出エジプト記20章2~3節、マタイによる福音書4章8~10節
「十戒第一戒~あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 田口博之牧師

先月から月の最後の日曜日には十戒を読んでいます。前回は、出エジプト記20章1節と2節をテキストとして、十戒というと十の戒め、戒律のように思えるけれど、1節に「神はこれらすべての言葉を告げられた」とあるように、十戒は戒めというよりも神の言葉であることを確認しました。イスラエルの民の自由を奪うものではなく、神に喜ばれる歩みをするために託された指針なのです。

その基調となる言葉が、2節の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」です。前文と位置付けているものです。どのような法や規則も、前文とされているものは重要です。日本国憲法では前文において「国民主権」「基本的人権の保障」「平和主義」という憲法の三大原理を確認していますが、十戒前文では、十戒を授けられた神がどのような神であるのかが語られます。イスラエルの民をエジプトの導き出した神であると。「わたしは主、あなたの神」の「主」とは、イスラエルを奴隷の家から導き出した神の名です。

「主」とはイスラエルの神の固有名詞です。そこをはっきりさせるために、新改訳聖書では太字のゴシック体でと表記しています。ちなみにわたしが今も参考にする文語訳聖書では「我は汝の神エホバ」とあります。今はエホバというのは間違いで、ヤハウェとかヤーヴェという表記が近いのではと考えられています。なぜそのような間違った読み方がされたかといえば、第三戒、7節ですけれども「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」とあるからです。罰せられることを恐れるあまり、主の名が出るところで口ごもり、正確にどう発音するのかが分からなくなってしまったのです。そのことは9月になると思いますが、第三戒を学ぶ時に確かめたいと思います。

今日は本来なら、第一戒、すなわち3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を学ぶところですが、前文と合わせて読んでいます。そのことによって、この戒めを授けた神の思いが、よりはっきりするからです。

ここでわたしたちが忘れてはならないことは、神ご自身が自らの名を名乗っていることです。通常、目上の人から先に自分の名を名乗ることはありません。この場で目上、目下という言い方をするのはふさわしくないかもしれませんが、たとえばビジネスの世界では、目下の者が先に名刺を差し出すのが常です。しかし聖書の神は、ご自身から名乗られます。神の側からわたしたちの名を聞かれることはありません。わたしたちのことをすべてご存知ですので、聞かなくても知っていてくださいます。

イエス様が、木の上にいるザアカイに対して、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と名を呼んで招いてくださるように、神がわたしたちを見出してくださる。出会ってくださるのです。そこが出発点となっています。とかく宗教とは、人間の側が先に神の名を呼びますが、わたしたちはそうではなく、呼ばれているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とはそういうことです。神ご自身が先に名乗ってくださることがなかったならば、わたしたちの側からこの神様を見出せるはずがないのです。

そのような神が、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われます。これは主なる神以外にも、神がいることを認めているように思えます。いろんな神がいるなかで、わたし以外を神とする選択肢はないと言っているようです。確かにヘブライ語の神「エロヒーム」は複数形であり、多神教時代の影響を表していると言われます。実際に聖書に登場するイスラエルの周辺世界、エジプトもバビロニアもギリシャもローマもすべて多神教です。しかし、その場合の神々は、人間が自分の都合により造り出したことは間違いありません。ですから、神と言ってもまことの神ではないのです。八百万の神がいるとされる日本も同じです。多くの神々がいる中で、主なる神のみを神とするという信仰を守り通すこといは戦いがあります。

十戒が授けられた背景を考えると、エジプト王ファラオは神のように君臨していました。イスラエルの民は、このファラオのもとで苦しんだのです。十戒が与えられたのは、ファラオの支配から逃れてまもなくです。その意味で、ファラオの支配から救い出してくださった主なる神のみを神とするのは当然のことだと言えます。ところが、イスラエルの民はといえば、水がない、食べ物がないと不平を言うのです。憐れみ深い神が水を与えると水が苦い、食べ物が与えられてもマナばかりと文句を言い、エジプトにいた時には、肉が食べられたのにとつぶやきいている始末です。

そんなイスラエルの民は、40年間荒れ野をさ迷うことになりました。約束のカナンの地は荒れ野と違い、乳と蜜が流れる地と言われるほど潤っています。そのような潤いを与える神々が、バアルをはじめカナンにはたくさんいるのです。それらの神を拝めば、家族の繁栄が保証される。そこにイスラエルの民が魅入られることは明らかなことでした。そこに「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一戒の背景があります。

モーセが死んだ後、イスラエルの民を約束のカナンの地に導いたのがヨシュアでした。ヨシュア記の終わり24章(376p)にはシケム契約が記されています。ヨシュアは全イスラエルをシケムに集めて、アブラハムの召しからモーセによる出エジプト、そしてヨルダン川を渡って約束の地に導かれたことを振り返りつつ語り聞かせます。その上でヨシュアはこう言います。14節以下。

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

この言葉を聞いたイスラエルの民は、「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と答えます。ところがヨシュアは、イスラエルの不従順を見抜くかのように、19節「あなたは主に仕えることができないだろう」と言います。その後もやり取りがあってから、シケム契約が締結されます。

イスラエルは、ヨシュアが死んでからもしばらくは主に仕えて歩みましたが、その後どうなったかは、旧約聖書を読めば明らかです。第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を守ることができなかったのです。「あってはならない」とは禁止の命令ですが、ヘブライ語の文法に即せば、「あなたには、わたしをおいてほかに神があるはずはない」となります。

