申命記6章10~15節 ヤコブの手紙4章5~6節
「熱情の神、妬む神」 田口博之牧師
台風の規模は小さくなりましたが、大雨により今日の礼拝に行けだろうるかと心配された方も少なくなかったのではと思います。気候変動のためか、昔と違って台風の動きが定まらなくなってきました。わたしは新幹線の計画運休で助かった面がありますが、労苦された方が大勢おられ、気の毒という言葉では言い表せないものがあります。この台風の影響で、突風や土砂崩れ、浸水や冠水被害に遭われた方の上に主の助けがありますように祈ります。
さて、今日の説教題は「熱情の神、妬む神」としています。先週は出エジプト記20章4節から6節、十戒の第二戒を主題に説教しましたが、先週の礼拝に出られた方はこの流れがお分かりだと思います。第二戒は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。出エジプト記をよりも、申命記版の十戒を開いていただくほうが、今日のテキストとページも近いのでよいと思います。申命記というのは、イスラエルの民が約束の地に入る直前、モーセの遺言集といってよい書ですけれども、申命記5章(289p)でモーセが全イスラエルを呼び集めて、主なる神から授けられた十戒を改めて告げているのです。申命記5章8節から10節は、出エジプト記20章4節から6節と一言一句、同じです。
十戒は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という前文により始まりますが、9節で「わたしは主、あなたの神」と改めて名乗っています。ところがここでは、エジプトから導き出した神ではなく、「熱情の神である」と言うのです。「わたしは主、あなたの神」が「熱情の神」だということは、とても大切なことなので続けて話したかったのですが、今日の説教に譲ることを予告しました。ではなぜ、「熱情の神」ではなく、「熱情の神、妬む神」という説教題にしたのかと言えば、旧約聖書が書かれたヘブライ語の「エル・カンナー」を直訳すれば「妬む神」となるからです。実際に以前に使われた口語訳聖書では、「妬む」をひらがなで表記して「ねたむ神」、新しい共同訳では漢字で「妬む神」となっています。いくつかの英訳聖書を見ましたが、多数が「jealous God」と表記されていました。嫉妬深い神という意味です。
では、神が何に嫉妬するのかといえば、イスラエルの民が、偶像崇拝をしたことに対してです。わたしはあなたを愛しているのに、あなたはわたしではなく、他の神々を拝んでいる。目に見える神の像を造って礼拝していることに我慢ならないということです。どうでしょう。わたしたち人間のことを考えても、嫉妬するというのは、その人を愛していることの証です。愛していなければ、相手が浮気していようが、たいして気にならない。でも相手への愛が大きければ大きいほど、裏切られたという思いが強くなり、相手のことが許せなくなるということがあるのではないでしょうか。それほど愛されているのは幸せなことですけれども、人間は身勝手な思いから間違いを犯して相手を傷つけてしまうことがあるのです。
しかし、嫉妬するというのは人間がすることであり、神が激しく嫉妬する。妬む神などと言われると、神らしくないのではないかと、考えるのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙一13章の愛の賛歌では、「愛は忍耐強い、ねたまない」とあるのです。であれば神が妬むはずなどない。それでは「神が愛です」とは言えないのではないかと。新共同訳聖書が出て「ねたむ神」が「熱情の神」と訳し変えられたときに、神様のことだから少し遠慮したのではという声があったと聞きました。妬むとは、神に対して使う言葉としてふさわしくないのではと、忖度する思いが働いたという批判です。先ほど英訳の聖書の話をしましたが、新改訳聖書など他の邦訳聖書も「妬む神」と訳すほうが多いのです。
わたしは新共同訳世代ですが、口語訳時代の略解や聖書辞典も用いています。そんなに詳しく書いているわけではないけれど、要点を抑えてあって黙想が広がるのです。今も昭和36年初版発行の聖書辞典をよく参照していますが、そこに書かれてある「ねたむ神」の解説には、こう書かれています。
「ねたむ神」=「神についてのきわめて人間的な表現の一つ。神がその民と純粋無比な関係をもち続けようとする心を表す。そこには非常な熱情と徹底した真実が語られているので、人間のねたみと同様に扱うことはできない。」どうでしょう。とても分かりやすい解説だと思います。冒頭、「神についてのきわめて人間的な表現の一つ」とありましたが、確かに「ねたむ」とは人間臭さがあります。しかしそれは、神は抽象的ではないということの裏返しです。
よくキリスト教は愛の宗教で、キリスト教の神は愛の神だと言われることがあります。そのとおりです。しかし、それがどういう愛なのかと問われたとき、皆さんならどう答えるでしょうか。しばしば観念的で抽象的な説明になってしまい、結局どういう愛なのかがよくわからないということになりかめません。わたしたちが信じている神は、「愛の神です」、「正義の神です」、「平和の神です」というと、言葉としては収まりがいいかもしれませんけれども、具体的にどんな神なのかよくわからないのです。「わたしたちが信じている神は、妬みの神です」とは、恥ずかくて言いにくい表現かもしれませんが、それほどわたしたちの神は人間的であり、妬むという言葉で言い表せるほど具体的です。それでも神の妬みは、「人間のねたみと同様に扱うことはできない」
ある神学者は、「人間は神なくして済ますことができる。しかし、神は人間なしに済ますことはできない」と言いました。なるほどと思いました。礼拝に集っているわたしたちは、神様がいないと困ると思っているはずです。でも、神なしでしっかりと生きている人がたくさんいると思ったときに、その人に神を伝えねばと思うよりも、神がいなくたって困らないという考えに傾くことはないでしょうか。でも、神様の側はそうではなく、わたしたちがいなければ困ると思っているというのです。話が逆転しているようですが、こういう言葉で、神がどれほど人間を愛してくださっているかが分かるのではないでしょうか。わたしたちの目が、他の神と呼ばれるものに向くようなことがあれば、我慢ならなくなるのが、わたしたちの神であらあれるのです。
