エフェソの信徒への手紙2章19~22節
「キリストの教会の形を整える」
今日の礼拝後に臨時教会総会が行われ、教会規則の制定と宗教法人規則変更の二つの議案を審議します。正直言って、よくわからないと思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。16頁にも及ぶ議案書を読み始めたけれども、ここには規則が二つあって、よく見ると宗教法人がついている規則とそうでない規則が二つある。いったいどこがどう違うのか。そう思われた方もいるだろうと思います。人は皆、よく分からないことが決まっていくというのは不安に思うものです。
安倍政権の時代に、安保関連法案が可決されました。日本を取り巻く安全保障環境が変化し、厳しさを増したので対応せねばという理由でしたが、再び戦争の時代に入っていくのではないかと警戒し、声を挙げる人たちがいました。若い人たちを中心としたデモも起こりました。その一方で、よくわからないし自分たちがどうこう言っても仕方のないこと、そう考えた人もいるだろうと思います。
このたびの総会の議案に関わることでいえば、これまでの内規を破棄し、新たに教会規則を作ること、また宗教法人規則を変更することになりますが、今までと何かが変わるということはありません。よく読まれた方の中に、ここが変わるのではないかと質問された方もいらっしゃいます。鋭いなと思いお聞きしましたが、現実問題としてすぐに何かが変わることはありません。それは今まで間違ったことをしてきたわけではないからです。ではなぜこのようなことを行うのか、一つには説教題にも通じますが、教会の形を整えていくためです。
では教会の形を整えるとはどういうことでしょうか。名古屋教会が属する日本基督教団は、相対的いえばリベラルな神学だといえますが、そう言いながら礼拝の形式などは案外きっちりしています。明治にキリスト教が入ってきて以来、大きくは変わっていないのです。わたしたちの普段の生活で文語を使うことはありませんが、主の祈りも文語で唱えています。教会幼稚園の子も、文語の主の祈りを覚えて卒園します。わたしはガウンを着たり、カラーを付けたりすることはあまりしませんが、それでもスーツに白のカッターシャツを着て、ネクタイをします。ところが、わたしたちより保守的な神学と言われる福音派の教会では、ネクタイなしで説教する牧師も結構います。このような講壇もなく、あったとしてもここから離れてステージの上で歩きながらハンドマイクを片手にメッセージを語る牧師がいます。プロジェクターには讃美歌ばかりでなく、メッセージのプロットを写し出します。説教中も聖書を写し出し、会衆も一緒に聖書朗読をすることも当たり前にあります。歌う曲も讃美歌よりも現代的です。
新年最初の礼拝で、今年は変えていいことと、変えてはいけないことの見極めが大事になるかもしれないと話しました。変えてはいけないことというのは、ここを変えると教会の形が崩れてしまうことを言います。今話をしたような礼拝の形はどうでしょう。変えるか変えないかは別として、変えてはならないものではありません。しかし、いきなり変えたとすれば、名古屋教会はどうなってしまったのかと思う人、居心地が悪くなる人は必ず出てくるはずです。少なくともわたしが牧師でいる限り、それをすべきとは思わないので、今の形が大きく変わることはないでしょう。ビジネスの世界でも、ネクタイなしというのは珍しくはありません。夏の暑い日など、牧師が汗をかきながらネクタイにスーツを着ていたら、皆さんの方が暑苦しく思われるかもしれませんが、わたしはそれをしたくありません。それは神様の言葉を預かり説教することを託された人の形として、ふさわしくないと思うからです。
では、変えてはならないものとは何でしょうか。一つ言えば、今日の総会で決定する教会規則に反するようなことをすることです。この教会規則は、日本基督教団信仰告白と教憲教規に基づいて定められます。わたしは主の御心を表すもの、名古屋教会と教会に連なるわたしたちが主に喜ばれる健やかな歩みをなすための指針のようなものです。そのことが教会の法、規則という形をとって表していると言ってよいだろうと思っています。何か教会総会に向けてのオリエンテーション的な話となってしまいましたが、今日は今お話したことを受け止めながら臨時総会に臨み、昼食をはさんで行われる全体集会で深めていきたいと思っています。
さて、今日はエフェソの信徒への手紙1章19節から22節を聖書テキストとしましたが、ここには教会規則について書いてはいません。エフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、エフェソ教会を立ち上げましたが、教会はまだ過渡期、家の教会の時代でした。組織、制度としての教会が立ち上がったのは後の時代です。規則というのは形を整えるものであり、この時点で教会の規則ができるには至っていません。新約聖書も形になっていなかったのです。パウロの書いた手紙が、神の霊感を受けた言葉として教会の信徒たちの間で大切に読まれ、後に聖書正典とされました。パウロは手紙をもって、教会の形を築き上げようとしたのです。
