2024.12.15
エゼキエル書34章15~16節
ルカによる福音書19章1~10節
説教 「失われた者を救うために」
今日は金城学院中高グリークラブをお迎えしての礼拝です。グリーの賛美によって、礼拝が始まりました。前奏として合唱された「主よ人の望みの喜びよ」は、バッハの代表曲で、クリスマスやイースターという教会の祝祭、結婚式の入場曲として演奏されることもあります。今年、教会にバッハ全集が献品されて、今は会計室にあるものを順に仕事をしながら聞いています。昨日、ちょうどこの曲がかかりました。バッハが作曲した教会カンタータ147番で2度このコラールが出てきます。でも今日改めてCDに負けていないなと思って聴きました。讃美歌「ああ、ベツレヘムよ」もよかったです。午後のコンサートも楽しみにしています。
さて、今日はアドベント第3週、来週はクリスマス礼拝ですが、ザアカイの物語を選ばせていただきました。なぜ、この聖書箇所なのかと思われた人がいるかもしれません。というのもザアカイの物語は、ルカによる福音書の19章1節以下がテキストですが、少し先19章29節では、イエス様がエルサレムに迎えられるという出来事が記されています。ルカによる福音書は、ここからイエス様の最後の1週間、受難週が始まる。つまりザアカイの物語は、イエス様はエルサレム入城する直前の物語なのです。
でもわたしは、ザアカイの物語ほどクリスマスの時期に読まれるにふさわしい箇所はないだろうと思っています。それは、ここで一体何が起こったのか、なぜ、ザアカイがイエス様を自分の家に迎えることになったのかを見ていくとわかります。9節でイエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。10節では「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。クリスマスとはまさに、イエス様によって、神の救いの訪れを示す出来事だからです。
もう一度、ルカによる福音書19章1節と2節を読んでみます。
「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」
エリコというのは死海に近い、ヨルダン川西岸の町です。標高はマイナス258メートルと言われ、世界で最も標高の低い町と言われています。旧約聖書のヨシュア記の初めの方を読むとよく分かるのですが、エジプトを脱出して荒れ野を40年旅したイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って最初に入ったのがエリコでした。イエス様の時代にも、エリコは交通の要所となっていて、エルサレムに上るためには、必ずエリコを通ったのです。よいサマリア人のたとえ話も「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた」という言葉で始まっています。
交通の要所であったエリコには収税所があります。人が通ると、通行税や商品の税を徴収するところです。その仕事をしたのが徴税人でしたが、日本のような税務署の職員ではなく、当時ユダヤを支配していたローマに雇われていたのです。エリコはローマの直轄地でもありました。ローマという国は賢く、必ず地元の人、エリコであればエリコに住むユダヤ人を徴税人として採用していました。日本にも色んな種類の税金があります。皆さんにとって一番身近なのは消費税だと思いますが、税率は食料品以外は10%なので、定価が1,000円でも税込みで1,100円支払います。つまり100円は消費税として確か国が7.8%、都道府県が2.2%だったと思いますが、国や県の財源となります。
ところがイエス様の時代、徴税人が徴収した税金はすべてユダヤを支配するローマに行くことになったのです。ですからユダヤ人は、徴税人はローマの手下とみなして嫌っていました。しかも税率は消費税のようにきっちり決められていません。徴税人はあの人はお金がありそうだとか、商品をたくさん持っていると思ったら、あなたは500円、あなたは1000円というような仕方で税金を徴収します。そのうちのいくらかが自分の取り分、すなわち給料となりました。じゃあローマに渡すべき税金がどこに行くかといえば、徴税人の頭のもとに行ったのです。そして徴税人の頭は、これだけはローマに渡し、これだけは自分の給料となりました。そうすると自然にお金持ちになります。そのエリコの徴税人の頭がザアカイでした。
この日ザアカイは、外がざわついていることに気づきました。どうやら評判のイエスがエリコに入ったことを知ったのです。ザアカイはイエスの噂を聞いていたのでしょう、興味本位からか外に出ました、でもザアカイは背が低かったため、群衆に遮られて見ることができませんでした。わたしたちの社会では、お金を持っているところに人は集まるものです。何か見返りを期待してか、お金持ちは親切にされます。ただ背が低いという理由だけなら、さあさあ、どうぞ前にお進みくださいと道を譲る人がいた筈です。ところがザアカイは、ローマの手先の徴税人、しかも徴税人の頭であるため人々から嫌われていたのでしょう。道を譲ってもらえませんでした。
