創世記1章1~5節    ヨハネによる福音書1章1~5節
「暗闇の中で輝く光」田口博之牧師

本日よりアドベントに入りました。「主を、待ち望むアドベント」という讃美歌を、今日は1節だけ歌い、キャンドルの火も1本だけ灯りました。来週の礼拝は2本、次の礼拝は3本の火が灯り、そして4つのキャンドルのすべてに火がともされた時がクリスマスとなります。イエス様は、闇の世に、まことの光として来てくださいました。まことの光は、人の心をワクワクさせるような光ではありません。つまり、遠くから見てもよく目立って、あそこに行ってみよう、何か楽しいことが待っているに違いないと思わせるような、そんな光ではありません。そうではなく、色んなことで落ち込んでいる。心が折れそうになり、前を向くことが出来ない。そんなわたしたちの心を慰め励ましてくれる。冷え切った心を温かく包んでくれる。そのような光です。

ヨハネによる福音書1章1節から5節を読みました。ヨハネによる福音書の1章1節から18節までは福音書の序文、プロローグと呼ばれることがありますが、実は今年のアドベントからクリスマスにかけての礼拝は、第3週を除いて18節までのプロローグの部分を3回に分けて読もうと思いました。ですから、今年のクリスマスでは、マリアやヨセフ、羊飼いや占星術の学者たちと出会うことがないのです。そこは、クリスマス礼拝後の祝会で行われるページェントの時のお楽しみにしていただければと思います。でもわたしは、ヨハネによる福音書のプロローグほど、クリスマスの真実、深い喜びを言い表したものはないと思っています。それは、悲しむ者に慰めを与える命の光です。そこを追い求めつつ、今年のアドベントを過ごしていきたいと思っています。

1回目の今日は、ヨハネによる福音書1章1節から5節までをテキストとしました。ヨハネ福音書というのは他のマタイ、マルコ、ルカの福音書と比べると独特ですが、今日の箇所を読むとそれがよく分かります。わたしは高校生の時に初めて教会に行き、聖書を読みました。聖書は福音書から読むのがいいと聞いたので、新約聖書の最初、マタイによる福音書から読み始めました。ところがいきなり系図が出てきます。マタイ福音書は、アブラハムやダビデの名は覚えましたが、意味があるとは思えない系図に躓き、先には進めませんでした。マルコは礼拝で、ルカは聖書研究会で順に読んでいるので、まだ読んだことがないヨハネによる福音書から読んでみようと思いました。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」当時は口語訳でしたが、今読んだ新共同訳とほとんど訳は変わりません。今お読みした3節を読んで聖書を閉じてしまったことを覚えています。今思えば、マタイの系図も、ヨハネのプロローグも、そんなに簡単に聖書を読ませはしないぞ、そのようなメッセージが込められていたのかなあ、そんなことを思います。

まず躓いたのが「言」です。そもそも、この一文字で「ことば」と読ませるのかと思いました。昔、使っていた聖書を開いたら、カタカナでロゴスと書き込んでありました。誰かに聞いたのでしょうが、ロゴスと聞いてもよくわかりません。観念とか、論理とか、哲学的な言葉ですがが、そうであれば、何で「言」としたのかと思いました。しかし、これはずっと後になって、これは自分で発見したと自覚していますが、創世記、天地創造とのつながりでした。

今日は創世記の1章1節から5節も読みましたが、3節までを読んでみます。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」創世記とヨハネによる福音書が共通するのは、「初めに」という言葉で始まっていることです。この「初めに」は明らかに、世の初めことです。創世記の記者は「初めに、神は天地を創造された」と語りますが、神様の最初のお仕事が何かといえば、「『光あれ。』こうして、光があった」というのですから、神が言葉を発したことで、光が現れ出でたことになります。ただしこの光は、太陽の発せられる光ではありません。太陽は、明らかに創世記1章14節以下、第4の日に創造されています。ですから、創世記1章3節でいう光は、わたしたちが普段から接している光、自然の光ではないということになります。そして「光が現れ出でた」と表現しましたが、神が光を造られたのではないということです。光が造られたのだとしたら、後で出てくるヨハネが語る光とは矛盾します。神は、闇の世を生きていくための根源的な力、わたしたちの人生を導き、この世界が保たれるための必要な光を与えられたのです。「光あれ」という言葉によって。