19節に、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と書かれています。「あなたがた」とはエフェソの信徒たち、エフェソ教会を形づくる一人一人です。わたしたちはこの言葉を、2千年前にエフェソの信徒たちへの言葉として学ぶだけでなく、時を越えて、名古屋教会に連なるわたしたちに語られた神の言葉として読んでくことが求められます。
「あなたがた」すなわち教会の信徒とは何者なのか、19節には二つのことが言われています。一つが「聖なる民に属する者」、もう一つは「神の家族」です。「聖なる民」というのは、清く正しい民という意味ではなくて、神のものとされた民ということです。旧約における「神の民」とはイスラエルのことでした。紅海を渡ったイスラエルの民がシナイ山に着いたとき、主なる神は「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と宣言し、聖なる神の民とされました。しかし、イエス・キリストの十字架による和解により、民族的な隔ての壁は取り壊されました。そのことが2章14節以下で語られていました。わたしたちは礼拝で十戒を、聖書研究祈祷会で律法、契約の書を学んでいます。これは神とイスラエルの民との古い契約ですが、イエス・キリストによって廃棄されました。それは律法が無意味だから廃棄したということではなく、民族的な壁が砕かれたことで、ユダヤ人だけが聖なる神の民ではなく、キリストを信じる者すべての者へと広げられたのです。ですから、わたしたちも、外国人でも寄留者でもなく、聖なる神の民に属する者とされたのです。
第二は、「神の家族」です。イエス様は、神を「父よ」と呼ぶことをゆるしてくださいました。わたしたちは、一人の神を父と呼ぶことができる「神の家族」です。昨年12月22日のクリスマスの集合写真を見ると、ああ、ここに神の家族いると思わされます。詩編133編にあるごとく「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という賛美があふれてきます。
その写真に写っている一人の姉妹、その写真の中では一番上、明日95歳の誕生日を迎えるお姉さんが、先週天に召されました。今日と明日で家族葬が行われますけれども、わたしたちにとって、神の家族であることを覚えたいのです。また、洗礼こそ受けておられませんでしたが、わたしたちの家族と共に礼拝に連なり、死んだら教会の墓苑に入りたいと言われていた姉妹の葬儀も先週行われました。神の家族は、生きている時だけでなく、死んだ後も家族であり続けます。だから「わたしたちは見えるものだけでなく、見えないものに目を注ぎます。見えないものは永遠に存続するからです。」
このように、わたしたちが、聖なる民に属する者、神の家族とされていることは、大切なアイデンティティとなります。その上で20節以下では、教会を建物にたとえて語られていきます。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はイエス・キリスト御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とあります。
日本の伝統的な建築物には、大黒柱と呼ばれる立派な柱が真ん中にあり、建築物を支えています。エルサレム神殿には大黒柱ではなく、四隅に大きな石を据えました。この石が建築の土台となり、かなめ石となりました。かなめ石について、口語訳聖書や新しい共同訳では「隅の親石」と訳されています。コーナーストーンです。このかなめ石がイエス・キリストだと言うのです。
その上に「使徒や預言者という土台」が積まれます。一つの考え方として、使徒は新約の教え、預言者は旧約の教えと考えてよいと思います。かなめ石なるイエス・キリストの上に新約聖書と旧約聖書が積まれるというのは驚くべきことですが、だからこそ、聖書はキリストを証しているということができます。そのかなめ石、土台があるからこそ、わたしたちは聖なる民、神の家族とされているのです。
あるいはもう一つ、使徒というのは十二使徒とパウロのこと、教会の礎を築いた人々という考え方があります。使徒たちはイエス・キリストが何者かを語りました。使徒たちの言葉が生きた聖書となって、聴く人々の信仰が培われていきました。また預言者というのは、旧約の預言者ということではなく神の言葉を語った人々、今で言う牧師、説教者と考えることができます。預言とは説教と言いかえることができます。パウロは、第一コリント14章で異言を語れることを尊ぶコリントの信徒たちに対して「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」と言いました。