ザアカイは、「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました」。かつてイスラエルを旅行したとき、エリコのレストランで食事をしました。ガイドは、そこに見えるのが、イエス様が登られたいちじく桑の木だと紹介しました。ただ、正直言って樹齢2千年の木には思えなかったので、あまりワクワク感はありませんでした。でも、その木は本物ではなかったにせよ、これがザアカイがイエス様を見ようとして登ったいちじく桑の木だと言われているほどに人々の心にとどまったということです。
ザアカイを見たイエス様は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。ザアカイは驚いたことでしょう。自分の名を呼ばれるのですから。ザアカイはイエス様を見たいと思いましたが、イエス様の方がザアカイのことを知っていてくださったのです。しかも、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。新しい翻訳聖書では、「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と訳されています。予約することなく、そう決めていたというのです。
イエス様がどうして、ザアカイのことを知っていたのでしょうか。神の子だからといえばそれまでですが、現実的な考え方をしても、エリコを通るのは初めてではないので、ザアカイのことを以前から知っていて気にかけていたとしても不思議ではありません。イエス様はよく、罪人や徴税人たちと食事をされる方でした。エリコの徴税人の頭のザアカイが、お金持ちということや背が低いということも知っていたのです。
今は身体的特徴に関わる言葉を使うことに慎重な時代となっていますが、聖書にも身体的特徴に関わる言葉はあまり出てきません。「背が低い」と言われているのもザアカイだけです。この「低い」という言葉ですが、原文では「ミクロス」という言葉が使われています。ミクロスという言葉で皆さんも想像がつくと思いますが、ザアカイはかなり小さい人だったと思えます。わたしの10歳上のいとこにホルモンの影響なのか低身長の人がいます。わたしが小学校3年生だったと思いますが、母親がもう一緒に写真に写ることがないよと言ったことを今も覚えています。おそらくザアカイも、それほどに背が小さかったと思うのです。そういうことで、周りの人からも差別されていた、ですから人前にはあまり出なかったのです。そういう意味で言えば、イエス様を見ようと外に出たのは、興味本位と言ったのは、撤回した方がよさそうです。
はっきりしていることは、ザアカイは満たされていなかったということです。どうせ嫌われているのだから、せめとお金持ちにと思い、徴税人の頭にまで上り詰めたのだと思います。木に登ったのも、背が低かったということだけでなく、背伸びをして自分を大きく見せようとしたことの表れではないでしょうか。ザアカイは孤独だったのです。イエス様は、そんなザアカイに呼びかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」もう背伸びしなくてもいいよ。「今日は、あなたの家に泊まることにしている」、あなたと友になりたい、そんな呼びかけです。
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎えました。とっても嬉しかったと思います。自分の家に泊まり来てくれる人は、これまでいなかったのです。これを見た人たちは皆「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言っていたのですから。
イエス様を家に迎えて、満たされた思いになったザアカイは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。律法にも賠償金の規定がありましたが、ザアカイの自発的な申し出は、律法で決められた以上のものでした。ザアカイの自由意思がここにあります。救われた人は、何ものにもとらわれない、お金にとらわれることもない、まことの自由を得ることができるのです。イエス様の訪問を受けたザアカイは、新しい人になったのです。
最近は誰かを泊めるということを、あまりしなくなっている気がします。親しい仲でも、相手のことを気遣い、遠慮して泊めてと言い出せないことがあります。受け入れる方も、家の掃除や、片付けをしなければならないとつい思ってしまう。いつしか、ホテルを取った方が、お互いに気楽でいいと思ってしまう。昔は教区総会などでも、北陸や三重や岐阜でも遠方の牧師は、名古屋市内の教会か牧師館に泊まるのが当たり前だったと聞いています。
