で「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。」と書かれてあります。ここではトロアスという地名こそ出ていませんが、地図のルートを見ても、エフェソを立ったパウロが、マケドニアとギリシアに行く直前にトロアスを経由したことは間違いありません。第2コリント2章13節の「マケドニア州に出発しました」という記述がそうです。
さらにいえば、第2コリント1章15節から16節で、パウロがコリントに行く計画を立てたけれど、計画を変更しコリントの信徒たちから誤解を受けたという話を以前にしました。ここでもう一度地図を見ると、パウロはマケドニア州からアカイア州には行ったけれど、コリントに行ったというルートになっていないことが分かると思います。これは、使徒言行録や第二コリント書を読む限り、パウロがコリントに行ったという記述がないからです。直接行かないのに、自分の思いをどう伝えればよいのか。そこで用いられたのが手紙でした。手紙で伝える以外に方法がなかったのです。
最近では郵便料金も値上がりしました。今年は年賀状もめっきり減った気がします。今はLINEやメールが便利になっていますが、それでも大切なことは手紙で送ります。しかし、当時のローマ世界でも、郵便配達のシステムがあったわけではありません。手紙の多くは誰かに託して届けたのです。手紙を届ける人はただのお使いでなく、文面だけでは表現しきれない差出人の思いを伝え、さらに手紙を受けた相手がどう思ったのか、戻ってきたらきっちりと伝えるという、とても重い役割を負ったのです。信頼できる人でなければ託すことができない仕事です。テトスがその務めを担いました。テトスはテモテと共にパウロが信頼した弟子の一人です。2章4節に「涙ながらに手紙を書きました」とありますが、この手紙を託されたのもテトスでした。パウロはトロアスでテトスと待ち合わせをしていたのです。手紙を受け取ったコリントの人たちがどんな様子だったのかを知りたかった。でもテトスが来ない。それで待ちきれずにマケドニアに出発したのです。テトスを迎えるために。
けれども、パウロはあまり急いでマケドニアに行きたくない思いがありました。12節に「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき」とありますので、トロアスは、テトスと会うための中継点ではなく伝道を目的に行ったのです。そして「主によってわたしのために門が開かれていました」とありますので、トロアスでは福音を受け入れる準備ができていたのです。先に紹介したように、パウロが夜通し熱心に説教するほどの群れができたのです。そんな伝道の実りをテトスとも分かち合いたかったでしょう。でもテトスが来ないので、パウロはケドニアに向かったのです。
すると14節で、パウロは「神に感謝します」と言っています。「不安の心を抱いたまま」出発したのに、どうにもつながりが悪いです。これが最初にお話したテキストの分断です。新年早々、面倒な話をして申し訳ないのですが、コリントの信徒の手紙二というのは、実は複数の手紙が編集されていると言われています。学者によっては四つ、あるいは五つの手紙を一つにまとめて、コリントの信徒の手紙二とされているのだと。つまり2章13節までと14節からは別の手紙で、2章13節の後は、7章5節(332p)に飛ぶ方が自然なのです。
これは確かにそのとおりで、7章5節以下を読むと、「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです」とあります。2章13節からここに続いてくれた方が流れもよく、わたしも説教しやすいです。でも聖書はそうなっていない。コリントの信徒への手紙二、三、四、五、六とはなっていないということを、大事にしたいと思います。であればどう読めばいのでしょうか。7章5節以下にあるように、確かにパウロがマケドニアに行くとテトスと会うことができた。そしてコリントの信徒たちの様子を聞くと、パウロへの誤解も解かれていて、これまで抱いていた不安を一掃することができた。こういう事実があってパウロは神に感謝したのです。
その感謝の中から、「キリストの勝利の行進」という言葉が出てきます。これがパウロにとって宣教活動のイメージだったに違いありません。当時のローマは地中海沿岸世界の支配権を手に収めました。諸国との戦いに勝利すると軍隊は凱旋帰国します。勝利した兵士は歓呼の声を上げ、誇り高き顔つきで行進します。厳しいことですが、敗戦国の捕虜も列に加えました。勝者と敗者がはっきり分かれての行進です。コリントの信徒たちからの信頼を回復したパウロは勝利を確信しいたのです。ここで「わたしたち」と言っているということは、自分だけでなく、コリントの信徒も含まれます。神はわたしたちを、キリストの勝利の行進に連ならせているのだと。
ローマでは、兵士らの凱旋行進の際に、町中の祭壇に香を焚いて勝利を知らせたと言われています。勝った人たちにとって、その香りは喜ばしいものであったに違いありません。一方で捕虜としてつながれている人たちにとっては、その香りは奴隷にされるか処刑されるかを意味しました。パウロは、勝利の行進の時に漂う「香り」をイメージして14節から16節で語ります。
「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」
今読んだところ香りという言葉が四度も出てきました。「キリストを知るという知識の香り」、「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香り」、「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」と。
