聖書 ローマの信徒への手紙8章38~39節、14章7~9節
説教 「ただ一つの慰め」田口博之牧師

今日は先にこの地上での生涯を閉じて天に召された方々を覚えつつ、召天者記念礼拝をささげています。礼拝堂に入られる前に1階のホールに行かれた方、礼拝後に行かれる方もいらっしゃると思いますが、信仰の先達の写真を見て、在りし日の姿を思い起こされる方がいらっしゃるでしょう。もしかすると、遠くない将来に自分の写真がここに飾られることになると、考えた方がいらっしゃるかもしれません。わたしたちは誰であれ、地上での生涯を終える時がきます。それがいつなのかは分かりませんが、その時は必ずやってきます。

愛する人との死別は悲しみをもたらします。ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者が、文法のカテゴリーを用いて、「一人称の死」、「二人称の死」、「三人称の死」という分け方をしました。聞かれたことがある人もいらっしゃるでしょうと思います。「一人称の死」とは、自分の死のこと、「二人称の死」は、愛する家族や大切な人の死、「三人称の死」は、それ以外の他人の死です。

一口で三人称と言っても、知っている人の死と、そうでない人の死ではとらえかたが異なります。最近では西田敏行という俳優が死にました。わたしは特別なファンではありませんが、知っているというだけで驚きや寂しさを感じます。でも、知っているというだけでは、二人称の死にはなりません。能登半島地震などの自然災害で犠牲者が出たことが知らされると、痛みを覚えます。その痛み、感じ方もひどく感情移入してしまう人もおられるでしょうし、それぞれだと思います。それでも、亡くなられた人を直接知らなければ、二人称の死とはなりえません。ご遺族にとって、召天者は二人称となる人の死です。その死の痛みや寂しさは、三人称の死とは比べものになりません。

グロルマンという人が、『愛する人を亡くした時』という本の中で、「愛児を失うと、親は人生の希望を奪われる。配偶者が亡くなると、ともに生きていくべき現在を失う。親が亡くなると、人は過去を失う」と述べています。二人称である親、配偶者、子どもを失うことは、一人称である自分の人生の過去、現在、未来を失うのと同じ悲しみがあるというのです。名古屋教会でこの1年のうちに亡くなられたのは、宮田良子さん、戸田澄子さんのお二人でした。礼拝の後で、お二人のご長男に一言ずつ、お話いただきたいと思っていますが、母親との死別は、過去を失ったという言葉では言い尽くせないものがあると思います。それでも、時が経つにつれて、寂しさや悲しさは薄らいできます。そのようにして、二人称の死は子どもであっても、配偶者であっても、やがては過去のものとなります。召天者記念礼拝というのは、ご遺族にとっては過去を想起する時になっているのかもしれません。

かつてある牧師が、「復活というのは分かりにくいことかもしれないけれど、死んでしまったその人を思い起こすことが復活なんだ。」そのような意味のことを言われたことがありました。それを聞いて、なるほどと思われた方がいるかもしれませんが、そういう言葉で納得してほしくはありません。確かに1人称の死、自分が死んでいくときのことを考えたら、葬儀では悲しんで欲しいし、死んだ後も自分のことを思い出して欲しい、そうでないと寂しいという思いはあるだろうと思います。この世で、これだけ生きたけれども、何らかの足跡が残らないと、いてもいなくてもどちらでもよい人間だったと思えてしまいます。一方で、その人を思い出すと悲しみがこみ上げてくるような死は避けたいとも思います。

先週、日本基督教団の総会が行われましたが、二日目に逝去者記念礼拝がありました。礼拝の中でこの二年間のうちに亡くなられた牧師、宣教師の名が朗読されます。お世話になった牧師の名が年々増えていくことに寂しさを覚えます。また今年は自分よりも若い牧師、同学年の牧師との死別が複数ありました。皆現役の牧師で、子どもたちもまだ学生です。ご家族と途方に暮れている教会員の姿を見るにつけ、自分も一線を退くまで、主からの務めが与えられている限りは、死ねないという思いが増してきます。その意味でも、思い出すことが復活だというならば、そんな復活は望みたくはありません。聖書が語る復活はもっとダイナミックなものです。この地上の営みに限っていえば、死んでしまったら終わりです。もう会えなくなるのですから、そきには悲しみがあり、痛みがあります。しかし聖書は、死によってわたしたちの命のすべてが終わるのではないことを告げています。

