聖書 詩編133編1節  マタイによる福音書18章19~20節
説教 「真ん中におられる主」 田口博之牧師

先週の礼拝後にCSのデイキャンプを行いました。普段はあまり来られない子どもたちも多く参加し、よいキャンプになったと思います。初めてや久しぶりに参加された子も仲良くなり、再会を約束していました。保護者も一緒になって皆で楽しめたと思います。牧師も花火だけでなく、まずまず働いたと自負しています。その余韻に浸るということではありませんが、礼拝後の牧師と話をする会に参加される方には、もれなくかき氷がついてくることになっています。

さて、今日は子どもも大人も共に礼拝ですが、説教は1回で行うことにしました。テキストはマタイ18章19-20節です。ちょうどひと月前に池谷先生がマタイによる福音書18章10節から14節で子どものための説教をし、その後でわたしが15節から20節をテキストに「兄弟を得るために」という主題で説教しました。覚えていらっしゃる方は、覚えていると思いますけれども、実は19節と20節については、説教で触れることはほとんどなかったのです。今日はそのリベンジをするつもりではありませんが、もともとのCS教案誌が、マタイによる福音書18章19-20節がテキストになっていたので、そのまま選ばせていただきました。

あらためて15節以下を振り返ってみると、15節には「二人だけ」という言葉、16節に「ほかに一人か二人」、「二人または三人」という言葉が出てきます。今日のテキストにも19節では「あなたがたのうち二人が」、20節に「二人または三人が」とあります。これらはごく少ない集団の数です。17節に「教会」という言葉が出てきましたが、マタイ18章はずっと教会の話をしています。20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」とあるのも、教会での集まりを意味します。教会では、交わりを大切にしますが、一人では交わりになりません。交わりが成り立つ最小の人数が、二人または三人となります。

では、集まるためには決まった場所は必要なのでしょうか、先週のCSデイキャンプでは、この礼拝堂で礼拝をしましたが、実際にはどこだって出来るのです。しばらく野外礼拝をしていませんが、キャンプといえば野外礼拝です。なぜ、野外でも礼拝できるのかといえば、今日の聖書にあるように「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあるからです。場所とか人数が問題なのではありません。イエスの名によって集まるところには、イエス様はどこでもいてくださるのだと、約束されているのです。

「その中にいる」という言葉は、「真ん中にいる」と訳せる言葉です。「わたしは、あなたがたの真ん中にいるよ」と、イエス様は言われます。事実、イエス様が復活された日の夕方、ヨハネによる福音書20章19節では、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。ルカによる福音書の24章36節にも同様の記述があります。イエス様はそこに集められた人たちの真ん中にいてくださるのです。この礼拝でもそうです。

名古屋市内でそのような礼拝堂を見ることはありませんが、会堂建築をきっかけに、聖餐卓を真ん中に据えたという教会があります。名古屋教会の礼拝堂は、よくある教室型というか対面型ですが、そうではなく、聖餐卓を囲むように会衆席が配置される教会があるのです。真ん中といっても位置として真ん中にはなるのは難しいのですが、コンサートホールをイメージしていただくとよいでしょう。栄にあるコンサートホールも1階席はステージの前に座席がありますが、2階席に行くと、ステージの真横だけでなく、後ろにも座席があります。推しの指揮者が演奏する場合には、演奏者になった気分で取って置きの席だと言ってよいかもしれません。教会では、説教者の後ろになると聖餐卓も見えなくなるので現実的ではないように思いますが、三方から囲むというのは自然な形だといえます。

しかし、そのようなことはついでの話でしかありません。わたしたちの教会の礼拝堂には十字架もありませんし、ここに主がおられるということを雰囲気として味わえるわけではありません。厳粛な雰囲気をかもし出せるような装飾をすることは、そもそもプロテスタント的ではありませんし、聖餐卓を囲むような造りにしたとしても、それは中心ではなく付随的なことでしょう。大切なことは、目には見えないところでもイエス様が真ん中にいてくださると信じること、それが教会の信仰の中心です。「田口牧師を中心にして」という祈りの言葉を聞くことがあります。教会の群れを導くという意味で、牧師を中心にというのはふさわしいことですが、中心にいるのはイエス様です。

もう8年前、いや9年前という言い方が正しいのでしょうか。横山牧師がわたくしの就任式の司式の説教で、教会のことをオーケストラにたとえて話をされたことがありました。様々な楽器が一つの調べを奏でるとき、美しい交響曲となります。説教の中で牧師の役割を語り始めたので、わたしは指揮者として導くという話をされるかなと思って聞いていました。でも横山先生はそうは言われず、指揮者はイエス様で、牧師はコンサートマスターだと言われたのです。コンサートマスターとは、主には第一ヴァイオリンの首席奏者がすることが多いですが、指揮者の意図を汲み取って演奏をリードする役割があります。でも、オーケストラの中心にいるのは指揮者であるイエス様なのだと。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」とあるように、教会はイエス・キリストの名によって集まります。ですから、誰々牧師でなければならないと言うのは本物ではありません。教会は主の教会ですから、俗な意味でいうカリスマ牧師は必要ありません。教会の中心、真ん中におられるのはイエス・キリストだという信仰が大事です。「名」とか「名前」というとピント来ないところがありますが、イエス様は、「わたしの名によって集まるところには」とか、「わたしの名によって父に願うなら」と言われました。わたしは、なぜ、名前なんだろうと思ったことがあります。でも考えてみれば、名前というのはその人そのものです。わたしたちも、知らないところで自分の名前が使われるとしたら迷惑するでしょう。SNSでのアカウントを乗っ取られるというと経験をした人がいるかもしれません。名前が勝手に使われたら、その人が何かをしたことになります。そのものです。十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」ですが、これは名前がむやみに使われることへの警告です。

