マタイによる福音書18:15-20
「兄弟を得るために」 田口博之牧師

7月と8月の聖研祈祷会は、暑さ対策により夜の部のみ開催しています。そのときに行う聖研では、予習という言い方をしていますが、次週の礼拝でのテキストを前もって読んでいます。わたしが前もってここを読んで黙想し与えられたこと、ポイントとなるところ、調べたことを自由にお話した後で、皆さんの質問、意見、感想をお聞きします。それは、わたしに自身にとって、とても有益な時間となっています。なぜなら参加された方が、このテキストのどこに関心をもったか、疑問を持ったかを知ることができるからです。質問に答えることで、自分の頭の中も整理されますし、テキストとの対話も広がります。

今日のテキストでいえば、たとえば17節に「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というイエス様の言葉があります。聖研でも、ここに「教会」という言葉が出てくるけれど、イエス様の時代には教会がなかったはず。時代がずれているのではないかという問いがありました。また、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言い方は、イエス様らしくないという話も出ました。

それを聞いて、確かにその通りだなと思いましたし、聞いてよかったなと思いました。聞かなければ、そのことは分かっていること、つまり時代はズレていることは周知のこととして、今日の説教を始めた筈なのです。聖研で話したときもそうでした。原稿を用意したわけではないので正確ではありませんが、おおよそこのように話し始めたと思います。

“このテキストは「教会とは何か」を考えたときに避けることはできない聖書箇所となっています。理由は17節に「教会」という言葉が二度出てきますが、福音書の中で「教会」という言葉が出てくるのは、ここともう一箇所、同じくマタイ福音書の16章18節で、イエス様がペトロに言われた「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」その二箇所しかありません。聖書に出てくる「教会」という言葉には建物という意味はなく、人の集いだという話は何度かしていますが、これらのテキストから、イエス様が教会というものをどのようにご覧になっているかを知ることができます。では、イエス様がご覧になった教会とは何でしょう。ポイントは、16章19の「天の国の鍵」です。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。鍵の話をしています。同じ言葉が、今日の18章18節にも出てきます。このつなぐとか解くというのは、主語がないので解釈が難しいのですが、天につなぐ、天から解かれると解釈すれば、つなぐが救いで、解くは裁きとなります。逆に罪につなぐ、罪を解くと解釈すれば、つなぐが裁きで、解くが救いになります。天国の扉を開け閉めする鍵を教会は持っているのです。”
そのように教会が罪の赦しの権能を持っていることから始めました。

イエス様は、地上で罪を赦す権能が与えられていると宣言したことで、神を冒瀆していると律法学者から断罪されましたが、その権能が教会に与えられていることが今日のテキストの主題です。ところが、質問があったように、イエス様の時代に教会は存在していません。イエス様が昇天された後、ペンテコステが教会の誕生日と言われているのに、どうしてイエス様は、「教会に申し出なさい」と言われるのか、不思議といえば不思議です。

けれども、マタイによる福音書が書かれた時代には、教会は出来ていたのです。マタイによる福音書は、パウロが書いたいくつかの手紙よりも30年位後に編纂されました。ですから、「マタイの教会」という具体的な場が、テキストの背後にあるのです。

「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉も、罪人を招いてくださるイエス様の言葉らしくないと言われればその通りなのですが、わたしはそこには拘りませんでした。マタイの教会はユダヤ人の共同体でしたので、異邦人はいません。マタイ自身が徴税人から弟子になりましたが、マタイの教会には徴税人はいなかったと思います。ですので、共同体を守ろうとしたときに、悔い改めることがない人を、教会の交わりから断つことはやむを得ず、その表現として、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉が使われたと自然に考えてしまうのです。その意味で、説教する者と説教を聞く者との間に、最初からズレが起こり得るということに気づかされました。

マタイによる福音書18章はここでは言いませんが、全体を通して罪の問題を扱っています。子ども礼拝では、直前の一匹の迷い出た羊のたとえがテキストでした。讃美歌では迷子になった小さな羊を見つけ出す羊飼いの優しさが歌われていますが、10節にある「小さな者を一人でも軽んじる」ことで、教会の群れから出た迷い出た人がいる、そういう問題が語られているのです。

15節以下のテキストも、小さな一人をつまずかせ、迷わせてしまった罪人が悔い改めるためには教会がどうすればよいか。その手続きが語られているといってよい。18節の「つなぐ」とか「解く」という言葉も、罪を赦す権能が教会に与えられていることを示します。19節の「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」という言葉も、念頭に置かれているのは、罪を犯した人との交わりの回復です。

これらのことの背景に、マタイの教会があるのです。この福音書の最初の聞き手であったマタイの教会の人たちは、教会で起こった具体的な事柄や具体的な人が頭に浮かんだと思います。同じように、この福音書の第二、第三の聞き手となる後の時代の教会の人たちも同じです。わたしたちもその一人です。

洗礼を受けても、教会の群れから離れていく人がいます。そこには色んな理由があります。仕事、子育て、経済的な問題、病気、介護等。しかし、その人をつまずかせてしまう要因が教会にあるケースもあります。ところが、そのことに当事者は気づかない。おが屑と丸太のたとえではないですが、人は他人の罪には敏感でも自分の罪には鈍感です。そのときに教会はどうするのかが、ここで語られています。

