エジプト記20章4~6節、マルコによる福音書9章2~7節
十戒第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」田口博之牧師

今日は十戒の3回目、第二戒、「あなたはいかなる像も造ってはならない」を学びます。以前に十戒の分類についてお話をしました。十戒の数え方は、教派によって違うのだということを。わたしたちは、4節から6節を第二戒としていますが、同じプロテスタント教会でもルター派の教会、たとえば日本福音ルーテル教会などではこのところを、わたしたちが第一戒とした3節も合わせて、6節までを第一戒とするのです。ローマ・カトリック教会も同じ数え方をしていますが、一番の理由は聖画像の扱いにあると思われます。カトリック教会に行くと、マリア像が置かれていたり、聖堂の中にいろいろな聖画が掛けられたりしていますが、それを見るだけでなく、その前で手を合わせて拝むという行為がなされることがあります。

その行為は、プロテスタント教会の信仰者から見ると、偶像崇拝をしているように思えます。たまに礼拝堂を見学させてほしいと言われる客人がいます。その多くは未信者の方です。その方を礼拝堂に案内し、ドアを開ける前にひとこと言います。「特に何もありませんよ」と。特に未信者の方で礼拝堂に入りたいという人は、スピリチュアルな何かを求めたい、心を落ち着かせたいという人もいらっしゃいます。ところが、名古屋教会の礼拝堂は、いわゆる聖なる雰囲気をかもし出すような礼拝堂ではないのです。いつでしたか、礼拝堂に入られて「体育館のようですね」と言われた方がいました。驚いたのですが、なるほど椅子を寄せてしまえば、そのようなスペースにもなります。しかし、「体育館のようですね」と言われた方も、礼拝堂の椅子に座って、主の祈りや信仰告白の文章に目を落され、しばらく黙祷されると、心がとても落ち着きました。ありがとうございますと言われて、帰られました。今日も礼拝していますが、目に飛び込んでくるものがないからこそ、雰囲気に酔うこともなく、御言葉により集中できるということもあるのではないでしょうか。

カトリック教会や、ルーテル教会が、「あなたはいかなる像も造ってはならない」を、第一戒の「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」とひとくくりにするのは、この戒めは他の神々の像を造ることを禁じているのであって、わたしたちが礼拝する対象である神の像を造ることを禁じた戒めではないという理解になるわけです。すると聖画像を拝んだとしても偶像崇拝していることにはなりません。他方、わたしたちの教会に聖画像どころか十字架もかけられていないのは、プロテスタント教会の中でもカルヴァンの流れを組む改革派教会の伝統にあるからです。目に見える形としての十字架があれば、十字架を仰いで手を合わせる人がいたとしても不思議ではありません。仰ぎ見るべきは、わたしたちのために十字架に死んでくださったイエス・キリストです。

礼拝招詞のヨハネによる福音書4章23節で聞いたとおり、神は霊です。これは、神は目に見ることができず、手に取ることもできないということを意味します。だからこそ、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」のです。これは五感を頼りに生きている人間にとって易しいことではありません。霊と真理をもって礼拝するとは、聖霊なる神様の導きとご支配の中で、礼拝するということです。目に見えない神を、目に見える形に表そうとすれば、無限大なる神を有限なものに閉じ込めてしまうことになります。

出エジプト記32章に、金の子牛の物語があります。イスラエルに大きな危機をもたらした事件です。1節に「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て」とありますが、モーセがシナイ山にから降りて来るまで40日かかりました。イスラエルの民はやきもきし出して、モーセの兄である祭司アロンに、「我々に先立って進む神々を造ってください」と言ったのです。彼らは異教の神を求めたわけではありません。モーセが帰って来ないので不安になり、自分たちをここまで導き、この先も導いてくださる神を目に見える形で求めたのです。

するとアロンは、あろうことか民の願いを聞き入れてしまい、金でできた子牛の像を造ってしまったのです。すると民は、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言い、アロンはこの像を礼拝するための祭壇まで築いて、「明日、主の祭りを行う」と宣言してしまうのです。すると6節にあるように、民は飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをするのです。目に見えない霊なる神を、見える像としたことによって、自分たちの満足を満たす神におとしめてしまった。ここに偶像礼拝の問題があります。

