出エジプト記20章14節 マタイによる福音書5章27~32節
「十戒第七戒~姦淫してはならない」 田口博之牧師
2025年が開けて新年最初の礼拝の時に、「昨年は元日に能登半島を最大震度7の地震が襲い、翌2日には羽田空港で大きな飛行機事故がありました。昨年と比べれば無難なスタートが切れたと言えるかもしれませんが、何が起こるかわかりません。」そう言って説教を始めました。何が起こるか分からないと言いつつ、それから三週続けて、悲しい知らせを聞くことになるとは、誰も思ってもいませんでした。
先週の木曜日には、敬愛するIR姉が忽然と主の身もとへと召されました。日曜の礼拝を共に献げ、教会総会、全体集会にも出席されました。今日の礼拝後にお別れの会を持つことになり、新しくした緊急連絡手段を用いて、神の家族である教会の皆さんにお知らせすることにしました。わたしは教会のグループLINEで伝えましたが、見られた方は驚かれたと思いますし、ショックを受けられた方が少なくないと思います。今日はご家族も礼拝から集われていますが、驚きと寂しさのあるお一人お一人の上に、主の慰めと平安がありますようお祈りいたします。
そのような中ですが、礼拝は予告どおりのテキストを読んで進めます。毎月最終の日曜日は、十戒を取り上げています。主なる神がモーセを通して、ご自身の民イスラエルに与えた律法の根本をなすものです。今日学ぶところは第七の戒め「姦淫してはならない」です。前回学んだ第六戒「殺してはならない」に続いて、とてもシンプルな戒めです。前回、「皆さんが十戒の中で、あなたはどの戒めなら守れますか?と聞かれたなら、この戒めなら守れると答える人がいるのではないでしょうか」と言いました。では、「姦淫してはならない」はどうでしょうか。自分には関係ないという人はいるかもしれません。もしかすると、深刻に捉えてしまう人がいるかもしれません。さまざまなことを考えさせられる戒めだろうと思います。
そもそも姦淫とは何でしょうか。姦淫とは婚約もしくは結婚の関係にある男女が、婚約者、または夫婦以外の男女と性的な関係を持つことを意味します。ですから、今結婚されていない人は、姦淫をすることはないといえばないのです。しかし、自分は結婚していなくても、関係を持った相手が既婚者であるならばどうなのか。厳密には姦淫ではなく、不倫という言葉の方が当てはまるかと思いますが、事柄としては同じだと考えていいでしょう。その家庭を崩壊させてしまう可能性があることを考えれば重い罪です。
確かに重い罪ではありますが、「殺してはならない」の戒めに続くことをどう考えるとどうでしょう。「殺してはならない」は、人間にとって最も大切な命に関わりますから、これが人間関係における戒めの最初に来ることは、よくわかると思います。では、「姦淫してはならない」が殺人に続くのは、どうなのでしょう。というのも、罪の重さということでいうならば、第八戒の「盗んではならない」のほうが重いと考えることが妥当ではないかと思われるからです。
日本の犯罪に対する刑罰の歴史を考えたとき、殺人の次に重い罪とは、盗みでありました。天下の大泥棒と呼ばれた石川五右衛門は、見せしめから釜茹での刑にあったと伝えられています。五右衛門の身内もまた死刑になったと言われています。では今はどうなのか。日本の刑法で、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」という条文があります。窃盗罪で死刑にはなりませんが、「10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」です。強盗罪の場合だともっと重くなります。では姦淫はどうでしょうか。戦前には姦通罪がありましたが、今は姦淫、不倫をしたという理由で刑務所に入るということはありません。殺人や窃盗と違って、不倫は民法上の不法行為であり、刑事罰には問われないのです。もとろんそのことが表面化すれば、社会的な信用を無くすとか。社会的な制裁を受けますけれども、そこにとどまります。
これは日本の場合であり、また外国のことを調べたわけではありませんが、日本の性に関する倫理観は緩いと言われています。不倫は文化だと言った人がいました。相手に対する自然なあり方を、結婚という制度で縛りつける必要も、自分を責めるたりする必要もないと言う人もいます。だからでしょうか。性犯罪についてもとても甘く、犯された側は、なかなか声を挙げることができない。
