聖書  ヨハネによる福音書1章6~8節、15節
説教 「光の証人」 田口博之牧師

先週は、ヨハネによる福音書の冒頭プロローグとも呼ばれる1章1節から18節のうち5節までを読みました。哲学的といえるこの箇所は、決して分かりやすくはありませんが、5節までに出てくる言、そして命も光も、イエス・キリストを語っているというお話をしました。ところが、イエス・キリストの名が出てくるのは17節です。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」とあります。イエス・キリストを語りながら、イエスの名そのものは隠されていたのです。しかし、イエスよりも先に出て来た名がありました。6節に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」とあります。

今日はプロローグのうち、ヨハネについて集中的に語られている6節から8節及び15節をテキストとしました。実は再来週のクリスマス礼拝で、あらためて1節から18節までをテキストにクリスマスの恵みと真理をお話したいと思っていますが、プロローグの部分、18節迄を読んでいくと、今日のテキストとした1章6節から8節及び15節を省略して読んだ方がスムーズに読めるのです。逆に言うと、15節を読んだら次に19を読んだ方が、意味が通りやすいのです。15節で「ヨハネは、この方について証しをし」とありますが、19節以下では小見出しにある通り、洗礼者ヨハネの証しが具体的に述べられるからです。

しかしそのようなことは、福音書の記者であるヨハネは、初めから分かっていた筈なのです。分かっていながら、なぜこのような編集をしたのでしょう。混乱される方がいるといけないので言っておくと、信仰生活の長い方は周知のことかもしれませんが、6節または15節に出てくるヨハネは、洗礼者ヨハネのことであって、この福音書の著者であるヨハネとは別人です。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証をするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」と読むと、この福音書によってイエス・キリストを証しようとする著者ヨハネのことだと読めるかもしれませんが、そうではありません。「神から遣わされた一人の人」とは、洗礼者ヨハネのことです。

福音書を書いたヨハネについては、イエス様の弟子であったヨハネだと考えられてきました。ヨハネは長生きして、エフェソの教会の長老をしたとも伝えられています。そのことに加えて、エフェソには、洗礼者ヨハネこそがメシアだと信じるグループがあったと言われているのです。確かに、荒れ野で悔い改めの洗礼を呼び続けて、大勢の人々に洗礼を授けたヨハネにはカリスマがあり、ヨハネこそがメシアだと信じた共同体が存在したとしても不思議ではありません。

この後、1章35節以下で、イエスの最初の弟子たちのことが記されています。35節以下「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。先を読んでいくと40節ですが、「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった」とあり、アンデレの伝道によりシモン、すなわちペトロが弟子になったという展開です。これは、イエス様がガリラヤ湖の漁師である、シモン・ペトロとアンデレをイエス様が人間をとる漁師にしたという他の福音書の書きかたとは異なっています。

つまり、ここでヨハネは、イエスの十二弟子の最初の二人は、洗礼者ヨハネの弟子だったと告げているのです。ヨハネは、エフェソの教会の長老であり、またエフェソには、ヨハネをメシアと信じるグループがあったと話をしましたが、そのグループは、いつまでも続いたわけではありません。今の教会に照らせば、洗礼者ヨハネ教会からキリスト教会へ二人転入会してきたということですが、ヨハネ教会からは次第に人が集まらなくなっていったという話です。でもそれは、彼らの意思で離れたのではなく、イエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったヨハネの証に従ったということです。

イエスの弟子たちとヨハネの弟子たちとの関係については、他の福音書でも語っています。たとえば、ルカによる福音書11章。イエス様が弟子たちに、主の祈りを教えられるところがあります。ここを読むと、弟子の一人がイエスに、「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と頼んでいます。つまり、ヨハネの弟子たちの中には独自の祈りがあることを、弟子たちは知っていた。そして自分たちもヨハネの弟子たちのような祈りをしたくて、イエス様に「祈りを教えてください」と頼んだ。そこでイエス様が教えられたのが、主の祈りだということです。そしてわたしたちは、ヨハネの弟子たちの祈りではなく、イエス様が教えられた祈りを祈ってきたのです。