使徒と預言者を旧新約聖書と考えるにせよ、説教者と考えるにせよ、これを抜きにして教会が建つことはあり得ません。神の言葉が土台となり、かなめ石、隅の親石であるキリストと結ばれることで、「聖なる民に属する者、神の家族」とされたわたしたちは、キリストにおいて互いに組み合わされて成長し「聖なる神殿」となると言うのです。神殿とは、神がおられる場所、神様の住まいです。このことを言い変えるように、22節では「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」とあります。
たいていの人は、教会というと「建物」を考えるでしょう。代務をすることになった桃山教会は、木造の建物で三角屋根の上に十字架が掲げられていて、見るからに教会らしい建物の形をしています。名古屋教会はコンクリート造りの四角い箱型の建物で、十字架も目立たないし、ここが教会だとは分かりにくい建物です。ただし、教会と訳されたギリシア語のエクレシアには建物という意味はなく、神が呼び集められた人の集まりという意味です。その人の集まりをパウロが建物にたとえたのは面白いなと思います。
誰かの家に人が集まって礼拝した家の教会の時代でした。しかし、ユダヤ教にシナゴーグと呼ばれる会堂があったように、礼拝のために集まる自分たちの会堂を建てようと考えたとしても不思議ではありませんし、実際に建物としての教会が建ち始めていたかもしれません。だからこそ、パウロは教会を建物にたとえたとも考えられますし、そのときに目に見える部分よりも、目には見えないけれども建物の基礎の部分が大切であることを教えるために、「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はイエス・キリスト御自身であり」と伝えたとも考えられます。
現実問題として、この土台がなおざりになれば、どれだけタレント豊かな人が集まっていたとしても、バラバラになります。建物全体が組み合わされて成長することも、主における聖なる神殿となることも、神の住まいになることもありません。21節と22節で「キリストにおいて」と言われていることが大切です。わたしたち教会の交わりが、キリスト抜きであれば、どれだけいい交わりだと思えたとしても、それは口先ばかりの神の家族の交わりでしかなくなってしまいます。
わたしが教区書記をしていた頃、名古屋教会の副牧師であられた張先生が、現住陪餐会員が200人を切ると言われて、三役皆が驚いたことを思い出します。わたしが名古屋に来た1995年頃、名古屋教会は280人から290人の陪餐会員がいました。わたしが着任した2016年は145人だったと思いますが、今日の時点では108人となっています。こんなに減っているのだから、教会規則のことよりもっと大事なこと、考えねばならないことがあるだろうと思われるかもしれません。それは承知しています。
しかし、負け惜しみで言っているのでなく、教会が成長するというのは、人数が増えるということではありません。人数が減ったから教会がダメになっていくのでもありません。もちろん、名古屋教会は、名古屋のセンターチャーチとしての役割があります。そのためには、それなりの規模が必要です。そのために何をすべきか、人任せにするのではなく、自分に何ができるかをしっかりと考えていかねばなりません。それは第一に、キリスト教信仰というのは、自分が救われたらそれで満足し、終わりにはしないということです。復活のイエス・キリストは「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。
新年最初の礼拝で、名古屋教会が、キリストの良き香りを放つ教会になるようにと説教しました。そのために、折が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えます。主の道を伝えていきます。そこが教会の生命線となります。そのような教会であれば必ず、礼拝に招かれた人が、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と告白する。ここに神様がおられるということが明らかになるような存在になるはずです。キリストの体の部分である一人一人がキリストにあって組み合わされてゆくことで、形は整えられていきます。そのための肝となるのが教会の礎、土台の部分です。教会の法や規則もその一つです。名古屋教会が神の住まいにふさわしく、教会として建てられていきますように。