では聖書はどう言っているのでしょうか。十戒は「姦淫してはならない」とあるだけで、姦淫の罪を犯した人にどういう刑罰が与えられるのでしょうか。申命記第22章22節にはこうあります。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルなんか悪を止めなければならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が街で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」この後も続きます。
このように律法で厳罰に処せられるものであったにも関わらず、違反者はとても多かったのです。イスラエル最大の名君であるダビデも姦淫の罪を犯しました。預言者の時代にも、また捕囚後の時代にも、その罪がやむことはありませんでした。なぜか、それほど人間は欲が強いのです。悪いということが分かっていてもしてしまう。そこに人間の根源的な罪があります。そこにメスを入れられたのがイエス様です。
イエス様は、マタイによる福音書5章27節でこう言われています。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
イエス様の言葉は、実際に肉体関係を持つことに限定するのでなく、心の内面の問題にまで踏み込まれました。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とは厳しい言葉です。新しい共同訳では「情欲を抱いて女を見る者は誰でも」となっていました。結婚していなければそれでよいとはならない。その後に続く「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」とても厳しい言葉です。
この厳しさがどこから来ているのかといえば、「姦淫してはならない」と命じられた主の御心を深く理解し、主の御心に背いてしまう人間の罪を悲しむところから来ています。姦淫とは、肉体の問題ではなく、神が結び合わせてくださった交わりを裏切ることです。この戒めは、わたしたちが神の前で生きるとはどのようなものかを改めて考えさせます。殺人が人間の嫉妬や怒りや憎しみという心の中の悪い思いから生まれるように、姦淫も心の中の裏切り、結婚の誓約に対する不誠実から生まれます。イエス様は、そのことをわたしたちに教え示そうとしておられます。
昨日、中部教区の「障がい者と教会」委員会の交流集会が行われました。その中身について今ここで触れることはしませんが、初めの挨拶で委員の田中文宏先生が、最近の交流集会の歩みを振り返られました。近年では中毒者に始まり、精神障害、視覚障害、聴覚障害、当事者の立場から、また支援者の立場からの話があったことを話され、今年度当初は、身体障害をテーマとしたかった。その代替案ということではないけれども、わたしにはさふらん理事長という立場から、知的障害者の生きづらさにどう寄り添ってきたかをお聞きすることになるのだと。
その話を聞いたこともあって、話の中で〇〇障害と名のつく障害を羅列し、障害に応じた障害者手帳を持つことで、福祉サービスを受けるという話もしました。ところが今日の説教も頭にあったのか、障害と言われながらも、福祉手帳の出ない障害があることが浮かんできたのです。それが性同一性障害です。もちろんこれを障害と呼んでよいかどうかという問題はあるのですが、そのことゆえの生きづらさを抱えていること、法的な面でも寄り添おうとする世の中の流れがあることも事実です。そういう潮流の中で、大統領の変わったアメリカがどうなるのかは、世界中が注視するところとなっています。
この問題に関しては色んな考え方があると思いますが、わたし自身は聖書の言葉に立たなければ説教できないと思っている。そのことは伝えねばと思っています。それは創造物語が語るように、神は「男と女に創造された」ことから外れることはできないし、またそこに立たないと「姦淫してはならない」という御言葉も説くことはできないという思いがあります。それは性同一性障害であるとか、LGBTQと称される方を否定する話ではありません。
聖書を土台としなければいろんなことが言えるのです。たとえばギリシャ哲学者プラトンは、著書『饗宴』の中でこのようなことを述べています。プラトンは、昔人間は、男性、女性、男女性の3つの性をもっていた。神々は男女性の力を弱めるために、からだを半分に切り離すことを決めて、二つに裂いてしまった。男性と女性の二つの性にわけられてしまった人間は、切られた分身と前のように一緒になりたいと強く願うようになった。男女両性をそなえていた人間が、ひき裂かれた半身を求めあう、これが男女の愛の起こりであり、かつての完全体に対する憧憬と追求がエロースと呼ばれているのだと。
