聖書  出エジプト記20章7節   ヤコブの手紙5章12節
説教  「十戒第三戒~主の名をみだりに唱えてはならない」 田口博之牧師

毎月最後の聖日礼拝では十戒を学んでいます、十戒は旧約聖書、すなわち神がイスラエルに与えられた律法の根幹を成すものですが、キリスト教会にとっても重要な教えであり、キリスト者の倫理、信仰生活の規範となるものです。十戒を第一戒から読んだ時に、細かな解釈と守れるか守れないかは別として、「そのとおりだな」と思える人は多いのではないでしょうか。

ところが第三の戒め、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」についてはいかがでしょうか。「よく分からない戒めだな」というのが、わたし自身の第一印象でした。なぜなら、日常生活において、神を忘れていることのほうが多く、主の名を唱えることよりも、唱えることを忘れてしまう生活を送っているからです。「主の名をもっと唱えなさい」と言われた方がピンとくるのにと思いました。

これもずいぶん前のことですが、CSの教案誌にこの箇所が指定されていて、説教したことがありました。子どもたちに「これはどういう意味だと思うか」と尋ねてみたところ、一人の子がこう言ったのです。「神様はとっても忙しくて、お祈りもいちいち聞いておれない。一生に一度位しか祈っても聞かれないと思う。」子供らしい感性に溢れた答えだなと思いました。その答えが〇か×か、はともかくとして、ある意味では真理を突いていると思いました。その当時の世界人口は60億人くらいでしたので、「60億の人が毎日色んな言葉で祈っていたら、神様も大変だよね。でも、神様はなんでもできるお方だから、一日一回のお祈りは大丈夫だと思うよ」そんな言葉で返したことを思い出しました。

わたしたちはこの戒めを前に戸惑いを隠すことができませんが、「主の名を唱えてはならない」というように、いつしか「みだりに」を飛ばして考えてしまっていることはないでしょうか。確かに主は、「求めよ、さらば与えられん」と、熱心であることを求められていますが、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」と合わせて言われているということは、主の名を唱えることには、慎重で注意深くあることを教えているのです。

ところがユダヤ人たちは、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」という罰則規定を恐れました。「みだりに」とは、辞書的に言えば「必要がないのに」とか「むやみやたらと」という意味になりますが、いったいどれ程唱えたら「みだりに」なのか、その基準は示されてはいません。ですから、主の名を唱えると罰せられることを恐れたユダヤ人は、下手に主の名を唱えない方がよいと考えるようになりました。その結果、何が起こったかというと、聖書に主の名が出てくると、もごもごと口をつぐみ、やがて正しい読み方が分からなくなってしまったのです。ヘブライ語聖書で、主の名は大文字でYHWHと表記されました。ユダヤ人は時代を経て、ここを主人、所有者を意味するアドナイの母音を付したことから、エホバと発音されるようになりました。ですから日本語の文語訳の古い聖書もエホバと訳されています。しかし今では、その読み方は間違いだったとされ、主あるいはヤハウェ、ヤーヴェと表記されるようになっています。いずれにせよ、この戒めが存在したことによって、主の名がはっきり分からないという事態が起きたのです。

古代オリエント社会において「名をつかむ者はその名をつかむ」と言われ、神の名が自分の欲望のために利用されることが起きていたと言われています。その結果、神の名を使った魔術や呪文、まじないも横行したことで、間違った形で使われることがあったのです。現代の占いも似たりよったりですし、有力者や政治家に知り合いがいると、その名を利用することがあるでしょう。ツテやコネというのは、力ある者の名が利用されることです。私たちもそのような社会で生きています。

昨日、学童の運営委員会が行われ、父母会の会長の報告がありました。今年度、防犯にかかわる助成金が市から出るという話を聞いていました。防犯カメラはすでに付けてありましたので、父母会の方では、夜間の人感センサーライトを付ける話になりました。父母会から、教会の階段に付けていいですかという相談があり、もちろんいいですよと答え、業者との打ち合わせも済んでいました。ところが、行政からそれは認められないという通知があったという報告がされたのです。正面階段は学童の専有ではなく、教会との共有スペースだからというのが理由でした。わたしは、教会員は内階段かエレベータを使い、正面の階段を使う人はあまりいない。使っても週に一度、日曜日の午前だけなので、そもそもライトはなくていい。でも学童の子は、毎日の前階段を使うのです。お迎えの時間は暗くなっているし、防犯のために必要ではないかと話ました。でも、その話は全部伝えていると言われるのです。つまり、役所の担当者が、子どもたちの安全よりも、共有スペースにつけるという前例のないことはしたくなかったということです。