神は、「光あれ」と言われただけではありません。創世記1章をもう少し読んでいくと神の言葉による創造が続くことが分かります。6節「神は言われた。『水の中に大空あれ、水と水を分けよ。』9節「神は言われた。『天の下の水は一つところに集まれ。乾いた所が現れよ。』11節も「神は言われた。」 14節でも「神は言われた。」 20節「神は言われたと」この後も続きますが、神は六日間で、神の言葉によって天地万物を創造されたのです。ということは、神と神の言葉とは切っても切り離すことができないことが分かります。このことをヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と言い表しているのです。「言は神と共にあった」ことと「言は神であった」ことは、何か矛盾しているように思えますが、そうではありません。神が言われた「光あれ」という言葉もまた「神であった」といえるのです。ヨハネはそういうとらえ方をしています。わかりにくいと思われたヨハネの冒頭の言葉も、創造物語と照らし合わせながら読んでいくと、少しわかってきたと思います。

ところが、もう一つの疑問が出てきます。今わたしの説教原稿でも混在していますが、ことばと入力すると、普通は言の葉、葉っぱ付きの「言葉」で変換されます。でも聖書は、「言」という漢字一文字です。訳によっては、「ことば」と平仮名で表記している聖書もありますが、文語訳聖書も「言」一文字でした。わたしなりの解釈ですが、神の言葉は重いということです。この季節は枯葉も多く、教会の前の掃除もたいへんですが、神の言葉は葉っぱのように飛んでいかない、軽くないからです。ルカによる福音書7章に登場する百人隊長はイエス様に「ひと言おっしゃってください」と言われました。百人隊長は、兵士に「行け」と行けば、兵士は言われたとおりに行く。言葉の権威を知る人であるがゆえの言葉であり、イエス様は彼の信仰を褒められました。

わたしたちの周りで、どれだけ生きた言葉が語られているでしょうか。神の言と違い、人間の言葉は葉っぱのように軽い。しかも人を傷つける言葉に溢れています。ヤコブの手紙3章9節にはこうあります。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」と。思わず口にしてしまった言葉を、心にもないことをと言ったと言い訳することがありますが、そう思っていなければ出てきません。でも、神の言葉は、神のそのものです。その神の思いを、具体的に見えるかたちで世に表したのがイエス様です。

ヨハネは、「初めに言があった」という言葉により、福音書を書き始めましたが、ヨハネは創世記が語る神様の天地創造が言による出来事であることを伝えたかっただけにとどまりません。言が神と共にあり、言は神であったことを伝えたかったのです。もう一言いえば、この言こそが、イエス・キリストだということです。実はヨハネは福音書のプロローグにおいてクリスマスの話をしているのです。

今、感謝なことに受洗準備会を行うことが出来ていますが、その方が最初にわたしに質問をされたことが、イエス・キリストは、神の子だけれども、神なのかということでした。これは実に確信をつく問いで、詳しくは今日の礼拝でその話をしますと言いました。キリスト教がローマで国教化された後、このことをめぐって大論争が起こり、アタナシウスのキリストは神と同質であるという教えが、ニカイア公会議において正統教理とされ、やがて三位一体説が確立していくことになります。わたしは語学が得意ではないので、その分、日本語聖書の読み比べをすることがあります。それがわたし自身にとっての聖書研究です。日本語訳の聖書でもっとも学術的なのは岩波訳の聖書ですが、直訳しているので必ずしも分かりやすいとは言えません。岩波訳と対極にあるのが、「リビングバイブル」です。この聖書は学問的ではないけれど、分かりやすさを追求しています。リビングバイブルで、ヨハネの1,2章を読むと、こうあります。「まだこの世界に何もない時から、キリストは神と共におられました。キリストは、いつの時代にも生きておられます。キリストは神だからです。」気づかれたと思いますが、ロゴスを言ではなく、キリストとしています。そして、キリストは神と共におられ、キリストは神だからですと言っています。この翻訳は間違いではありません。