つまり第一戒には、主なる神がエジプトの奴隷状態から救い出して下さった、あなたたちはその恵みの中を生きるのだから、他の神々を求めるなどあり得ないだろうという、神の期待が込められているのです。しかし、その期待に応えることはできませんでした。そこに人間の弱さが、人間の罪があります。

ハイデルベルク信仰問答という、世界の多くのプロテスタント教会で用いられているカテキズムがあります。このカテキズムにおける十戒の解説の特徴は、第三部「感謝について」という項目で解説しているということです。ハイデルベルク信仰問答は第一部で律法を提示して、神の期待通りに歩むことができずに罪に捕らわれてしまう「人間の悲惨について」語ります。続く第二部で、そんな罪深い人間を救ってくださる神の恵みを「人間の救いについて」で語ります。十戒が、第三部の「感謝について」で出てくるのは、救いにあずかった者がどのようにして神の恵みに答えたらよいか、信仰者の生きる指針を示すためです。

では、ハイデルベルク信仰問答は、第一戒について何を教えようとしているのでしょうか。「第一戒で、主は何を求めておられますか」という問いに対し、「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと」と答えます。そこで証拠聖句として出てくるのが、マタイによる福音書4章10節です。

今日は第一戒を学ぶにあたり、マタイによる福音書4章8節から10節を合わせて読みました。イエス様が公の生涯を始めるにあたって、40日間にわたって荒れ野で悪魔からの三つの誘惑を受けましたが、8節から10節は第三の誘惑が語られるところです。もう一度読んでみます。

「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

ハイデルベルク信仰問答が引用したのは、イエス様がサタンを叱責する言葉です。悪魔は世の中のすべてが自分の手の中にあるような誘い方をしています。わたしにひれ伏せば、これらのものはみんなお前に与えようと言うのです。それが悪魔の手口です。そんな口車に乗ってしまえば、魂を悪魔に売り渡すことになってしまいます。イエス様は、その誘惑を「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、御言葉(申命記6章13節)によって、悪魔の誘惑を退けられたのです。

人生には様々な誘惑が、ことに信仰者には特有の誘惑があります。悪魔とかサタンは、特に神に従って生きようとする人を邪魔しようとする力を表した象徴的な表現です。そんな悪魔にとって、神が賛美されるなんてとんでもないことです。だから神なんて信じたっていいことなんてないのだと、躓きの石をあちこちに置いて、神から離れさせようとします。「お前は今日礼拝に行こうとしているが疲れるだけだぞ。安息日っていうだろう。だったらもっとゆっくり家で寝ていたらいい。奉仕して何か得があるのか。遊びに行ったらいいじゃないか」。巧みな誘いをかけてくるのです。そのような誘いにのって、神から離れていく人の姿を見るのが楽しくて仕方がないのです。この悪魔の誘いは鋭く、隙を見せればすぐに入り込みます。今は忙しいので、落ち着くまで教会をしばらくお休みしてもいいかな。そのように思ったら、そのしばらくは、限りなく長く続くことになってしまいます。

ハイデルベルク信仰問答は、直接悪魔の誘いと言うのではなく、「あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけ」と言いました。わたしたちにとって身近な言葉で言えば、占いとか運勢のたぐいも含まれます。「別にわたしは占いを神と思っているわけではないので、固いことを言わなくてもいいじゃないか」そう思うかもしれません。しかし、なぜ占いに惹かれるかといえば、わたしたちの人生には様々な苦しみや不幸が、何の理由もなく襲ってくることがあるからです。人は理由のない苦しみには耐えられません。そうなることが恐ろしいのです。

占いはそのような苦しみの理由付けをします。家の方角が悪いとか、名前の字画が悪いと説得しようとする。そういう理由で引っ越しをしたり、名前を変えたりした信仰者をわたしは知っています。そうなれば、神を信じることよりも占いを信じることを優先させていることになります。神ではない別のものに心が支配されることになり、悪魔にひれ伏すのと同じことになってしまうのです。

占いに頼り始めると、信仰もまた現世利益を求めるようになります。このようにすればいいことが起きる。すると、不幸や苦しみとまともに向き合うことができなくなってしまいます。不幸や苦しみと向き合うのは厳しいことですけれども、そこに向き合うからこそ、神様助けてくださいという祈りも生まれます。

先週の説教で、7月16日に52歳の若さで亡くなられた青山教会の増田牧師のことを紹介しました。色んな痛みに襲われ、まるで自分の主人は神ではなく、病ではないかと思えるときがある。「お前の主人は誰か。俺だ。お前の体の中にいるこの病、俺がお前を支配している」。増田牧師は、そんな声を聞いたのです。それは増田牧師にとって、まさに悪魔のささやきではなかったでしょうか。しかし、そこでもなお、復活の主を信じ、神を天に向けて最後まで歩みました。神以外のものを神としない生涯を歩み通したのです。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」この戒めが与えられたのは、「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないため」とハイデルベルク信仰問答は答えます。「失わないため」とは、既に自分のものになっているからです。救いと祝福を手に入れるために、頑張って戒めを守りなさいと言われているのではありません。だから十戒を生きることは感謝なのです。救いと祝福を手放してほしくないという思いは、わたしたち以上に神の方が強いと言っていい。そこに神の愛があります。

その神の愛に答えるために、主なる神以外のものに心を寄せないようにしていきたい。悪魔は時に占いのように些細なことと思えることを通して、わたしたちの足元をすくおうとします。そのようなことで、与えられた魂の救いと祝福を失うことがないようにしたい。わたしたちを愛してくださっている神を、悲しませるのでなく、神に喜ばれる歩みを共に続けていきたいと願います。