そのような報告があった後で、学童の運営委員会のメンバーは、学区の有力者が多く行政にも顔が利くので、一人の委員から電話してもらうことになりました。そのときの電話で、誰の名前を出すと効き目があるかなども話していました。いたって政治的な話をしていますが、目的は有力者の名を出すことで、決定を覆すように圧をかけることではありません。「名古屋教会留守家庭児童育成会」と教会の名の付いた学童らしい働きかけをすることで、行政には言葉だけでなく、実態を伴った施策としていただきたい。そんな願いからです。幼稚園のマンション問題の裁判でも経験したことも同じでした。

わたしたちの社会の中でも、名前というのは正しく用いられる必要があります。皆さんも自分の名前を間違えて呼ばれたとすれば、いい気がしないものでしょう。名というのは自分自身であり、自分の全人格が名前には込められています。「主の御名によって」とは「主ご自身によって」ということです。誰かの名前を勝手に使うとすれば、その人の人格を考えず、自分の利益のために使うことになります。まして神の名をみだりに用いることで、自分の意のままに動かそうとするならば、神様を利用したことに他なりません。これは不信仰以外の何物でもありません。

岩波訳の聖書を開くと、第三戒は「空しいことのために唱えてはならない」と訳されていました。すると、みだりにとは数の問題というより、何を目的に主の名を唱えるかという問題になってきます。たとえ、祈る回数としては多くない、みだりに主の名を用いたのではなくとも、自分はこうしたい、こうなりたい。でも、それが実現することで、誰かが傷ついてしまう、隣人の大切なもの奪うようなことになったとすれば、神が喜ばれる筈はありません。自分の願いを実現するために主の名を唱えるとすれば、それは軽々しい行為です。それはまさに「みだりに」唱えることに他なりません。

十戒の前文にあるように、イスラエルの神は「わたしは主、あなたの神」と、ご自身の名を示されました。それは、「わたしとあなた」という生きた交わりの中で、主の御名がたたえられることを望まれたからです。みだりに、空しいことのために、その名を利用することではないのです。わたしたちは主の御名によって祈りますが、願い求めることは、自分の願いではなく主の御心です。

ところで十戒の解説書はたくさんあり、わたしの手元にも10冊以上の本があります。それをすべて読むことはできないのですが、必ず目を通すのは、宗教改革期のカテキズム、信仰問答です。それらを読んで知らされるのは、「みだりに」の意味として、「偽証」さらには 「誓い」の意味でとらえられていることです。

カルヴァンの書いたジュネーヴ教会信仰問答を読むと、「第三の戒は、どういう意味ですか」という問いに対して、「神はわれわれに、単に偽証のときのみでなく、余計なまた意味のない誓いの中で、神の名をみだりに用いることを、禁じられておるのであります」と答えています。その根拠となる聖句として、レビ記19章12節を挙げることができます。そこには、「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」とあります。

また、ハイデルベルグ信仰問答では、「第三戒は何を求めていますか」の問いに対して、「わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒瀆または乱用することなく、黙認や傍観によっても、そのような恐るべき罪に関与しないということ。要するに、わたしたちが畏れと経験によらないでは、神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです」と答えています。

イエス様は、マタイによる福音書5章33節以降で、先に読んだレビ記の言葉を引いた後で、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と教えられました。これは、誤解して受け取られやすい教えです。律法は、主の名によって偽り誓うことは禁じていますが、誓いそのものは禁じていないからです。わたしたちの日常生活からすれば、「誓い」という言葉は、かしこまったものと思われるでしょうが、わたしたちの生活と誓いは、切っても切り離すことはできません。特に教会生活においてそうです。キリスト者のスタートとなる洗礼式で誓約をします。牧師が、「主の日の礼拝を守ること、この教会の会員としてふさわしい生活をし、教会の定めに従って忠実にその責任を果たすことを誓約しますか」と問うと、「主の助けによって誓約します」と答えていただき、その誓約があった後に牧師は洗礼を授けます。その他、他の教派からの転入会式、長老就任式、牧師就任式等では、必ず誓約があります。その意味では、信仰生活と誓いとは、切っても切り離すことができません。教会というのは、誓約によって成り立つ信仰共同体おいう言い方もできるのです。

