出エジプト記20:16
「十戒第九戒 偽証してはならない」 田口博之牧師
幼い頃「嘘つきは泥棒の始まり」と母親に教えられたことを覚えています。わたしが嘘をついたことが分かったからそう言ったのか、一般的な道徳として教えようとしたのかは覚えていません。この子は嘘がつくのが上手な子になると心配してそう言ったのでしょうか。「嘘つきは泥棒の始まり」というのは、「平気で嘘をつくようになると、盗みも平気でするようになる、だから嘘をついてはいけない」という意味の教えでしょう。日本には、「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲~ます」という何とも恐ろしいわらべ歌もあります。
ユダヤ人の子どもたちは、「隣人に関して偽証してはならない」と教えらえました。十戒の第九戒です。第八戒が「盗んではならない」ですので、イスラエルでは「嘘つきは泥棒の始まり」ではなく、「泥棒は嘘つきの始まり」なのでしょうか、最初に十戒を覚えたときに、そんなことを考えたことも思い出しました。確かに誰かの持っている物が欲しくて思わず自分のポケットに入れてしまった。そんなこと知らないお嘘をつく。嘘と盗みは物心がついた子どもがしてしまう最初の罪だと言えるかも知れません。悪いことだとわかっていてもしてしまう。嘘をついたことで相手が驚くのが面白くなると、つい癖になってしまう。しかし、嘘がバレそうになれば、嘘に嘘を塗り重ねて収拾がつかなくなってしまうこともあるでしょう。
ただし、第九戒で戒められていることは、「隣人に関して偽証してはならない」とあるように、ただ嘘をつくことを戒めているのではありません。「偽証」という言葉からも明らかなように、日常生活での嘘を咎める道徳的な戒めというよりは、裁判での偽証の禁止、法廷で証人として立たされた時に、偽証せず真実を語りなさいという戒めだと考えるべきです。
たいていの人は、裁判の経験を一度もすることがないままに、一生を送るのではと思います。しかし、旧約時代のイスラエルでは、裁判は日常的に行われていました。顔見知りでも、いさかいが起きると町の長老たちの前に出て、解決を求めたのです。それは民事ですけれども、刑事事件の場合、今のような警察組織もありませんので、現場検証が行われて証拠物件が挙げられることもありません。DNA鑑定はもちろんのこと、指紋や血液を採取することも当然のごとくありません。証言こそが唯一の証拠となったのです。その意味でも、裁判での真実の証言は極めて重要なものでした。
証言が重要だということは、一人の証言では証拠不十分だということです。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とあります。二人以上の証人の証言がないと証拠にはならなかったのです。では、そこでの証言が偽りだったらどうなるのか。18節に「裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない」と記されています。ではどのように悪を取り除くのかといえば、21節「あなたは憐れみをかけてはならない」とあります。厳しい言葉です。そして、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」これは律法というより、ハムラビ法典で知られていますが、厳しく罰せられねばならなかった。
旧約聖書に「ナボトのぶどう畑」の話があります。この話の前提として、同じ申命記19章14節の「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない。」この戒めを覚えておいてください。その上で「ナボトのぶどう畑」の話ですけれども、列王記上21章、旧約570頁に出てきます。
ナボトは良いぶどう畑を持っていましたが、そばにはサマリアの王アハブの宮殿がありました。アハブは王としての権力に物を言わせ、ナボトに「ぶどう畑を譲ってくれ」と話を持ちかけます。しかし、ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできません」と言って、王の申し出を拒否しました。つまり先ほど覚えておいてと言った、申命記19章14節の「あなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない」との律法を守ることで、王の申し出を断ったのです。拒絶されたアハブは機嫌を損ねてしまい、妻のイゼベルと計略を巡らします。何をしたかというと、ナボトを法廷に引き出し、ならず者を二人の証人として立たせ「ナボトが神と王とを呪った」と偽証させることで、ナボトを石で打ち殺させたのです。「噓つきは泥棒の始まり」では済まない「偽証は殺人の始まり」となったのです。
このときナボトは王の言うことに逆らいました。しかしそれは王の主権よりも「隣人との地境を動かしてはならない」という律法に服従したためでした。その後、アハブの偽証と偽証が招いた殺人の罪は、預言者エリヤに激しく糾弾され、神の裁きを受けることになります。偽証の罪は、「命には命」厳しく罰せられなければなりません。
新約においては、イエス様の裁判があります。マタイによる福音書26章57節以下)にはユダヤの最高法院での詳細な裁判の様子が綴られていますけれども、59節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めたとあります。「不利な偽証を求めた」というだけで、この裁判が十戒にも反する不当な裁判だったことが分かります。ところが「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」というのです。証言がばらばらだったのです。ただし最後に二人の者が来て、この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言ったことを大祭司は聞き逃さず、イエス様は神への冒涜罪として、ポンテオピラトのもとに送られます。ピラトのもとでは裁判の証人ではなく、傍聴していた大群衆が「十字架につけろ」と叫んだことで、イエス様は十字架へと引き渡されることになりました。冤罪を生むような裁判は今でもありますが、世の歴史の中でこれほど酷い裁判はありません。しかし、イエス様は何も言いませんでした。不当な裁判に身を委ねることで、命には命どころではなく、わたしたちを救うために命を差し出してくださったのです。
