聖書 出エジプト記33章18~20節
ヨハネによる福音書1章1~18節
説教 「神の子の受肉」田口博之牧師
多くの方と共にクリスマス礼拝を守ることができる幸いを感謝します。特に今年のクリスマス礼拝では受洗者が与えられ、喜びもひとしおです。洗礼式を行えたのは、昨年のイースター以来ですので久しぶりのことでしたが、実はクリスマス礼拝で洗礼式を行うのは、コロナ前の2019年12月22日以来、5年ぶりだったのです。
寺根さんが洗礼を受けたいとおっしゃったとき、クリスマスにという希望を述べられたわけではありませんでした。しかし、1年以上求道を続けられていた方ですし、夏に入院されたこともあって、決して早いということはないだろうと思い、クリスマス礼拝をお勧めし、何度かの準備会を経て今日の日を迎えました。わたしが、クリスマスがいいと思った一つの理由は、礼拝後に引き続いて愛餐会や祝会を行うからです。イースターは洗礼式に相応しいのですが、わたしたちの教会では、イースター礼拝後には愛餐会を行えない事情があります。
洗礼を受けるということは、神様の子どもになるということです。神に造られた人は、もともと神の子なのですが、神から離れても平気で生きるようになってしまいました。それを聖書では罪と呼びますが、先週のザアカイの物語で話したように、本来はいるべき場所から離れてしまっている状態を言います。ザアカイはお金持ちでしたが幸せではありませんでした。そんなザアカイのような人を捜して救うために、神は御子イエスを地上に送られたのです。イエス様が、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と招かれたように、わたしたちも、それぞれの家から神に招かれてクリスマス礼拝に集っています。そして今、神の子たちが集う礼拝に、「あなたの家に泊まりたい」と言われたイエス様が訪ねて来てくださっているのです。ここにインマヌエルの主の恵みがあります。
さて、クリスマス礼拝にあたって、ヨハネによる福音書1章1節から18節のプロローグの呼ばれるテキストを選ばせていただきました。ヨハネのプロローグは、今年のアドベントですでに2回に読んできました。初めに1節から5節までを通して、世の初めから神と共にあり、神であった言が天地万物を創造されたこと、永遠なる神の言こそが、キリストなのだという話をしました。その言は、命であり光であると言われています。
そしてアドベント2週目の礼拝では、6節から8節、そして15節を通して、光の証人である洗礼者ヨハネについてお話しました。ヨハネをメシアだと思っていた人は大勢いたけれども、ヨハネは光ではなく、光について証をした人なのだと。教会もまた、ヨハネと同じく、救い主を指し示す役割を持っています。先週の伝道集会も、そんな思いで企画したことでした。金城学院の生徒を招待するのも、教会が人集めのためにしているのではありません。生徒たちが教会で主を賛美したこと、その家族も教会に足を踏み入れ、御言葉を聞いたことをいつか思い出すことを第一の願いとしています。
そのようなことを踏まえつつ、今日はヨハネのプロローグ全体を踏まえながら、後半の9節以下を中心に聞くこととします。9節から11節に、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。ここは、3節から5節にかけて語られたことの語り直といえるでしょう。10節では「世は言を認めなかった」、11節で「民は受け入れなかった」とあります。世の民は言なるキリストを認めなかった、受け入れなかったのです。これは5節の「暗闇は光を理解しなかった」と共鳴しています。暗闇に生きる世の民は、光なるキリストを理解せず、闇の中に葬り去ろうとしたのです。
しかし、ここでヨハネは、言に対する世の拒絶だけを語っているのではありません。12節に「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。闇の世の中から、自分のたちの元へ言が来たと信じた人々が現れたのです。それは聖書の時代だけでなく、いつの時代にも表れます。
科学技術の発展により、わたしたちの暮らしは格段に便利になりました。わたしは先日財布を忘れて出かけてしまった日がありましたが、マナカとスマホを持っていたので現金を持たずに1日過ごせました。このようなことは数年前には考えられないことでした。地下鉄に乗ると9割の人はスマホを触っています。わたしたちの日常に無くてはならないものとなっていますが、スマホなしでは生きられないかといえばそんなことはない。スマホが神にとって代わるようなことはありません。充電が無くなれば使い物にならない程に脆いものです。
確かにわたしたちの社会は変わりましたが、人間そのものが昔も今も変わっていないことが、聖書を読むとよくわかります、むしろ社会は複雑化し、人間同士の争いも激しくなっています。科学が発達したために戦争の悲惨も大きくなっています。それは科学技術では人間は救われないことを証しています。
使徒パウロは被造物のうめきを語りました。ローマの信徒への手紙8章19節に「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」とあります。神の義よりも自分の義、自分の正しさが絶対的なものだと考える人が増えれば増えるほど、対立は激しくなります。この世は、科学技術が発展すればするほど、神の御心を行う、神の子の出現が望まれるのです。
神の子について、13節で「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と語られています。自然な命は、男女の営みがあって母の胎から生まれます。それが血によるもの、肉の欲によるものということでしょう。では人の欲によってとは何か、今はあまり言われなくなったことですが、一族存続のために子孫を残すということなのかなと思いました。そう思ったのは先週の大河ドラマ「光る君へ」の最終回、皇太后彰子の言葉からです。関白となった息子の頼道だったでしょうか、天皇にはまだ皇子がいないので、新たな女御を立ててはと彰子に進言します。すると彰子は「ならぬ」と一括し、我が家を守り抜くと説くのです。その甲斐あってか、現実に藤原道長の血筋は今の天皇家にまで続いています。これは人の欲によって成しえたといえるでしょう。