当然のごとく、主の怒りがモーセに発せられます。イスラエルの民は、ここで「あなたはいかなる像も造ってはならない」。「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という十戒第二の戒めを破ってしまったのです。これは、目に見えない神を信じ抜くことの難しさを表しています。また、モーセが戻って来ないことで不安になったことを見ると、目に見える人間の指導者に頼ろうとしてしまう人間の弱さを表しています。わたしたちは偶像崇拝などしないと言いながら、たとえば牧師が変わったから教会には行かないとか、逆に教会に行き始めるということが起こったとすれば、目に見えない神を信じているとは言えなくなってしまうのです。

今日は新約聖書マルコによる福音書9章2節から8節も朗読していただきました。山上の変貌とも呼ばれる箇所です。ここは十戒の第二戒の引証聖句として取り上げることはあまりない箇所なのですが、今日のテキストを黙想しているうちに、金の子牛の出来事と共に思い浮かび上がってきました。今日はダブルテキストとして、ここを取り上げたいと思いました。

こんなストーリーです。イエス様が、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られたときのことです。イエス様の着ている服が彼らの目の前で真っ白に輝きました。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と表されています。そればかりではなく、彼らは「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」ところを見るのです。エリヤといえば、旧約の預言者を代表する人。モーセはといえば、神から十戒を授けられた人で、律法の代表する人です。この二人がイエス様と語り合っているところを見たペトロは夢心地になり、言うのです。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と。

ペトロはなぜ、このような申し出をしたのでしょうか。6節に「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」とあります。夢心地になって咄嗟に出た言葉かもしれませんけれども、この素晴らしいシーンをいつまでも見ておきたい、自分がいつでも見ることができるように留めておこうとしたに違いないのです。昨日、LDの大谷翔平選手が、40号サヨナラ満塁ホームランを打ちました。同じ試合で40盗塁を決め、40-40を達成したということで、わたしはパソコンを前に説教原稿を打ちながら、この情報が入ってきたのですが、もう10回以上再生しました。いつまでも、何度でも見ていたい気持ちになります。説教づくりに戻っても、行き詰ると現実逃避するかのように、また大谷さんの映像に戻ってしまいます。

ペトロが仮小屋を建てましょうと言ったのは、この場面をいつまでもとどめておきたいという思いからでしょう。ただし、もう少し深く掘り下げると別のことが見えてきます。この仮小屋を、幕屋と訳した聖書があります。幕屋とはテントですので確かに仮小屋ですが、神が住まわれるところであり、神に礼拝を捧げるところです。聖書研究会が9月に本格再開すると、出エジプト記の十戒の先を読み始めることになりますが、25章からは幕屋建設の指示に入ります。それが金の子牛事件の32章までずっと続くのです。そして35章から終わりまでは、幕屋を指示通りに建設したという話です。仮小屋を建てるというペトロの提案は、この出来事を背景としていたと、考えることもできるのです。

問題は、なぜペトロが「仮小屋を三つ建てましょう」と言われたのかということです。あきらかにこの三つはイエス様と、エリヤ、モーセの三人のためです。出エジプト記の幕屋建設の掟は、神を礼拝するためであり、人を住まわせたり、崇めたりするものではありません。このときのペトロは、イエス様をエリヤやモーセと並列にしています。三人まとめて神々としているのであり、イエス様をメシアと信じてのことではありません。

このテキストは「六日の後」という言葉で始まっています。これはペトロがイエス様を「あなたは、メシアです」と告白し、最初の受難予告をしてから六日後のことであり、その出来事と切り離して読んではいけないということを示唆しています。あのときイエス様は、受難予告の言葉をいさめたペトロに対して「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「仮小屋を三つ建てましょう」と言ったペトロの言葉も、この時と同じくサタンの言葉だといえます。ペトロは、唯一の神を礼拝するための幕屋ではなく、自分のお気に入りの三人を神格化して、自分の手の中に留めようとしたのです。イエス様が、十字架に死んで、復活すると言われた道を邪魔しようとしたのです。このペトロが造ろうとした幕屋、仮小屋は、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」という第二戒に背くものでした。

すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から神の声が聞こえてきます。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。雲の中から神の声が聞こえたのは、神がモーセが十戒を付与されたときと同じです。旧約では、直接見ることができない神の栄光は、雲の中から現わされます。イエス様の服がこの世のものとは思えぬほど白く輝いたのも、神の栄光の現われです。そして、「これはわたしの愛する子。これに聞け」とは、父なる神が、イエスこそが自分の愛する御子であることを示し、これに聞くようにと言われたのです。このことは、エリヤとモーセの姿は消えて、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」ことで、ペトロも分かったはずです。イエス様の言葉に聞くことによってのみ、神の御心が示されるのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け」とは、サタンに支配されたことで、イエス様の言葉に聞けなくなっていたペトロへの愛の言葉でした。そして、目に見えるものを求めるのでなく、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」ということが、どういうことかを示す御言葉だといえます。

さて、十戒第二戒は、偶像礼拝を禁じる教えですが、5節後半には前文に出てきた「わたしは主、あなたの神」という言葉が再び出てきます。ところが今度は、エジプトから導き出した神ではなく、「熱情の神」と言われています。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神」は、「熱情の神」だと言うのです。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」とは、神の熱情を表します。「わたしは主、あなたの神」が「熱情の神」ということは、十戒を理解するうえで、いや神を理解するうえでとても大切なことです。ですから、今日の説教はあと20分続けます・・・。というと、皆さんの顏が曇る気がしますので、ここは来週の礼拝に譲ることにします。来週の説教の主題は、「熱情の神、妬む神」です。皆さん、来週の礼拝に続けて出席してください。

だからといってここで終わるわけには行かず、今日の説教は後5分続けます。5分でお話することは、4節後半の「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」です。先にお話したペトロが造ろうとした仮小屋もその一つといえますが、「上は天にあり」とは、普通は天体を考えます。太陽、月、星、天照大御神は、天照(あまてらす)なのですから太陽神です。伊勢神宮の内宮に祀るのは、天照大御神です。PL教(パーフェクトリバティー教団)は、宇宙信仰です。甲子園でPL高校の選手を見ていると、指で円を描いて天を仰ぐような仕草をしていました。しかし、天の恵みに感謝することは、人間が自然にすることだといえます。朝日に向かってお祈りをするとか。幼稚園の日照の裁判をしていたとき、おひさまという言葉がよく使われていましたが、わたし自身は自覚的におひさまとは使わず、幼稚園マンション問題という言い方をしていました。些細なことのようですが、気をつけておきたかったことです。聖書のことで言えば、イスラエルの民を苦しめていたエジプトの最高神は、太陽神ラーでした。エジプト王ファラオは、ラーの息子と呼ばれていました。そういう中で彼らは苦しんできたはずなのです。

月はどうでしょう。アブラハムが生まれ育ったカルデヤの地では、月信仰が盛んでした。月を守護神としていた地域から、神はアブラハムを呼び出したのです。星はどうでしょうか。実はキリスト教の歴史において一番ぶつかったのが星だと言われています。ギリシアの最高神はゼウスですが、英語ではジュピターと呼ばれ、太陽系最大の惑星である木星に重ね合わされました。そしてヨーロッパにおいて、人間の運命を定めるとされる星占いの人気は常に高かったのです。

「下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの」の話をすると5分では終わらないのでやめますが、一ついえば、死者の国を表します。死者の国にいる人を拝むという行為は、聖書に出てきますが、日本人は当たり前にすることではないでしょうか。教会では召天者記念礼拝や墓前礼拝をしますが、生きる者も死ぬ者をも支配される神を礼拝するのであって、死者を拝むことはしないのです。十戒第二戒の説教題として「あなたはいかなる像も造ってはならない」としましたが、偶像を造るだけでなく、5節にあるように「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」とあるように、真の神でないものを礼拝することを禁じる掟だということを心にとめたいと思います。

最後に申命記4章15節以下、旧約の286頁。申命記4章15節から24節を読んで終わることにします。
あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川を渡ることも、あなたの神、主からあなたに嗣業として与えられる良い土地に入ることも決してない、と誓われた。従って、わたしはヨルダン川を渡ることなくここで死ぬ。しかし、あなたたちは渡って行って、その良い土地を得る。あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。