聖書  コリントの信徒への手紙二1章23節~2章4節
説教  「喜びの共有」 田口博之牧師

自分の思いが、なかなか相手に通じないことがあります。相手のことを思っての言動が理解されずに苦労することがあるのです。その人のためと思って言った言葉で傷つけてしまったり、配慮をもってしたことなのに、思わぬ誤解を引き起こしてしまうということが。わたしたちが読んでいるコリントの信徒への手紙二の差出人であるパウロも、そのような誤解を受け苦しんでいました。

パウロは、コリントに訪問する約束をしていましたが、その予定をキャンセルしました。先週の礼拝に出席された方はご承知のこととなりますが、今日のテキスト、コリントの信徒への手紙二1章21節から2章4節は、先週読んだところの続きです。1章12節(352p終わり)の小見出しに「コリント訪問の延期」とあります。パウロはコリントを訪れたいと思っていましたが、今はその時ではないと判断しました。ところが、そのことを知ったコリントの信徒たちから大バッシングを受けたのです。来ると言っていたのに来ないとはどういうことだと。

どうでしょう。行くと言っていたのに行けなくなることは、よくある話です。先週の説教でも、わたしはその日の夕方に会議があることを朝は覚えていたのに、その時になると忘れてしまっていたという話をしました。電話がかかって思い出して向かうと30分の遅刻でした。それでも、相手との関係性がよければ、「忘れていたんだな。そういうこともあるよな」で済むのです。でも、そうでなければ、忘れていたではすみません。いい加減な人だと非難さえたり、自分のことは軽く見られている、どうでもいいのかと思われたりすることがあります。

パウロは、コリント教会の開拓者でした。第一コリント書の中で、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」と書き送ったように、コリント教会にとってパウロは産みの親と言っていい人です。親であれば、子どもがいくつになっても心配です。しかし「親の心子知らず」とも言われるように、子どもからすれば、親の言うことがいちいち煩わしくなってきます。しかもパウロが去った後、別の伝道者がコリントに入ってきて影響を受ける人々が出てきました。パウロはイエスの直接の弟子ではない、使徒だと言っているようだがそれは誤りで、惑わす人だと言う人もいます。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言っている場合ではなく、パウロへの信頼そのものが揺らいでいたのです。パウロに否定的な人たちは、コリントに来ないと聞いたことで、パウロは約束を守らない人、当てにならないと更に批判を強めるようになりました。

先週の礼拝では、そうした批判に対するパウロの弁明を見てきました。その特徴を一つだけ繰り返せば、神を主語にして語っていたことでした。18節で「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」と言っています。これがどういうことかと言えば、あなたがたがは、わたしの言うことは「然り、然り」が同時に「否、否」となる、言うことがコロコロ変わっていい加減だと批判しているけれども、そうではない。神は真実であり、わたしは真実な神に召され仕えているのだからそんなことがある筈がない。そこをよく考えてほしいというのが、パウロの切なる願いでした。

そのようにして、パウロは自分の立ちどころを述べてきましたが、コリント行きを延期した具体的な理由についてようやく語るのが、今日のテキスト23節です。ここでパウロは、「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」と言っています。どうでしょう、皆さんはここを読んで何を思われるでしょうか。わたしは、驚いたと同時に意外だなと思いました。何に驚いたかと言えば、パウロが「神を証人に立てて、命にかけて誓います」と言ったことです。また、何を意外に思ったのかといえば、まだコリントに行かない理由として、それは「あなたがたへの思いやりからです」と言ったことです。何をどう思いやったのでしょうか。

はじめに、「命にかけて誓います」という言葉についてですが、正直言って、大袈裟過ぎやしませんかと思いました。事柄はコリントに行くか、行かないかという問題、言ってみればそれだけです。イエス様は「誓ってはならない」と言われたように「誓う」という言葉は、簡単に口にしない方がいいように思います。ここでは、この誓いが破られたら死んでもいいということですから。しかも、「神を証人に立てて」と言うのです。もう、後に引き下がることはできません。

では、パウロが命にかけてまで誓った「あなたがたへの思いやり」とは、いったい何でしょうか。「思いやりのある人」とは、相手の気持ちを理解し、その人の立場や状況を気づかえる人を言います。それは牧会者の資質であり、わたし自身もかくありたいと思いますが、相手との関係が悪ければ、思いやりをもって接するのは簡単ではありません。パウロとコリントの信徒たちの関係がそうでした。ですから「あなたがたへの思いやりからです」と読んで、意外に思ったのです。これまで語ってきた言葉とは、響きが違うのです。伝道者の言葉から牧会者の言葉へ変わっているようにも思いました。