ヨハネによる福音書だけでなく、イエス様が公の生涯を始められる前には、どの福音書にも洗礼者ヨハネが登場しています。イエス様がヨハネから洗礼を受けられるので、それは当然と言えば当然ですけれども。ルカによる福音書などは、イエス様がマリアのお腹に宿る前から、ヨハネがエリサベトのお腹に宿った時のことを記しています。いつもヨハネが先なのです。それはヨハネの役割が、イエス様の道備えをするからに他なりません。イエス様がガリラヤ伝道を始められたのも、マルコ福音書1章14節によれば、「ヨハネが捕らえられた後」なのです。ヨハネが先で、イエス様は後から来られる。

では先を行くヨハネは、後から来られるイエス様をどう証していたのでしょ。15節で、ヨハネは声を張り上げて「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と言いました。どうでしょう。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」については、よく分かると思います。後にヨハネは、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」とも言いました。ヨハネが先です。ところが15節後半では、「『わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」とは言うのです。イエスはわたしよりも先におられたのだと。何か矛盾しているように思えます。

けれども、ヨハネはわかっていました。それを語るのが1章1節以下です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」天地万物を造られた言こそが、イエス・キリストなのだと。イエス・キリストは、世の初めより神と共にあったのですから、ヨハネが「わたしよりも先におられたからである」と証したのは当然のことです。

クリスマスの讃美歌の中に「永遠(とこしえ)なる 神のことば。肉となりにし、この良き日。」そんな歌詞があります。クリスマスは、世の初めからある神のことばなるキリストが、肉となってわたしたちの間に宿られたことを喜び祝う良き日です。このイエス・キリストを証しをするために、神から遣わされた一人の人がヨハネなのだと、

そして7節から8節では、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」ここに「光について証しをするため」という言葉が繰り返され、光の証人としての役割が記されています。ここで「言」が「光」と言い変えられています。神は最初に「光あれ」と言われて、光がありました。言によって光が造られたのではなく、言なる神が、光として世に現れたのです。ヨハネをメシアだと信じる人々が大勢いたということは、人々はヨハネに光を見たからでしょう。でもヨハネは、「光」ではなくて、「光の証人」、証人(あかしびと)なのです。

ヨハネに限らず、キリスト者はすべて光の証人である筈です。特に牧師はそのために召されています。わたしは人の悪口を言うことはないと思いますが、こと牧師に対しては結構厳しいところがあり、つい批判的になってしまうことがあります。何でそう思うのかなと改めて考えたときに、議長のときにさんざんなことを言われたからではありません。ストレスなく4年間が過ぎました。ではなぜ批判的になるのかを考えたのですが、それは好き嫌いとか、嫉妬とか、神学的な考え方の違いからではありません。そう考えているうちに、自己主張の多い牧師に対して批判的になることに気が付きました。牧師なのですから、自分では考えないと筈ですが、主張することで自分自身を目立たせよう、光り輝かそうとしているのではないかと。

けれども、そう考えているうちに、「田口、お前はどうなのか」と主に問われている気がしてきたのです。光の証人として仕えているつもりですが、たとえば説教準備をしながら、皆さんを退屈させないように、こんな話を混ぜて、展開に変化をつけようなどと考えてしまうことがあるのです。それで光の証人と言えるのだろうか、まことの光を屈折させていないかと。そのようなことは今まで考えたこともなかったので、思いがけないことでしたが、困ったなあと思って黙想しているうちに、そんな愚かなことを考えてしまうわたしをも神は用いてくださっているのかなと思いました。それが勘違いだとしても、そのように思わなければ、神に仕えることなどできないのです。

ヨハネは、光を証しすることにおいて輝きました。それはヨハネだけの賜物でなく、まことの光に生かされているわたしたちすべての人がそうなのです。だからイエス様は「わたしは世の光である」というばかりでなく「あなたがたは世の光である」と言われたのです。自力で光ることはできないけれど、まことの光を受けたときに自ずと輝く。ヨハネが証ししたのは、「また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ここに伝道の心があります。

クリスマスは光の降誕祭と呼ばれます。誰に対しても遠慮することなく、主を証しすることができるそれがクリスマスです。クリスマスのチラシやポストカードもまだ相当数残っていると思いますが、たくさん余らせて勿体ないということでなく、たとえば一人3枚手渡しすれば、それらは残らなくなるのです。ここにこそ救いがある。その確信に生きる教会は光輝きます。自分を隠そうなどと思わず、光をアッピールしてください。アドベントからクリスマスに向けて、ここに集う一人一人が光の証人として歩んでいくことができますように。神さまがそのように願っています。