出エジプト記20章13節  マタイ5章21~26節
説教「殺してはならない」 田口博之牧師

十戒の第六戒は「殺してはならない」です。ここから十戒の後半、人間関係の戒め、二枚目の石の板に入ります。この戒めに、私たちはどのようなイメージを持つでしょうか。余りにも当たり前のことではないかと考えることができるしょうか。数ある犯罪の中で、人を殺すということ以上に悪い犯罪はないと思います。皆さんが十戒の中で、あなたはどの戒めなら守れますか?と聞かれたなら、この戒めなら守れると答える人がいるのではないでしょうか。わたしたちは命の尊さも勿論ですが、人殺しをしてしまえば、自分も大変なことになってしまうことを知っています。そうであれば、「殺してはならない」とは、とても単純な戒めであって、ちゃんと守る自身があるのだから、あえて説教を聞く必要はない、そう思う人がいるかもしれません。

それでも、はい分かりましたと、説教をしないで終わるわけにはいきません。この戒めはそれほど単純ではないのです。第一に「殺してはならない」とありますが、何を殺してはいけないのか書かれてありません。これは人を殺してはいけないということなのか、動物も含むのか、人であれば正当防衛もダメなのか、戦争で人を殺すことはどう考えればよいのか、死刑だって人を殺すことではないのか、自殺はどうなのか。かなり奥深い問いに満ちているように思います。

すべての生き物は、神によって造られました。アダムを造られた神は、善悪の知識を知る木以外、園の木の実はすべて食べてよいと言われましたが、動物の肉については語っていません。そのことが語られるのはノアの洪水の後です。創世記9章1節以下に、「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。』」 とあります。ここで初めて、生き物を食べてもよいと語られるのです。しかし、本来の神の秩序からすれば、動物は食べるものではありません。命は血の中にあり、それは神のものだと考えるからです。だから動物を犠牲として神に捧げるのです。ところが、動物を殺さなければ、犠牲の捧げ物にはならないので、動物を殺すこと自体は禁じられてはいないのです。

他方、仏教には動物も殺してはならないという殺生罪があります。前にいた教会で、わたしが蚊をパチンと叩いたら、「殺すの」と言わんばかりに、驚いた顔でわたしの顔を見た方がいました。でもその方は仏教徒ではなく教会員なのですね。仏教に蚊を殺すことまで禁じられているかどうか知りませんが、わたしがおかしかったのは、その方が美味しそうにお肉を食べているのを見た時です。おそらく、仏教の教えと言うのは、動物を殺すのはいけないことだけれども、実際には食べないで生きていくことは難しい。そうしないと人間は生きていけないという現実を知らせることではないかなと思っています。

いずれにせよ、人間が生き物を殺さずに生きていくことは不可能なので、この教えが人を殺すことに限っていることは間違いありません。しかし、先に述べたように、人を殺すといっても様々なケースがあります。たとえば、今、聖書研究祈祷会では十戒の補足規定、施行細則ともいえる契約の書を学んでいます。出エジプ記21章12節以下に「死に値する罪」が書かれています。そこには、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」とあります。でも但し書きがあって「故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる」とあります。正当防衛など、情状酌量の余地があるのだと。また14節では、実際に人を死なせたわけでなくても、殺そうという動機が見つめられていて、「処刑することができる」とあるわけですから、それは人を殺したことと同じなのだと言われています。また、15節以下で書かれてあることも、人殺しではありません。でも「必ず死刑に処せられる」とあるのです。日本にも死刑制度がありますが、殺人以外で適用されることはありません。その意味で律法はとても厳しいことが分かります。そのようにしなければ、約束の地において神の民として秩序が築けなかったのです。

そこで思わされることは、死刑もまた人を殺すことではないのかということです。今、先進国と言われる国で、死刑制度があるのは日本とアメリカ位だと言われます。少し前に、死刑制度に反対するバイデン大統領が、37人もの死刑囚を減刑にしたという報道がありました。死刑推進派のトランプ大統領へのけん制とも言われています。

日本では、この2年間は死刑執行が行われていませんが、死刑判決は言い渡されています。以前の聖書研究後の語らいの中で「死刑制度はあってよいのでは」と言われた人もいました。この問題は被害者、あるいは加害者との関りや、心情をどう受け取るかによって、考えも変わってくると思います。日本基督教団でも死刑制度に対する表明をしたことはないように思います。中部教区の加藤議長が教団の教誨師会の会長をしていますが、教誨師の中には、立場を明確にした方がいいという意見もあるようですが、思いがあったとしても公に出すことはできないだろうと言っています。