この「思いやり」と訳された言葉、口語訳聖書では「寛大でありたい」となっていました。それは厳しく接したくない。わたしはあなたがたに対して寛大でありたい、裁くようなことをしたくないからということです。イエス・キリストの御名に相応しい教会となるために、厳しく指導する、訓練するということは使徒として当然のつとめです。でも、今コリントに行けば厳しいことをせざるを得ない。今それをすると、コリント教会との対立が深くなること以上に、コリントの信徒たちが傷ついてしまう。そして、教会から離れ、神様からも離れてしまう。牧会者として、そのことを案じたのです。2章1節に「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました」とあるのも、パウロの思いやりの表れと言えます。

その背景となる言葉が1章24節です。「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく」と言っています。この言葉の背後には、コリントの信徒たちの中に、パウロという人はわたしたちの信仰を支配しようとしている、そういう批判があったと見ることができます。皆さんの中にも社会に出て、上司から厳しく注意されるということがあったでしょう。注意する人は、その人のためを思ってしただけなのに、注意された人はそうは受け取らない。わたしは昭和世代だからか、言われれば奮起するタイプの人間でしたが、今の世代は、それとは違う反応が出てしまうようです。ある人は仕事を辞めようと考えます。ある人は注意されないことだけを考えて仕事をしようとします。上司とその人とは、支配する人、支配される人との関係になってしまいます。

パウロとしては、その人の信仰を支配しようとする気はありません。信仰を支配しようと考えるのはカルトです。思い通りに操ろうとします。それはおかしいと気づけばいいのですが、中には支配されることに居心地の良さを覚えてしまう人もいます。それはとても危険なことです。わたしは説教でいろんな話しをしますが、ここが肝だと言うところでは、ああそうだよな、アーメンと思って聞いて欲しいと願っています。先週さふらん・ヨナで説教しましたが、ある職員の琴線に触れたようで、今の話をもっと詳しく聞きたいと言って来られた方がいました。それはとても有難いことですが、狙ってしたことではありません。神が働かれたとしか言えないことです。普段の礼拝でも、聞く人の信仰を支配しようなどとは思ったことはありません。アーメンと思って聞いてくれたら嬉しい反面、牧師はああ言ったけれど、あれはどういうことだろう、こういうこともあるのではないか、と思いめぐらすような聞き方をして欲しいと思っています。そこで起こった問いが、自分に与えられた御言葉として残るからです。

今年の「花の日家族感謝礼拝」のときに、「生きるためにいちばん大切なこと」という主題で説教しました。結論として語ったことは「神さまを知ること」でした。しばらく経ってからですが、書道教室に通っているはこぶねの子が、「牧師先生は、生きるためにいちばん大切なことは何か、水や空気がなければ当然生きられないけれど、そういうことではなくて、わたしたちがよりよく生きるためには、神さまを知ることが必要だと言った」と言ってきたのです。実に正確に覚えていたので驚きました。すると、その後で「じゃあ、神さまを知らない人はどうなるのか」と言ったのです。説教を聞いてから、そのことをずっと思い巡らしていたと思うのです。わたしは、「『神さまを知ること』と言ったのは、その時にも言ったと思うけど、牧師だから言う言葉だと断って言った。でも、それがいちばん大切なことと思っていることは事実。どれだけ自分が愛されているのかが分かる。そのことを伝えるために牧師はいるし、教会では礼拝をしているんだ」と答えました。その後の言葉は返ってきませんでしたが、その子なりに受け止めた様子でした。説教は「出来事の言葉」だと言われることがありますが、その後の会話も含めてその子にとって説教が出来事になったのだと思います。言いかえれば、これから生きていく上で、引っかかる言葉になったということです。そういう言葉は、人生のあるときに、立ち上がってくるのです。

パウロは、「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく」と言った後で、「むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」と言いました。信仰に生きるということは、喜びに生きるということです。喜びのない信仰生活はありません。喜びがないとすればどこかが病んでいます。御言葉の処方箋が必要です。聖書でいう喜びとは、救われたことの喜びです。イエス・キリストによって与えられた永遠の命の喜び、天につながる喜びです。その喜びがあるからこそ、この世にあって辛いことや悲しいことはたくさんあるけれど、それを乗り越えようとする力になります。

