マタイによる福音書24章3~14節
「時のしるし」 田口博之牧師
弟子たちがイエス様に「そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねました。先ほどの子どものための説教で、「天からのしるし」、「ヨナのしるし」と出てきましたが、ここに書かれてあるように、「しるし」という字は、漢字で書くと印鑑の「印」のしるしではなく、徴候とか徴収の「徴」の字を書いて「しるし」と読みます。「サイン」もその両方の意味がありますが、聖書でいう「しるし」は、イエス様がメシアであることを目に見える形で示すもので、「奇跡」と呼び変えることもできますが、このテキストの場合には、世の終わりの際の「前兆」、「合図」としてとらえるとよいと思います。そのしるしが神からのものか、偽りのしるしかを見極める信仰の目を持つことが必要です。
ここで「どんな徴があるのですか」と尋ねた弟子たちは、どんな思いだったのでしょう。不安であったに違いありません。そう聞く前に「そのことはいつ起こるのですか」と尋ねています。「そのこと」とは、1,2節のイエス様がエルサレム神殿の崩壊を予告されたことです。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とは、徹底した破壊です。弟子たちはそれを聞いた時点で、まさに世の終わりを予感したのではないでしょうか。
先月、宮崎県の日向灘を震源とする地震が起こり、南海トラフ地震臨時情報が出ました。いつ来るかわからないという巨大地震が、いつ来てもおかしくないほどに危険性が高まったという予報です。いろんな反応があったと思います。教会幼稚園の職員は2泊3日で教団主催の研修に出かけていましたが、1日目の夜に臨時情報が出ました。大切な職員です。翌朝一番に北陸新幹線まわりで帰名させることとし、朝一番の御殿場発の電車に乗って東京、長野経由、特急しなので午後4時に名古屋駅に着きました。わたしは教団の担当者に連絡し、教会の危機対応マニュアルに沿ってそうすると伝えました。そのことに理解を示してくれましたが、ひょっとすると過剰反応だと思われたかもしれません。
臨時情報は出ましたが、事前避難を求められたわけではありません。東海道新幹線も徐行しながらも動いていたましたし、名古屋は甚大な被害を覚悟せねばならない地域ですが、それほど変わった様子はなかったように思います。それでも、スーパーでは一時的に水がなくなっていました。買い溜めに走った人が複数名いたのです。「正常性バイアス」という言葉をご存じでしょうか。予期せぬ事態に遭遇した際に「たいしたことじゃない」と判断し、平静を保とうとする人間の心理を指します。災害が起こったときにパニックにならず、慌てず落ち着いた行動を取ることが求められてきました。慌てることで、避難や救助の妨げになると考えられたからです。しかし最近では、人間の心はある程度鈍感にできていて、正常性バイアスによって避難行動が遅れてしまうという問題が指摘されるようになりました。
弟子たちは、神殿が崩壊するようなことがあれば、世の終わりも近いに違いないと感じ取ったはずです。「世の終わり」と聞くと、多くの人は不安を掻き立てられるのではないでしょうか。未曽有の災害に見舞われたりすると「この世も終わりだ」などと口走ることもあります。弟子たちも不安を覚えたからこそ、少しでも防御したいと思い「どんな徴があるのですか」と尋ねたのです。弟子たちの思いを分かっているイエス様は、まず「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われました。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と。世の終わりと聞くと、間違った考えに誘われやすい人間の弱さをご存じなのです。
20世紀も終わりに近づく1990年代に入ると、統一教会の合同結婚式や霊感商法により、カルトの問題が取りざたされました。またオウム真理教による地下鉄サリン事件があり、宗教全般への警戒心が高まってきました。カルト宗教の教祖は、まさに「わたしがメシア」だと言って、多くの人を惑わします。東西冷戦時代が終わっても、湾岸戦争など新たな局面での戦争が起こり、日本の自衛隊派遣、憲法9条改正問題の議論が高まりました。まだ地震への警戒がなかった1995年1月に阪神・淡路大震災が起こり、以後大きな地震が頻繁に起こるようになり、世紀末と重なり脅えた人々は少なくありません。でもイエス様は言われるのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」のだと。
心して聞きたい言葉です。戦争の時代と呼ばれた20世紀から21世紀に入ってまもなく、9.11同時多発テロがありました。その後も世界のいたるところで戦争が起こっています。宗教が絡む場合があります。キリスト教の国なのにどうして、と批判的に言われることがあります。でもイエス様は言われるのです。「そういうことは起こるに決まっている」のだと。だから「まだ世の終わりではない」というのです。飢饉や地震も起こります。近年地球温暖化や気候変動のことが盛んに言われます。確かに異常な暑さには違いありません。温暖化には科学的根拠があり、そのようなことを聖書は知らないことと思われるかもしれません。
しかし、わたしたちが知りえることは、日本が近代化した明治以後のことで、それ以前のことはよくわかってない。12単衣を羽織る平安時代後期は涼しかったかどうかも分かりません。聖書は日本の国が存在することも分かっていなかった時代から、何千年という歴史を超えて編纂されてきました。当然のごとく、様々な自然災害や歴史の中で起こった惨禍を知っています。7年も続く大飢饉がなければ、イスラエルの先祖が約束の地を離れ、エジプトへ向かうことはありませんでした。旧約聖書には、わたしたちが知りたくもないような略奪や戦争の記述がたくさんあります。エルサレムの都は戦争で崩壊し、神の民はバビロンに捕囚されるという試練を潜り抜けています。何が言いたいのかといえば、聖書は様々な自然災害や疫病、戦争など歴史の試練から目を背けるような気休めを語ることで、ここに救いがあると告げているのではないということです。様々な試練や恐怖の中で、救いの出来事に触れ、神の御業を信じた人々の証言が集められています。そういう神の言葉だからこそ、迫害の中にあっても信じる人々に勇気を与えたのです。