何年か前に、教会の方から1冊の本をお借りしました。お借りしたのか譲っていただいたのかも覚えていないのですが、『死刑の基準』という本で、「永山裁判」が遺したものという副題が付いています。「永山裁判」というのは、四人の人を連続した永山則夫被告に対し、一審で死刑、二審で無期懲役、そして再び死刑の判決が出た裁判です。最高裁で初めて死刑の適応基準が示されたことから「永山基準」と呼ばれるようになり、以後の刑事事件で死刑か無期懲役かを判断する基準になったとのことです。そこでの基準は、犯行の性質、動機、計画性、など様々ですが、「殺された人が1人なら無期懲役、3人なら死刑。2人がボーダーライン」という目安が決められたと言われています。しかし、わたしが関心を抱くことになったいくつかの殺人事件の量刑は、永山基準に当てはまっていません。また、今だから言えることですが、3年か4年前でしたが、裁判員の候補者に選ばれたことがありました。裁判員は重い刑事事件に参加します。ただし、5月と12月は仕事で参加できない(教区総会とクリスマス)と書いたこともあってか最終的には選ばれませんでした。今にしてよかったなと思っています。人の命は重いので、命に対する責任を持つのは簡単なことではありません。

今、死刑の話をしてきましたが、十戒の「殺してはならない」の「殺す」というヘブライ語は、ラーツァーという言葉で、これは私的な恨みによる殺人を指す言葉です。ですから英訳の聖書は、一般的なkillではなく、謀殺とも訳されるmurderが使われることが多いです。死刑の場合は別の言葉です。あるいは戦争で人を殺す場合には「死なせる」という意味の別の言葉が使われています。戦争も個人的な恨みによって始まるものではないでしょう。

すると、だから十戒で「殺してはならない」とあっても、ユダヤ教もキリスト教も戦争を否定していないのかと考えるかもしれません。確かにヨシュア記などを読むと、聖戦思想的な言葉も出てきます。その意味では、聖書は絶対的平和思想を説いているとはいえません。だからと言って、戦争や仕方のない殺人は容認されるのかといえば、そんな話ではありません。

確かにわたしたちは、旧新約聖書を正典とし、信仰と生活との誤りなき規範としていますが、やはり旧約聖書というのは、神とイスラエルとの間に結ばれた法であり、わたしたちは、イエス・キリストという人格を通して聖書を読む必要があります。何よりもイエス様は「敵を愛せ」と言われました。十字架に捕らえられるときに、弟子に向かって「剣をさやに納めなさい。劍を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。そして、聖書の原語に遡ってお話をしましたが、神が「殺してはならない」とはっきり言われたこと。これを言葉通り受け止めることが大事です。

「グローバルノート」という、様々な国際統計・国別統計データ配信するウェブサイトがあります。その中には、「世界の殺人発生率 国際比較統計・ランキング」も出ていて、2022年、日本は148位でした。やはり平和な国だと思いましたが、一方で148位というのは、2003年以来の悪い数字なのです。実際に今年はもっと悪くなるのではと思えるほど、人が殺されたというニュースを毎日のように見聞きします。クリスマス前には、北九州のマクドナルドで二人の中学生が刺されて、女子生徒の方は死んでしまったという事件がありました。何の抵抗もなく人を殺せるようになっているのでは、と思えてなりません。死刑の話をしましたが、死刑という刑罰も抑止力にはなっていない気がするのです。

90年代の後半だと思いますが、「なぜ殺してはいけないのか」という問いに対して、有識者がきっちりと答えられなかったことが話題になりました。NHK朝ドラの前作「虎に翼」で、主人公の裁判官が新潟勤務のときに、いいところのお嬢様だけど、赤い紐を手首に巻いた独特の雰囲気を持った女子高生との出会いがありました。彼女は「どうして人を殺しちゃいけないのか」と寅子(ともこ)に尋ねますが、答えることができませんでした。それから20年程たって、東京の家裁で彼女の生き写しのような女性を見ました。その子は娘だったのですが、「どうして人を殺しちゃいけないのか」と母と同じ質問を寅子にしたのです。すると寅子は、「理由がわからないからやっていいじゃなくて、わからないからこそやらない。奪う側にならない努力をすべき」と答えました。