確かにここでのイエス様の言葉は、歴史を生きられたイエス様の言葉ではないように思います。でも、後に誕生する教会のあり方を、教会の頭であるイエス様は見通されていた筈です。その意味ではイエス様の預言の言葉ととらえてもいいでしょうし、何よりもマタイによる福音書の著者は、イエス様の御心を表す言葉を、ここに記したのです。

18章15節に、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。ここで分かることは、教会は罪を見過ごすことはしないということです。見過ごしては兄弟を得ることはできないままだからです。

組織の中で不祥事が起こることがあります。問題が明らかになったときに、罪を隠し、揉み消そうと考える人がいます。組織の対面が傷つくからです。しかし、それでは傷ついた人も罪を犯した人もそのままです。だから声を上げることが大切だと言われます。そうすることが正しいとされる時代になっています。では、イエス様はどういう仕方を勧めているでしょうか。少なくとも、ことさらに騒ぎ立てたり、ことを荒立てたりすることを勧めているのではなく、手続きをきっちり踏むことを教えています。

初めに「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。」と言われました。先ずは当事者同士で解決することを求めたのです。傷ついた人が直接言うのはかなりの勇気が必要ですので、代弁者を立てたと考えてもよいと思います。そこでの対話で相手が「言うことを聞き入れたら(罪を認めたなら)兄弟を得たことになる」。教会の兄弟姉妹としての交わりは回復する。教会はそうあるべきなのだと、イエス様は言われるのです。

ここに「忠告する」という言葉がありますが、ギリシャ語では「エレンコ―」という言葉が使われ、「光にさらす」という意味があります。それは罪を暴くような光ではなく赦しの光です。二人で神のあたたかな赦しの光の中に立つのです。そこで和解が生まれます。しかし、わたしたちも経験があるでしょう。罪の指摘は、人の心を頑なにさせるということを。三人の友人に代わる代わる自分の問題を指摘されたヨブのように、罪の問題は簡単には解決しません。気持ちが高ぶり感情的になることもあります。

そのときにどうするかが、16節です。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」とあります。一緒に連れてくる一人か二人とは、客観的に物事を判断できる人のことです。教会の中には、物事をよく見ている人が必ずいます。その人は何が起こったかを知っていて、その人の助けを借りなさいと言うのです。二人だった教会の交わりが、三人、四人と増えています。三人、四人で主の光の中に立つのです。それで相手が悔い改めれば、そこで兄弟を得ることになります。でも、そうならない時がある。

その場合にどうすればよいのかが17節で語られます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と言うのです。ここでいう教会とは、わたしたちの教会でいえば長老会のことと考えたらいい。兄弟のあなたに対する罪、いってみればプライベートに処理すべきと勧められたことが、初めて長老会で公に扱われる事項となるのです。そうでなければならないというのです。

教会が教会であるためには、そのようにして罪が正しく処理されなければならないと言われているのです。プロテスタント教会では、カトリック教会のような司祭による告解というサクラメントを持ちません。罪の赦しの宣言は主の福音を説教することにあります。と同時に、長老会には戒規を執行する権能が託されています。イエス様らしくないと言われた「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なす」権能です。名古屋教会の内規、新たに制定しようとしている教会規則にも「信徒の戒規に関する事項」が定められています。

戒規とは、一般社会での懲戒に相当する言葉ですが、英語ではチャーチ ディシプリンと言って、訳せば教会訓練です。訓練ですので、処分することが目的ではなく、その人を悔い改めへと導くため、失われた兄弟を得るための手続きです。そこに至るまでには慎重さと丁寧さが必要なことが、15節、16節で語られているのです。長老の大変さは、書記や会計という実務的なことや、礼拝の司式に目が行きがちですが、何よりも礼拝を整え、戒規を執行する権能が与えられていることにこそあります。権能というと権威主義的に聞こえますが、むしろ仕えることにあります。罪を扱うのですから、自分たちが罪人であることを認め祈り深く、謙虚にならねばなりません。そのような長老会を形成できたとき、教会は岩の上に立つ、まことに主の体なる教会として立ち上がります。

地上の目に見えるわたしたちの教会には、様々な破れがあります。きよいはずだと思っていた教会で、罪が露わになることで、つまずき迷い出てしまうことも起こります。そこに地上の教会の限界がありますが、イエス様はそのような教会に天の国の鍵を授けられました。そのことがもっとも顕著な形で表されるのが、死を迎えたときです。

キリスト者は聖人君子ではありません。誰もが欠けがあります。神の御前に正しい人は一人もいません。死んだからと言って罪が消されるわけではない。そのようなわたしたちが、この世の命を終えた時に、天にいます神のみもとに召されると信じることができるのは当たり前のことではありません。わたしも当たり前のように、眠れるこの人は天国に行けると宣言しているわけではないのです。

パウロがローマ書で述べたように、わたしたちは罪のゆえに神の栄光が受けられなくなっています。そんなわたしたちもために、イエス様は十字架に死んでくださり、わたしたちの罪は赦されたのです。イエス様が死より復活してくださったから、からだのよみがえりと永遠の命を信じることができます。そう信じることができるのは、教会の交わりに生きているからです。教会は天の国へ入る通用門です。だからこそ、つまずき迷い出る人があってはならないのです。罪のゆえに失われる人がいないように、主の赦しの光のもとに共に歩んでいけるように教会は何をすべきかが、ここに語られているのです。