ところで、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉を聞くときに、二つのことを考える人がいるのではと思います。一つは、教会は大勢でいなくても大丈夫なんだということです。名古屋教会の礼拝出席は、最近は45名位が多いです。20年位前の統計は90名位ですので、半分くらいになっています。この数がせめて、60名、70名になるようにと願っています。そうでないと、名古屋のセンターチャーチの役割を果たせない面があります。伝道すること大切さを思います。伝道しなければ、増えることはありません。それは大切にしなければならないことですけれども、集まる人が少なければダメだということは決してありません。礼拝出席が数名とか、十数名の教会でも、いい教会だ、いい礼拝をしているなと思える教会はたくさんあります。少ないことで自分が果たすべき役割を自覚しています。

もう一つ「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われたときに思い浮かぶのは、一人だけのときにはどうなのか、イエス様はいてくださらないのかということです。もちろん、一人でいる時にはイエス様は共にいてくださらない。そんなことがあったとすれば、寂しいどころではありません。イエス様はわたしたちが一人でいるときにも共にいてくださっています。病床で一人、眠れぬ夜を過ごしている時にイエス様が共にいてくださらない。そんなことがある筈がありません。

マタイによる福音書は、イエス・キリスト誕生の場面で、イザヤの言葉を引用して、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という天使の言葉を語っています。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。クリスマスは、神がわたしたちと共にいて下さるという恵みが実現したときです。さらに言えば、マタイによる福音書はどう終わっているのか。その最後28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、復活されたイエス・キリストの言葉を伝えています。世の終わりまで、いつも共にいてくださる。そのことこそが、マタイが伝える「福音」なのです。病気で入院したり、高齢で施設に入ったことで、教会に行けなくなってしまうことがあります。それでも、わたしたちが孤独で寂しくてどうしようもない時にも、イエス様は共にいて下さいます。地上の人生が残り少なくなっていることを自覚せねばならなくなっているときにも、命を終えたその先にイエス様は共にいて下さる。そう信じることができるならば、そのこと以上の慰めはありません。

ではどうして、イエス様は「二人または三人」と言われたのでしょうか。それは、何度も言うように、ここでは、教会について話しをされているからです。マタイによる福音書18章というのは、教会についてイエス様が集中的に教えてくださっているところです。使徒信条に「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」とありますが、これには「聖徒の交わり」があるところに、教会があるということでもあるのです。

20節に集中して読んできましたが、19節には「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」とあります。ここでは「二人」という言葉が出てきます。三人いなくても、二人が集まるところに与えられる恵みが語られているのです。では、二人が集まって何をするところに、どんな恵みが与えられるのでしょうか。「二人が地上で心を一つにして求めるなら」とあります。オーケストラの話を何度かしましたが、この「心を一つに」という言葉の原文のギリシア語ではシンフォネアと言います。シンフォニー、交響曲と関りがある言葉で、共に響かせるという意味の言葉です。すなわち、二人が集まってすることは、心を一つにして神への祈りを響かせるのです。そのために二人が集まる。そうすれば、「わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言うのです。ここでも人数が問題なのではなく、二人が集まるところに与えられる恵みが語られています。二人の真ん中にはイエス様がいてくださいます。

イエス様は、マタイによる福音書の6章6節で密室の祈りの大切さを教えられました。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とあります。一人で祈ることは大切です。しかし、教会でも聖研祈祷会をしていますが、心を合わせて共に祈れるという恵みを味わうことができます。周りに人がいると、意識してしまって、きっちりした祈りをしないといけなくなると思い、ほんとうの祈りにはならない気がするという声を聞くこともあります。しかし、無理に祈らなくても構いません。強制していませんので、実際に祈らない人もいます。でも、やがて祈るようになります。共に祈りを合わすことができる幸いを知るからです。

「どんな願い事であれ」とあるように何を願ったっていいのです。でも、集まって祈るときに、こんなこと祈っていいのかというような思い煩いから解かれます。自分の悩みを打ち明けても、一緒にいる人はその悩みに心を寄せてくださいます。心を一つに共に祈ることができるのは幸いです。祈らなくても、主の祈りを共に祈ることができます。マタイによる福音書では、先ほど引用した6章の密室の祈りの大切さを教えられた後に主の祈りは出てきます。主の祈りは、イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださった祈りですが、一人で祈ることもできるし、皆で共に祈ることができます。そして、イエス様も一緒になって祈ってくださる恵みを知ることができるのです。ドラマや映画で、受け取った手紙を読んでいるとき、いつしか差し出した人の声が重なってくることがあるように、イエス様も祈りを共にしてくださっている。わたしたちが一人でいるときにもイエス様は共にいてくださいます。そしてこのように教会で集まっている時には、わたしたちの真ん中にいてくださるのです。

詩編133編の詩人が「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と歌った心は、イエス様の心でもあります。イエス様の名によって集められている恵みの幸いを覚えつつ1週間をはじめていきたいと思います。集まることのできなかった一人一人の上に、わたしたちと変わらぬ主の恵みと祝福が豊かにありますように。。。