参考までに、原典にもっとも忠実と言われる岩波訳では「熱愛する神」と訳していました。その注記には、「この形容詞カンナーを、動詞カーナーと同様に、「妬みの」、「熱心の」と訳すこともできるが、恵みが遥かに大きいという次の内容を考慮してこう訳した」と解説されています。新共同訳が「熱情の神」とした理由も同じです。そこで言われる「恵みが遥かに大きいという次の内容」とは、申命記5章9節後半にある「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」を指しています。
「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」とは、神の妬みの恐ろしさを表しています。旧約の神が裁きの神だと言われるゆえんです。イエス様が否定された因果応報が肯定されているようにも思えます。しかし、この神は「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われるのです。二代目が子どもですので、三代、四代とは、孫、ひ孫世代のことです。この中にもひ孫を抱かれた方がおられるように、三代、四代とは、目に見える家族の範囲です。この者たちが罪を問われることのないように生きなければなりません。しかし、そこに神の裁きに脅えるおでなく、「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われていることに心をとめたいのです。
新約聖書の始め、マタイによる福音書の系図の終わりに「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」とあります。単純な数え方ですが、旧約聖書に言い表されている何千年という救いの歴史をすべて合わせても42代でとなります。それはイエス・キリストの誕生に至るまで罪を重ねた人間の歴史です。キリスト以後、新約の時代になってもその愚かさは変わりません。しかし神は、「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」というのです。「幾千代」は、「三代、四代」とは比較になりません。「永遠」という言葉で言い替えることができるほど、限りなき慈しみを与えてくださることが、言い表されています。そのような恵み深い神なのですから、たとえわたしたちの父祖の世代が罪を犯したとしても、そのことのゆえにわたしたちが苦しむことなどあるはずがないのです。何よりも、イエス・キリストの十字架によって罪ある私たちを赦し、神の子として生かしてくださる神の慈しみは、わたしたちの罪に対する怒りとは比べものにならないくらい大きいものです。
これ以上、熱情の神か、妬む神のどちらの訳がふさわしいのかを論じる必要はないと思います。わたしは新共同訳世代だと言いましたが、聖書を読み始めたとき「熱情の神」という言葉に打たれました。わたしが信じる神は、熱情の神。冷めた思いではなく、熱い思いをもって愛してくださることを知り、このお方のために生涯をお献げしたいと思いました。もしかすると、「ねたむ神」として聖書を読んでいる限り、献身しようと思わなかったかもしれないと今にして思うのです。
先週の説教の終わりに読んだ申命記4章24節に、「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである」とありました。そこを読んだときに、「主は焼き尽くす火」という言葉に目がとまりました。火だからこそ、冷ややかではなく、熱い思いを持ってわたしたちと関わってくださる。だから熱情の神なのです。モーセが神と出会ったとき、火は燃えているのに、燃え尽きない柴の中から神の声を聞きました。今日のテキスト6章15節にも、「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい」とあります。モーセにとって、燃え盛る火の中から神と出会ったことが原体験として残り続けたのだと思います。
イスラエルの民が、荒れ野の40年も経て到達した約束の地は祝された地でした。6章10節以下に「あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足する」とあるように恵まれた地だったのです。それはその土地には先住民がいたからです。彼らを追い払ったことについて今は触れません。ここでは、彼らは自分たちが開拓せずとも、すべてが整った地に住むことができたことに心をとめたいのです。それは彼らの力で手にしたものではなく、ただ神の慈しみによります。だからこそ、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」と言われているのです。主は熱情の神であるからこそ、「主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい」これがモーセの遺言でした。
熱情の神は、妬む神です。旧約の神は裁きの神であり、妬む神。新約の神は愛の神であり、熱情の神なのだというステレオタイプの考えは、捨てなければなりません。今日は新約聖書、ヤコブの手紙4章5節、6節を選びました。ここにも「ねたむ」という言葉が、しかも神がねたむ、という表現が出てきます。
「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』」とあります。実はこの括弧に入れられている言葉について、「聖書に次のように書かれている」とありますが、旧約聖書からの直接の引用ではありません。しかし、今日のテキストに限らず、旧約聖書のいくつかの箇所において、神が激しい情熱をもってご自分の民を愛しておられるがゆえに、その愛に応えない者に対してねたむと語られていたことが、この言葉の元になっていると考えられます。
聖書は旧新約聖書を通して、神がわたしたちを妬むほどに激しく愛してくださっていること、すなわち熱情の神であることを語っているのです。それが最たる形で表されたのが、これから受ける聖餐です。聖餐のパンと杯は、わたしたちを罪の淵から救い出すために、神の御子がご自分の命を犠牲として差し出された体と血です。神がエジプトの奴隷状態に置かれていたイスラエルの民を導き出されたのは驚くべき救いの出来事ですが、わたしたちがイエス様の十字架の犠牲によって救われたことは、それ以上の出来事です。そのことを信じた人が洗礼を受けました。その救いの出来事を生涯にわたって確かめ続けるのが聖餐式です。聖餐において差し出されるパンと杯は小さなものですが、ここに神の熱情が込められていることを確かめたい。古い言葉ですが、9月第一聖日は、振起日と呼ばれました。暑い夏もようやく終わろうとしています。子どもたちは2学期が始まりますが、わたしたちも心機一転、新たな思いをもって神の恵みの日々を歩んでいきたい。心からそう願います。