ここにある男女性ということが、プラトンの言葉でなく、聖書の言葉だとすれば性同一性障害も本来の人間の姿ではないかとも言えますし、LGBTQについても、色んな語りができると思います。しかし、聖書はそうは言っていない。わたしは、違う性を求めるとしても、それがかつての男女性への憧憬と追求だと言うならば、それは後ろ向きでしかないのではないかと思っています。でも聖書は前向きです。
聖書には二つの創造物語があります。第一は、神が人間をご自身にかたどって男と女に創造されたこと。第二は、人は一人では生きていけないので、神はふさわしい助け手を与えるために、最初の人のあばら骨の一部から人を造られて女と呼んだ。それに対応するかのように最初の人を男と呼んだ。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言って、男女の結婚を神が祝福されたのです。これは人が自分と違う性との交わり求めることで、神の創造目的がまっとうするという前向きな人間観を持っているといえると考えています。
ところが、そこに姦淫の問題が入ってくると、神の創造秩序が乱れてしまうことになるのです。神が結び合わされた男女、家庭が姦淫という罪によって崩壊する。これは大きく言って命の問題に関わります。「殺してはならない」の次に「姦淫してはならない」が出てくるのも、その理由からだと思います。またもう一つの理由として、男と女のどちらの立場が弱いかと言えば、旧約の時代は今以上に女性の立場が弱かったです。弱い立場の女性を助ける意味もありました。男性が好きな女性が他に出来たと言って、離婚すると言った場合、離婚された女性は、社会的に経済的に厳しい立場に置かれることになりました。
かつて日本には姦通罪があったとはいえ、そこで罪に問われたのは女性だけで、夫の貫通については処罰されなかったのです。これが新憲法下の男女平等の原則に反するということで、姦通罪の規定は削除されることになりました。他方、申命記22:22もそうでしたが、どの律法も男性に対する方が厳しいのです。イエス様も「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」(聖書協会共同訳)と言いましたが、男性のことしか言っていないのです。女性はどうなのか。聖書は、女子どもは数に入らないから軽んじているとよく言いますが、実は女性はじめ弱い立場の人を保護しようという考えが、旧約の時代からとても強いのです。
そして、もう一つ。ある意味ではこれが一番大きな問題ともいえるでしょうが、旧約聖書の大きな考え方として、偶像礼拝を姦淫としていることです。十戒の第一戒は「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。主なる神以外の神と呼ばれるものにひれ伏すとき、神は妬みを引き起こされます。わたしたちは神を重んじるといいながら、心が別のところにあるとすれば、それは姦淫といえるますし、それは実生活の中でも自然に表れてきます。
そしてイスラエル王国時代、カナンの地の先住民の神であったバアル礼拝は、人々を快楽に走らせ、その結果として家庭崩壊が起こり、預言者はそこを厳しく批判しました。しかし、人々は悔い改めることをせず、イスラエルの国は滅んでいくことになります。「姦淫してはならない」の戒めは、夫婦、家族だけの問題ではなく、民族全体にとっても大切な戒めとなりました。ダビデが預言者ナタンの指摘により、姦淫の罪を犯したことを知ったとき、「わたしは主に対して罪を犯した」と告白しました。夫婦関係における姦淫の罪は、主なる神をないがしろにしてしまうことに根源の問題があります。
結婚式で、生涯あなたを妻とし、夫とすると神の前で誓っても、その誓いを破ってしまう。それは相手を軽んじているよりも先に神を軽んじてしまっていることの証です。「姦淫してはならない」に限らず、十戒を主なる神の御前に立って聞くということがわたしたちには求められています。人の目は隠すことはできても、神の前にはすべては明らかです。終わりの日、神の裁きの座についてから慌てふためくのではなく、いつも神の御前に立つ思いで生きていきたいと思います。でも清廉潔白に生きなければ裁かれるという、びくびくして生きる必要はありません。
わたしたちの主は十字架の主、「あなたの罪は赦された」と言ってくださる主だからです。大目に見るということではなく、ヨハネ8章にあるごとく、姦通の女に対して、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」そう言って、後ろではなく前を向かせてくださるお方です。だからこそ、日々感謝して、神と人とを裏切らない心を持って、生きていくことができるのです。