しかし神の子の誕生は、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」のです。神を受け入れた人、その名を信じる人々には。神の子となる資格を与えるというのです。普通、資格というのは努力して試験に合格して得るものですが、神の子となるために資格試験はありません。ただ恵みによってです。洗礼を決定するには長老会の諮問会を経なければなりませんが、そこで資格審査をしたわけではない。むしろ、受洗の志が与えられたのは、神の選び、神の恵みによるものと信じているかどうかを確かめる場であるといえます。
寺根さんは、今日、神の子として生まれたのです。ヨハネは言による天地万物の創造を最初に語りましたが、ここでは神の言を信じ、受け入れる人の新しい創造を語っているのです。そのことの展開が、ヨハネ3章のニコデモの物語です。ニコデモが訪ねてきたとき、イエスは「はっきり言っておく。人は。新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言いました。するとニコデモは、「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」とイエスに尋ねたのです。これはニコデモが、血によって、肉によって、人の欲によってでなければ。人は新たに創造されないと思っていたことを意味します。でもイエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」、「あなた方は新たに生まれなければならない」と言われました。それが洗礼を受けるということです。そこから新しい人生が始まるのです。
そして14節。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」この14節が、ヨハネによる福音書プロローグの頂点と言えます。ここで語られていることが、説教題とした「神の子の受肉」です。「神の言の受肉」としたほうが、より正確だったかもしれません。前回の説教で、神の言葉の受肉を歌う讃美歌を紹介しました。讃美歌259番の歌詞の4節「永遠(とこしえ)なる 神のことば。肉となりにし、この良き日」です。
そして今日はもう一曲、この後に歌う262番の2節の歌詞、「人となりたる 神のみことば インマヌエルの主。今宵生まれぬ。」ここも神の言葉の受肉を歌います。今、言わない方がよい気もしますが、わたしはこの歌詞を前にすると、胸が詰まって歌えなくなる時があります。そして3節の「死すべき人を 生かすためにと み子は生まれぬ、まぶねの中に。」ここに来ると、かなりまずい。「神さま、あなたは何てことをしてくれたのですか」と思うのです。「何てことを」とは、悪い意味で言っているのではありません。神の言を世が認めないこと、言を民が受け入れないことを分かっているにも関わらず、神はご自分と共にあり、自分そのものだといえる言なる神の御子を、世に与えられたのです。死にて葬られてしまうことが分かっていながら、自分の身を引き裂くような痛みを持って世に送られた。何ということかと思います。それが神の愛です。信じる者を神の子となる資格を与えるためになさった行為です。この大いなる恵みと真理を思うとき、わたしたちが語る愛という言葉がいかに陳腐なものかと思えてしまう。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」この言葉ですが、岩波の翻訳では、「ことばは肉なる人となって、我々の間に幕屋を張った」と訳されています。これはとても分かりやすいと思います。幕屋とは天幕、テントのことです。エジプトを出たイスラエルの民は、40年にわたって、日々自分の住みかを移動させながら荒野を旅しました。厳しい荒野で身を寄せ合うようにして立ち並ぶテント。そのテントの真ん中にイエス様ご自身がテントを張って下さったのです。「わたしたちはその栄光を見た」とありますが、神の子はすでに受肉して、わたしたちのただ中に住んでくださっています。するとクリスマスの光は、もう天から射し込んだのではなく、わたしたちが住むこの地から、わたしたちが労苦している日常から光が放たれているのです。羊飼いたちは自分たちを照らした天からのさやかな光に恐れましたが、ベツレヘムの飼い葉桶で乳飲み子を探し当てたとき、飼い葉桶の中から自分たちを明るく照らす光を見たのです。
荒れ野にいる間、イスラエルの人々らは主の栄光を見ることはできませんでした。出エジプト記33章18節で、モーセは「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言いましたが、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」。「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と言われました。しかしヨハネは、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言いました。モーセが求めた栄光が肉となられたからです。それは18節で、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と言われていることに通じます。
神の顔を見ることができないというのは、太陽を直接、見ることができないということに通じるのかも知れません。それは同時に、神の光の前に自分の罪がさらされてしまうと生きてはいけない、裁かれてしまうという恐れがあると思います。しかし、イエス様は裁きだけではない、恵みと真理という神の本質を示してくださったのです。神の言、神の子が受肉したことで、裁きの神と恐れていたけれどもそうではなかったことが、イエス・キリストの生涯、その誕生から受難と死、復活と昇天すべてにおいて表されています。
イエス様は天に上られましたが、地上におられないのかといえば、そんなことはありません。地上に張られたテントは撤収されたわけではなく、今もわたしたちのところに張られています。宿り続けています。聖霊において信じる者の内に住んでくださっているのです。クリスマスはここにはもういない人の誕生日を祝うのではありません。だったら偲ぶ日となってしまうでしょう。そうではなく喜びの日です。わたしたちといつも共にいてくださるインマヌエルの主の恵みと真理が、困難なことを多く抱えるわたしたちは日々を生かしてくださるのです。