では、なぜイエス様は、「一切誓いをたててはならない」と言われたのでしょうか。今日は新約聖書から、ヤコブの手紙5章12節を選ばせていただきました。(新約426頁)こうあります。「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」

このみ言葉と先のイエス様の言葉を根拠にして、キリスト信仰者はどのような誓いも立ててはならない」と言われる人がいます。しかしそうではありません。この言葉の背景には、ユダヤ人たちの間で誓いを頻繁に立てる慣習が出来ていたことがあります。日常の些細な事についてもいちいち誓いを立てていたのです。そこで、主の名が用いられたとするならば、実に軽率で、みだりに唱えていることに他なりません。

ヤコブが誓いを立てることを禁じたのも、誓うこと自体に何の意味もないとか、誓うという行為が神に反しているということではないのです。誓い、誓約するとは、教会で行われる誓約、結婚式もそうですが、実に厳粛で重要なものです。神と教会に対して、また隣人に対して、自らの決意と責任をかけて行うのですから。そのような誓いは、滅多にすることではありません。誓いが乱用されれば、その誓い自体が重みを失ってしまいます。

「天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと」とあるのは、十戒の罰則規定が影響し、主の名を用いることを避けたからだと思われます。しかし、主の名を用いようが、用いまいが同じことです。自分の潔白を示すため「天地神明に誓って嘘は言ってない」。そんな言葉を言う人がいたとすれば、その場逃れの言葉のように聞こえるのではないでしょうか。

思うにイエス様ほど、人間の誓いがどれほど当てにならないかを、ご存知の方はなかったのです。ベトロは、イエス様が捕らえられた夜、「たとえ。ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓いました。そんなペトロが「そんな人は知らない」と誓って打ち消し、夜明け前には、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らないと誓い始めた」のです。イエス様は、自分の身を守るためにはみだりに誓いを立ててしまう、人間の弱さ、罪を背負って十字架で死なれました。その関係の中で私たちは 生かされています。

ハイデルベルク信仰問答の第三戒に四つの問答を用意していますが、誓いに集中しています。「しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか」という問いに対して「そのとおりです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です」と答えています。

わたしも経験したことですが、裁判で証言台に立つと、尋問に先立って宣誓があります。「良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,偽りを述べない旨を誓います。」という紙が証言台に置かれ、そこに氏名がすでに書かれていて押印したか、サインをしたかはよく覚えていませんが、これから証言することに嘘、偽りがないことを法廷で公にするのです。後で知ったことですが、事前に出した陳述書にも嘘があったら罰金を支払わねばなりませんでした。罰則規定があるから嘘を言わないというのではなく、書き言葉にせよ、話し言葉にせよ、言葉に責任を持つことが求められています。それは、牧師、説教者として常に問われていることです。

イエス様は、神の名をどう呼べばよいかわからない弟子たちに対して、「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように』」と、主の祈りを教えられました。わたしたちは、神を「父」と呼べる、神の子とされる交わりの中に生かされています。人間の父は、子どもの思いを完全には理解出来ていませんが、神はご存じです。イエス様は「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」。「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とも言われました。かつてのCSの子が言ったように、神様は忙しいからだからではなく、わたしたちのことを分かってくださっているから、くどくど祈る必要はないのです。でも、わかっていたとしても、人間の親であれば、子どもが話かけてくれたら嬉しいのと同じように、神様もまた嬉しいのです。

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」わたしたちは、こんなことを言ったら罰が当たるなどと恐れる必要はありません。第三戒は、のびやかな心で神の名を呼ぶことができることを教えているのです。わたしたちは、詩編の詩人がそうであったように、絶望のただ中にあっても、悲しみの中にあっても神の名を呼ぶことができるのです。ハイデルベルク信仰問答の答えに「この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです」とあったように、わたしたちは主を賛美しながら歩んでいくのです。