現代において、信仰を継承するということがとても難しい時代になっています。「宗教2世」という言葉には、マイナスのイメージがあります。親が信仰を押し付けている、個人の思想信条の自由が奪われてしまうという考え方となります。特にキリスト教信仰は、神とその人との契約によって成り立つものですので、親から子へと世襲によって継承するという考え方はそぐわないところがあります。ですから、わたし自身は「信仰の継承」という言葉を使うことはありません。けれども、信仰が心からの喜びだと考えるのであれば、それを子どもに伝えたいと思うのは当然のことです。それは子どもが、試練に遭っても乗り越えて行ける、深い喜びの人生を生きることが出来るように願ってのことです。でも、子どもからすれば、親の思い通りになってたまるかと思う。パウロとコリントの信徒との関係もそうなっていたといえるのです。

パウロはそのことに気づいて、「あなたがたの喜びのために協力する者です」という言葉を使いました。押しつけになると思ったからでしょうか、自分が喜びを伝えると言うのではなく、「喜びのために協力する者」と言いました。喜びの主体は神です。6章1節では「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます」と言っています。自分が主となるのではなく、協力者であるというスタンスです。福音とは喜びの知らせです。伝道者は喜びを知らせるために仕える者です。楽しいだけの喜びではなく、救いに根ざす喜びです。真の喜びがあふれるとき、教会の伝道も進展します。

2章に入ると「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう」と言います。パウロは「喜びのために協力する者」であるからこそ、行きたい思いをぐっと抑えて、今は行くことで悲しませることはしないと言うのです。あなたがたが悲しむとすれば、わたしも喜ぶことができないからです。教会では喜びだけでなく、悲しみも共有します。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあるように、喜びだけでなく、悲しみも共有できるのが教会の交わりです。葬儀などは特にそうです。しかし、悲しみを共にしても打ちひしがれることがないのは、その先にある喜びを知っているからです。

3節以下に「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」とあります。

「あのようなことを書いた」とは、以前に書いた手紙のことを言っています。その手紙は、明確な形としては残っていません。ですから、何を書いたのか具体的なことは分かりません。それでもはっきりと分かることは、パウロが「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と言っていることです。しかし、それを読んだコリントの信徒たちは、パウロの思いを受け止められず悲しんだのです。厳しいことを書いたのかもしれません。しかし、パウロとしては、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに書いた手紙だったのです。それでも、コリントの信徒たちが悲しんだのは、パウロとコリント教会との間に悲しみの関係が生まれていたから、言葉が通じ合わなくなっていたからです。そういうことをわたしたちも経験することがあります。家族の中で、教会の中で、初めの愛が失われてしまうことがあるのです。愛がなくなると、以前のように関係が回復するのは難しい。テレビドラマのように丸く収まるということはありません。見せかけの関係は回復できたとしても、しこりが残ります。それでもパウロはあきらめてはいませんでした。なぜならコリント教会への希望を失ってはいなかったからです。

そのことは、1章21節、22節に表れています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」とあります。神が、わたしたちとあなたをキリストに固く結び付けてくださった。祝福の油を注いでくださっている。さらにわたしたちは、神の子とされていることの証印を押されている。永遠の救いの保証としての聖霊が与えられている。

パウロはここで、神とキリストと聖霊という三位一体の祝福を述べています。洗礼式の時、牧師は、「父と、子と、聖霊の御名によって、あなたにバプテスマを授ける」と言って、三度水を注ぎます。しかし人は洗礼を受けても、教会の交わりから離れてしまうことがあります。それは牧師にとっては悲しいことで、時に涙ながらに手紙を送ることもあります。返事をいただいて面談することもありますが、そうはならないこともあります。それでも、神は確かなお方です。そちらで洗礼を受けたけれど、もう何十年と教会に連絡もせず、すっかり不義理していたけれども、最近近くの教会に行き始めたので、そこに転会の推薦書を送って欲しい。そのような連絡を受けることが何度もありました。教会の名簿には、不在、別帳となっている。信仰がなくなったと思っていても、神が押してくださった証印が消えることはないのです。

そのことを信じていたパウロは、24節の終わり「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」と述べました。わたしの支配では立てないけれど、神が立たせてくださっていることが拠り所となったのです。だから、コリントに行きたい思いをこらえることができたのです。どんな誤解を受けようとも、わたしたちはキリストに固く結び付けられている。この手紙の終わりにあるように、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と、祝福を送ることができたのです。