昨日は幼稚園のクリスマス礼拝でしたが、クリスマスや生活発表会など大きな行事があるとき、わたしの執務室は授乳室となります。普段はそのことを覚えていて、前日に片づけをしておくのですが、最近はあまり時間の余裕がなく、机の上とか棚の上は資料の山積みで、エアコンやテレビのリモコンも行方不明になっているほどです。昨日はクリスマス礼拝が始まる20分位前に、石原園長の「先生~」と呼ぶ声が聞こえたので、お祈りかなと思って、「はーい」と返事をすると、ガラッと開けて「授乳室にしていいですか~」と言われる。流石にこれはまずいと思って、「そっか、片づけないと」と言うと、「大丈夫、牧師の部屋なので分かってますから、貴重品だけ閉まっておいてください」と言われました。分かってますとは、どういう意味なのかなと考えつつ、わたしとしては、牧師の部屋だからと思い、せめて見えるところ机の上だけは片付けました。おかげでエアコンのリモコンだけは出てきて、部屋が暖かくなりました。クリスマス礼拝が済んだ後も、押し入れの中を開けていないので怖いところもあるのですが、今日のところは皆さんをお迎えすることができるかなと思っています。
ザアカイの家がどうだったかは分かりません。お金持ちでしたので、弟子たちも泊まるくらい広い家だったかもしれません。けれども、そんなに綺麗にしていたわけではなかったと思います。でも、イエス様の呼びかけを聞いたザアカイは、まず片付けや掃除をと考えることもなくイエス様を迎え入れました。家はそのままでもザアカイは新しくなったのです。すべてから自由になったのです。
イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイがそこに住むだけで、家ごと新しくなったのです。新しい上等な服を着ても、服だけが新しい人と、その人の本質が変わった上で着る服とは、見え方が違うはずです。掃除だと表面を綺麗にするだけですが、イエス様はそこで暮らす人を新しされました。
10節の「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」という言葉で、ザアカイの物語は閉じられています。この物語を通して、救いとうのは、自分で努力して掴み取るものではなく、ただイエス様を受け入れること。ザアカイの場合にはイエス様の申し出通りに受け入れたことで与えられたことが分かります。
そして、「失われたものを捜して救うために来たのである」という言葉には、イエス様の使命があらわされています。それはすでにエゼキエルのメシア預言に表れていたことでした。エゼキエル書の34章15節から16節です。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」エゼキエルの預言を実現すべくイエス様は、失われたものを尋ね求めて救い出す良い羊飼いとして、わたしたちのもとに来てくださいました。
「失われたもの」とは、どこかにはいるけれども、本来のいるべき場所にいないという意味です。ルカによる福音書15章に出てくるたとえ話で言えば、見失った羊は他の99匹の羊と共に羊飼いのもとに、無くした1枚の銀貨は、他の9枚の銀貨と共に持ち主である婦人のもとに、放蕩息子は兄と共に父の家にいるべきでした。それら失われたものはすべて間違った場所、本来いるべきところ、神から離れていたところにいたのです。その人たちを神さまのもとに連れ戻すため、神はイエス様を世に遣わされました。それがクリスマスの出来事です。ザアカイの救いもクリスマスの救いの出来事を写し出しています。
まことの羊飼いが世に来られた知らせは、ベツレヘム近郊の羊飼いたちに知らされました。飼い葉桶に寝かされていた救い主と出会った羊飼いたちは、元々いた野原に賛美しながら帰っていきました。以前と変わらない日常が始まるようですが、羊飼いはまことの光と出会ったことで、望みを持って歩めるよう変えられました。この世にお生まれになる時、泊まるところのなかったイエス様は、ザアカイの家に泊まられました。それは「人の子には枕するところもなく」歩んだイエス様が一息つくためではなく、宿を与えたザアカイを救うため、地上に救いをもたらすためだったのです。
ザアカイのことをイエス様は、「この人もアブラハムの子なのだから」と言いました。「アブラハムの子」とは、あなたも神の子、神の祝福が約束されている人、救われるべき人なのだということです。失われていたザアカイは帰るべきところに帰ることができました。わたしたちはザアカイ以上にアブラハムとは遠いとことにいますが、イエス様によって、神の子、神の祝福を受け継ぐ者とされました。
アドベントの前に大掃除をするのは、イエス様、わたしの家にお泊りくださいと迎え入れる準備をするためです。来週のクリスマスの前に、改めて家の中を、いや心の中を整えて、主を迎え入れる備えをしていきましょう。