その答えは腑に落ちるものですが、それでもわたしは満足できませんでした。それは牧師だからだと言われればその通りですが、理由としては聖書に「殺してはならない」と書いてあるからです。人を創造された神がそう言われるのです。人の命の尊さは、創世記の二つの創造物語を根拠とすることができます。第1の創造物語、創世記1章26節で神は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、27節では「神はご自身にかたどって人を創造された」とあります。神に似せてとか、神にかたどられてとは、わたしたちの姿かたちのことではなく、知恵や優しさなどすべて内面的なものには、神の性質が与えられているということです。さらに言えば、神は人間をパートナーとして、ご自分が呼べば答える応答関係を持ち得る存在として、創造してくださったということです。

また、第2の創造物語では、創世記2章7節で「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム) を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」とあります。ここでは、人は土の塵を素材とするように、本来ははかない存在にすぎないけれども、神が丹精込めて形づくり、その鼻から 息を吹き入れてくださることで生きる者にされたと語られます。創造物語の著者の信仰が、詩的に表現されています。

「なぜ人を殺してはならないか」わたしたちの命は、自分のものではなく神から与えられたものだからです。人の命を奪うことも、自分のものと思うから、好きにできると思うからするのでしょう。この命はわたしのものだと言えるのは、神以外には誰もいません。神のものだから、わたしたちは犯すことはできないのです。
だからこそ、「殺してはならない」の「殺す」という言葉が、私的な恨みによる殺しを意味する言葉だから、戦争の場合はよい、自殺も当てはまらないからそれもよいということにはなりません。死刑だってない方がよいのです。それ以前に死刑に至るような罪、すなわち人を殺すことが起こらなければ、死刑制度云々の議論も起こらないはずなのです。

ローマの信徒への手紙14章8節に「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という信仰の言葉があります。わたしたちの命は神からの与かり ものです。神に造られて「この世に生まれたのですから、死ぬ時も神様がお決めになることです。残念ながら早く死なれる人もいますが、神にお返しするという信仰を持ってお返ししたい。

そして「殺してはならない」という戒めを、イエス様がどう解釈されたかを知ることが大切です。 マタイによる福音書5章21節以下です。イエス様は、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われました。私も思わず「バカ」と口にしてしまうこともあります。今ならそれだけで、「パワハラ」、「アウト」と言われそうですが、それで最高法院に引き渡されるとすれば厳しい。「愚か者」とは言いませんが、それで「火の地獄に投げ込まれる」とすれば、たまったものではありません。そこまで言わなくても、と正直思います。

しかし、イエス様が問題とされていることは、人を傷つけるという意味では、罪の根は同じであり、実際に手に出てしまうか、口に出てしまうかの違いしかないということなのです。いかに温和な人であっても、怒りを持たない人間など誰もいません。イエス様は人間の内にある罪を言われたのです。これらの罪を私たちが努力して取り去ることはできません。神様に赦していただくしかないのです。

そして23節以下には「祭壇」への供え物の話となります。これは今で言えば、神に礼拝をささげることです。たとえ仲違いしていたとしても、礼拝の前には和解しておくことが、礼拝者としての姿勢だという勧めです。人と和解するには、大きなエネルギーが必要となります。その努力を惜しみ、たとえ死んでお詫びをしたところで罪の清算はできません。地上での裁判は免れることができたとしても、もっと厳しい神の裁きの前に必ず立たされるのです。自分の力で罪を解決することができないのですから、どんなに格好が悪くても、神に罪の赦しを願うことなしに救いへの道はありません。

そのようなわたしたちだからこそ、父なる神は御独り子を与えてくださいました。世を和解させるためです。イエス様は私たちの身代わりとなって、ご自身では兄弟に対し「ばか」とか「愚か者」何ひとつ言われないのに、十字架の判決を受けるために最高法院に引き渡され、まさに「火の地獄」である陰府にまで下られたのです。そこまでして、私たちの罪を 赦そうとされた、それが神の愛です。
イエス様の十字架により、私たちは無償で罪が赦されました。これ以上の恵みは他にありません。信仰とは、この恵みに応えることです。 わたしたちには「殺してはならない」という戒めを越えて、「敵をも愛する」生き方が求められているのです。