さて、この「偽証してはならない」という戒めが、聖書の時代のイスラエルでの裁判での適用に限定されるとするならば、裁判の証言台に立つことはないであろう現代に生きる私たちにとって。無関係な戒めとなってしまうのでしょうか。そんなことはないはずです。宗教改革者カルヴァンは、ジュネーブ教会信仰問答において、第九戒が裁判という公の偽証を禁じる戒めであると言った上で、「われわれが隣人に対して不当な悪口を言うべきでないこと、またけなしたりうそを言ったりして、隣人の財産や名誉を決してそこなってはならないことの、一般的な教えを与えておられるのです」とで述べています。つまり裁判での偽証しなければよい、そんな話ではないと言うのです。
たいていの人は噂話が好きです。噂話が花を咲かせることで、場が盛り上がることも多いです。噂話というのは、伝言ゲームのように誇張されて広がるものです。しかも、そこで広まるのは、誰かをほめるようないい話ではなく、誰かをおとしめるような話しです。人々の気を引く話には尾ひれ背びれがついて、なかった話があった話のように広まることがあります。そうすることで、噂された人の名誉が傷つけてられてしまうとすれば、第九の戒めに違反することになるのだと、カルヴァンは言うのです。
わたしたちが人を批判したり、糾弾する言葉を口にしたりするとき、多くの場合は「自分の正しさ」が前提となっています。だからこそ、違う意見を持つあの人は間違っていると、毒を持った言葉になるのではないでしょうか。これは「偽証してはならない」の戒めと無関係ではありません。
カルヴァンは先のジュネーブ教会信仰問答の続きで、「では、この戒めで神の言わんとされるところは、要するに何か、を言ってごらんなさい」という問いに対して「神はわれわれに悪く判定したり、けなしたりする傾向に陥ることがないように、むしろ事実が許す限り、隣人をよく思うように、またわれわれの言葉をもって彼らの名声を保つべきことをお考えになるのであります」と答えます。
人を傷つけてしまうかもしれないから、何も言わないということではないということです。「沈黙は金なり」ではありません。たとえ偽証しなくても、何も語らない、黙っていることで真実を偽ることがあるのです。組織の中で、情報隠しとか文書の改ざんが行われることがあります。それに関与させられたり、知っていても黙っていることを要求されたりすることがあります。それは自分に嘘をつくということにもなります。でも、そこで声を挙げることは並大抵のことではありません。真実を語るには勇気が必要です。それを言うことで自分の立場が悪くなることもあるし、その言葉によって仲間が反感を抱くこともあります。どうしたらよいのか分からなくなり、一人で苦しむということが往々にしてあります。
今日は「偽証してはならない」という説教題をつけましたが、第九戒を正確にいえば「隣人に関して偽証してはならない」です。この「隣人に関しては」とは、隣人に対してとか、隣人のためにと解することができます。隣人のためにというと、隣人に不利な証言をしてはならないとなるでしょう。しかし隣人に有利な証言をしたとしても、その証言が神の目からは偽りであったとすれば、それは偽証したことに他なりません。それが隣人のためになるのかといえば、そうはならないわけです。
たとえ仲間であったとしても、偽りの証言をしたり、何も言わずにいることが、ほんとにその人の益になるのか。たとえ仲間が傷ついたとしても、真実に語らねばならないことは語る。そういうことが必要なのではないでしょうか。たとえ人の目を騙すことは出来たとしても、神の目にはすべてが明らかであり、わたしたちはいつか神の御前に、裁きの座に立つ時が来るのです。その日その時を恐れないためには、つねに神の前に立って正直に生きる生き方が求められています。
でもそれは「自分に正直に生きる」ということとは違うと思うのです。なぜなら、自分に正直にと言うときには正義の基準が自分の中にあるからです。自分が正義の使者となったときの言葉は人を傷つけます。また「自分に正直に」と似た言葉に「自分に嘘をつかない」という言葉があります。それは現代風の言葉で、ありのままの自分を受け入れることに通じると思います。無理をしないで生きる。以前に「そのままでいいんだよ」というワーシップソングをよく歌いました。確かに主は、ありのままのわたしを受け入れてくださいます。イエス様が十字架に死なれたとは、罪のあるわたしをありのまま受け入れたということでしょう。では受け入れられた自分はそのままでいいのでしょうか。罪が赦されたのですから、罪が赦された人として生きることが必要なのではないでしょうか。ありのままの自分とは古い自分です。赦された人は、主の命をいただいた新しい人として生きるのです。それは自分に正直にとか、自分に嘘をつかずに生きることとは違うのではないか。そんなことを思わされています。
ある十戒の説教集を読んでいたら、次のような言葉と出会いました。「真実を語るためには、偏見、利己、自己防衛の三つを取り除く必要がある。そのためには、わたしたちがまず神の前にへりくだり、砕かれた思いをもって神の真実のみが現れることを祈らずして、真実を語ることはできません。かつて学園紛争の指導者だった人が、次のような手紙を書いていました。「私たちの問題は単純なことなのです。子供が「お母さん、コップが割れちゃったよ」と持ってきます。しかし、そこで「誰が」割ったのかが問題になっていません。これは学問、政治、文化に対する問題提起です。神の真実を求める者にとって、事柄は「わたし」の問題です。「わたし」が証言せねばありません。周囲にある欺瞞的なこと、隣人の隠された不当や苦しみ、これらについて、わたしたちは偽証してはならないのです」と。
ペテロの手紙一3章10節以下には。主の祝福を受け継ぐために召されたキリスト者の生き方を記しています。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、
舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。
主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
昔のイスラエルのように、公の裁判で証言するなど一生ないかもしれません。しかし、もし証言するときに、そのときだけ偽証せず真実を語って自分を繕うのでなく、普段から神の前に立って正直に、真実に生きることが大事です。悪口や嘘が蔓延し、日々裁きあって生きている世にあって、「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」とあるように、嘘偽りから自由に生きることこそが、主に祝福された生き方となります。ありのままの古い自分、罪あるわたしを無償の愛により赦してくださった主の御前に、感謝を携えて自由に生きてい道を主は示してくださっているのです。