実際にイエス様は、神殿崩壊の予告を語っていますが、マタイによる福音書が編纂された時代は、ローマ戦争により、エルサレム神殿が崩壊した後の時代です。このみ言葉を聞いた初代教会の人々は、弟子たちが「そのことはいつ起こるのですか」と尋ねた苦難を経験していたのです。8節に「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」とあります。始まりというのですから、それでもまだ産みの苦しみではないのです。聞いた弟子たちは覚悟したと思います。では、どんな苦しみが襲ってくるのかといえば、9節以下です。
「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言われる。
実に「苦しみを受け、殺される」人も出てくるというのです。イエス様を信じるがゆえに憎まれるというのです。10節以下で「多くの人」という言葉が三度出てきますが、この「多くの人」とは、世間一般の多くではありません。主を信じる人々の多くです。この礼拝に集っているわたしたちの中の「多くの人」のことを言っているのです。「多くの人の愛が冷える」という言葉が心に迫ります。教会は愛に生きていますが、「愛が冷える」というのです。冷めるのではなく、冷えると言っています。しかし、神の愛が冷えることはありません。なぜなら、先週の御言葉でように、わたしたちの「主は焼き尽くす火」、「熱情の神」だからです。熱く燃える、妬むほどの情熱を傾けてわたしたちを愛してくださっている。その主の愛に答えて生きるならば愛は冷えることはありません。
それにしても、神の愛を疑わざるを得ない試練の中で、イエス様は厳しいことが求めているように思います。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われるのです。忍耐が勧められています。でも、ここでの忍耐は、一人でじっと我慢することではありません。試練を経験すると、周りの人の顔がみな幸せそうに見えてきます。人と自分とを比較し、なぜ自分だけがこんな思いをせねばならないのかと苦しむことがあるのではないでしょうか。わたしも絶望しつつ忍耐していた時期がありました。でも、いつしかその思いが変わってきました。思いがけない助けが与えられ、いろんな導きがありました。牧師や教会の友が祈ってくれていたことを知りました。それらすべてが、わたしにとって「時のしるし」でした。パウロはコリント教会への手紙で言いました。「愛は忍耐強い」。聖書でいう忍耐は、愛の賜物として挙げられています。関係性がある、すなわち自分一人で耐え忍ぶことではないのです。
そして、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われます。忍耐が救いと結びつくのです。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」というのです。ここで「終わり」と訳された言葉は、「完成」という意味を持っています。弟子たちはどこまで気付いていたのか定かではありませんが、4節で「あなたが来られて世の終わるときには」と言って、世の終わりとイエス様の再臨とを結びつけて語っていました。
わたしたちは今朝も信仰をもって、また信仰を求めて礼拝に集っています。では、わたしたちの信仰とはいったい何でしょうか。何を信じているのでしょうか。皆さんは、どなたかから「あなたは何を信じているのですか」と聞かれたとき、どう答えるでしょう。キリスト教を信じているとか、神様、イエス様を信じていると答えるのが言いやすいかもしれませんが、その答えは漠然とし過ぎています。そういう言葉ではなく、日本基督教団信仰告白、そこには使徒信条も含みますが、そこに書かれてある言葉で言い表すのが最も具体的で明確です。その信仰告白の前文の最後が「主の再び来たりたまふを待ち望む」です。わたしたちの信仰の中心は十字架であり復活ですが、もう一つの核が、主の再臨を待ち望む信仰です。
内村鑑三は、「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なしに十字架は意味をなさない」と言いました。なぜ再臨は脳髄と言われるほど重要なのでしょうか。マタイによる福音書は、24章、25章にかけて、すなわち26章の受難物語が始まるまで、再臨と世の終わりの教えが続いています。再臨の望みがなければ、十字架の試練に耐えることができないからです。イエス様は、人の子がいつ来てもいいようい「目を覚ましていなさい」と言われます。
主の再臨と世の終わりと救いの完成は、結びつきにくいことだと思います。わかりにくいのです。だからそこに付け込んで、人を惑わす教えが出てくるのです。偽メシアが現れます。地震や疫病、戦争などが起こると世の終わりだと、不安が掻き立てられる。しかし、そうではないのだと、イエス様は言われるのです。わたしの教えをよく聞いて、惑わされないようにしなさいと。
わたしは来る、それから世の終わりが来る。聖書は創世記に始まりヨハネの黙示録で終わります。そのような直線的な救いの歴史を語ります。2000年前にイエス様が来られ、地上に救いが訪れました。しかし、それでもこの世は矛盾に満ちています。救いが完成していないのです。わたしたちはその途上を生きています。しかし、主が再び来られるときに、抱えている矛盾は解決し、すべてが明らかになります。先週もある方と面談をしました。洗礼を受けておられる方です。しかし、今は教会に行けていない。いろんな理由がありますが、一つの理由として、この世に不平等があることに納得が行かないからだと言われました。神は隠れてしまっている。希望が持てない。しかし、その神が目に見える形で現れる時が来ることをイエス様は約束されています。
わたしたちは主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。この祈りは「主よ、来てください」と、主の再臨と世の終わりを待ち望む祈りであることを覚えましょう。世の終わりは、滅びではなく、新しい天と地が成るときです。そのときに救いが完成するのです。世の不平等、すべての矛盾が解決します。その日、その時を待ち望みつつ、わたしたちは共に忍耐して生きるのです。目に見える幸いを求める信仰でなく、神に望みを持って耐え忍んで生きていくのです。