わたしは目が悪くなりましたが、耳は人一倍いいと思っています。牧師の耳の良さをご存知の方もいらっしゃいますが、でも一番いいのが鼻だと思っています。過敏すぎることで、むしろ困ったことになることがあります。でも、誰であれ嗅覚はあまり衰えません。たいていの人は香りや匂いには敏感なものです。いい匂いに惹かれ、嫌な臭いがすると離れようとします。かぐわしい香りをかげばそこに魅力を感じるはずです。
14節に「キリストを知るという知識の香りを漂わせ」とあります。キリストのことを良く知ることができれば、自ずとかぐわしい香りを漂わせる者とされます。でも外に出なければ、高価な香水を手にしても勿体ないからと言ってしまっておくのと同じです。だからわたしたちは行進するのです。そういう思いで礼拝堂から出ていき、1週間を歩んでいただきたい。イザヤは、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と言いましたが、良い知らせを告げ知らせるとき、わたしたちはキリストの香りを放つ者とされるのです。
またこの香りについて、15節では「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香り」と表現しています。「神に献げられる」という言葉から、伝統的な犠牲を献げるときの香りを連想します。創世記8章20節で、洪水から救われて箱舟から出たノアは、まず主のために祭壇を築きました。そこで焼き尽くす献げ物を祭壇の上に献げた時、主は宥めの香りをかいで祝福を約束されました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。生き物をことごとくつことは二度とすまい」と。
その犠牲の香りの究極が、イエス・キリストの十字架の死による犠牲です。教会が告げ知らせるのも、十字架の犠牲の香りなのです。安い香水ほど陳腐な香りはありません。高価な香水でも、人の趣味はそれぞれです。また適量というものがあって、多くつければよいというものではありません。けれども、キリストの十字架の犠牲ほど尊いものはないので、語りすぎると香りがきつくなるなど、加減する必要はありません。そして、「神に献げられる良い香り」とあるように、神に向けられていることに注目したいのです。イエス様の頭にナルドの香油を注ぎかけた女性を思い起こします。人の目には勿体ないと思う行為でも、神の目にはそうではない。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタに上られるときも、十字架に死んで埋葬したときにも、ナルドの香油の香りはイエスから漂い、死臭を消したのではないでしょうか。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われるほど尊い業となるのです。
そしてこの香りは、「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても」良い香りだとパウロは言っています。ここだけを読めば、たとえ滅びの道をたどる者でも、すべての者を救われる、万人救済の犠牲の香りのように読めます。ところが、16節では、「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」と言っています。ここでは明らかに裁き主としての厳しさ、十字架を告げる福音の香りは、救われる者と滅びる者とをより分ける。人々を境界線の上に立たす厳しさがあると読むことができます。これは聖書が語る厳粛な事実であり、曲解することはできません。だからこそパウロは、「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と言うのです。
福音を伝える、誠に畏れ多いことです。自分がふさわしいと思える人はいません。牧師でもそうです。思えたとすれば、その牧師はキリストの十字架を軽く見ています。17節に語れているように「神の言葉を売り物に」しかねません。売り物というのは、売ったものに利益をもたらします。売ったことで自分が高められます。でも、高められるべきは自分ではなく神様です。神の言葉は売り物にできるものではなく、誠実に脚色なしに語る。大切なことは、神の言葉を人間の言葉にしないということです。
説教の初めに「変えていいものと、変えてはいけないものをどう見極めていくか」ということが、2025年のテーマになるかもしれないと話しました。そいれは何よりも聖書の言葉を、人間が気に入るような言葉に変質させないことです。それではキリストではなく人間の気に入る香りを放つことになってしまいます。それは神へ献げる香りとはなりません。そして人を命へと至らせることのできない香りとなってしまいます。
よく韓国の空港に降りればキムチの匂いがし、日本の空港に降りれば醤油の匂いがすると言われました。同じように、それぞれの家には、その家独特の匂いがあります。教会もそうです。名古屋教会にも名古屋教会の匂いがあります。匂いというのは自分では気づかないものです。少しでもいい匂いにするにはどうすればいいか。よく掃除をして、礼拝が終わるたびに座布団に芳香剤を振りかける、そういう物理的な話ではありません。礼拝で香を焚くと言った慣れないことをする必要もありません。教会にとって大事なことは、キリストの香りを放つ教会になるということです。そのためには、教会に連なる一人一人が、キリストを知る、それしかないのです。その人を知れば知るほど、その人の考えが分かり、段々と似てくるものです。キリストを知れば知るほど、必ずキリストの香りを身に帯びる者とされていきます。自分の中にふさわしさがなくても、キリストがふさわしい者とさせてくださいます。滅びへの香りではなく救いの香り、死から死ではなく、命から命へ至る香りを身に帯びていくのです。キリストのかぐわしい良い香りを世に放って生きる。そのことのために神はわたしたちを選んでくださったのです。