クリスマスでお話することのフライングとなってしまいますが、14節を読むと、それがはっきりしてきます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」この「言」をリビングバイブルのように、キリストと置き換えれば、神の独り子であるキリストが、人間の肉体をとってわたしたちのもとに来られたことが分かります。神の恵みと真理を示すために来られたのです。

さて、ヨハネは4節で「言の内に命があった」と告げました。この命とは、生物学的な命を指しているのではなく、永遠の命のことです。天地創造の先よりあった、つまり神に造られたのはない言なるキリストこそが、永遠の命の源だというのです。だから、わたしたちはキリストと結ばれること、具体的には洗礼を指していますが、永遠の命を得ることができるというのです。それが聖書で言う救いです。

今は医学の進歩もあって長生きができるようになりました。だとしても人の命には限りがあります。死んだらどこに行くのか分からないと思えば、死は恐怖でしかありません。わたしも死ぬのが怖くないとは言いません。特に苦しんで死を迎えるのは嫌だという思いがあります。また、自分が死ぬことで悲しむ人が多いうちは、その人のためにも死にたくはないという思いがあります。しかし、死んだ後にどうなるかという不安はあまりない。なぜなら永遠の命を信じているからです。キリストと結ばれた人は、神の子、キリストのものとされて、自分がどこから来てどこへ行くのかが分かるからです。

そして「命は人間を照らす光であった」と続きます。永遠の命であるキリストは、人を照らす光だというのです。人はキリストの光に照らされるまで、どこを向いて歩んでいるのかは本当には分かっていません。世の中で成功した人は、光の中を歩んでいるように思えるかもしれませんが、神を知らなければ、それは罪に生きているのであり、暗闇の中を歩いているということだってあるのです。しかし、命の光なるキリストと出会うことで、わたしたちは神に向かって、神と共に生きる喜びを知ることができます。どんなに辛いことがあっても、その人は闇に負けない光を生きています。地上の命を終えた後も、永遠の命に生きることができる光です。

そして5節では、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあります。口語訳聖書では、「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とあります。「暗闇は光を理解しなかった」よりも、「闇はこれに勝たなかった」の方が、キリストの勝利を明確に告げているのでは、と考えていましたが、「理解しなかった」というのも成るほどと思うようになりました。十字架がそうだからです。神の子が十字架で死なれるなど、人間の理解を超えていることです。神の子は負けたとしか思えないことです。統一協会はそのように教え、再臨のメシアを信じるように教えます。しかし、光の世界に生きるならば、十字架にこそ救いがあることが分かるはずです。十字架の向こうには、復活の光が射しています。岩波訳では、「闇はこの光を阻止できなかったのである」と訳しました。神の力が勝ったのです。

今年のアドベントにヨハネ福音書のプロローグを読んでいきますが、わたしはここを読んで、プロローグというよりも、ヨハネがこの福音書を通して伝えようとしたイエス・キリストの福音の本質を伝えようとしていると感じました。さらに言えば、「初めに言葉があった」と天地創造を想起したヨハネは、言なる神が肉となられたこと、暗い世にまことの人となって来てくださったことで、新しい創造が始まったことを伝えたのです。コリントの信徒への手紙二五章17節にはこうあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。

新しい命の喜びを確かめるべき、今から聖餐に与ります。差し出されるパンと杯にあらわされるキリストの命が、私たちのうちに注がれます。まだ聖餐に与ることができない方たちにも、キリストはまことの命の光に招いてくださっています。この大いなる恵みを確かめ、アドベントからクリスマスに向けて、光をともしていきたいと思います。