ローマの信徒への手紙8章38節以下に、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります。パウロは。いかなるものであっても、主イエス・キリストによって示された神の愛から、引き離すことはできないことを確信しています。そのいかなるものの先頭に挙げられたのが死です。しかし、死の力がどれだけであっても、わたしたちは引き離されないというのです。神が愛してくださっているからです。イエス・キリストを地上へと派遣し、十字架と復活によって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません。だからわたしたちは、どんな苦しみや悩みにも耐えることができます。わたしたちに襲い掛かってくるどんな力よりも、神の愛に勝るものは何もないからです。

ローマの信徒への手紙14章7~9節もテキストとしましたが、9節に「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあります。この「キリストが死に、そして生きた」とは、イエス・キリストが十字架に死に、復活して新しい命に生きたということですけれども、それは「死んだ人にも生きている人にも主となられるため」だと言うのです。ここで大事なことは、「キリストが死に、そして生きた」であって、「キリストが生き、そして死んだ」と言われてないことです。確かに、父なる神によって遣わされたイエス。キリストは、十字架に死ぬ前には生きていたのですから、「キリストは生き、そして死に、そして生きた」と言ったほうが正確だといえます。しかし強調点は、キリストが死に、そして生きたことにあります。すなわち十字架と復活です。それは、「死んだ人にも生きている人にも主となられるため」だったと言うのです。わたしたちはいつか死を迎えますが、死が終わりだとすれば、わたしたちの主はキリストではなく死となってしまいます。でも、死を支配者でなくすために、キリストは死に、そして生きたのです。

福音書の中に、イエス様が復活はないとい言い切るサドカイ派の人々との問答する場面があります。そこでイエス様は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。この「生きている者の神」とは、神はこの世で生きている間だけの神と言っているのではありません。わたしたちもやがて死にますが、死んでもなお生きるのです。「キリストが死に、そして生きた」ことで、「死んだ人にも生きている人にも主となられた」とはそういうことです。わたしたちを支配するのは、もはや死ではありません。そこに大きな慰めがあります。

14章7、8節に「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」とあります。この「自分のため」、「主のため」とは、わたしたちがどこを向いて生き、どこを向いて死んでいくのかという、方向性を示しています。わたしたちは二人称の死を経験すると死を身近に感じます。健康を害すると、否が応でも一人称の死を意識します。そのときに、自分の方を向いている限り、「死は怖い」という思いしか、出てこないのではないでしょうか。自分の中には死に打ち勝てる力がないからです。でも死を意識したときに、神の方を向くことができるならば、事は同じではなくなります。死んでも、神はわたしの神でい続けてくださる。死をもってしても、神の愛から引き離されることはない。恐れに支配された心に、平安が与えられます。

讃美歌18番「心を高く上げよ」を歌いました。心を高く上げるとは、いと高きところにある主を見上げて、心を神に向けて生きていくことです。生きている時に心を神に向けることを知らなければ、死を前にしてどうして心を神に向けることができるでしょうか。この「心を高く上げよ」の讃美歌は、讃美歌第二編の1番にありました。歌詞は変わっていませんが、歌いだしのところだけ、「心を高く上げよう」から、英語の原歌詞を生かして、「心を高く上げよ!」という、主の呼びかけの言葉に変わりました。ところが歌詞の終わりだけは、「心を高く上げよう」と、主ではなく自分からの言葉になっています。どうしてかと思って英語の讃美歌を調べてみましたが、各節の終わりの言葉はそれぞれ違っていて、「心を高く上げよ!」でも、「心を高く上げよう」でもないのです。多分、讃美歌委員会が以前の歌詞を生かそうとしたため、「心を高く上げよう」としたのだと思います。どちらでもよいことかもしれませんが、わたし自身は「心を高く上げよ!」と歌っています。自分の思いからでは、心を高く上げ続けることができないからです。ちなみにこの曲名ですが、右肩に「スルスム・コルダ」と書かれてあります。これは哀歌3章41節「天にいます神に向かって 両手を上げ、心も上げて言おう」に基づいて、ミサで祈られた言葉をもとに作られました。わたし自身は聖餐式の中で、式文にはない「心を高く上げて」という言葉を加えていますが、聖餐式で歌うこともふさわしい讃美歌です。

今日もこの後で聖餐式を行います。聖餐式を初めて体験される方は、「これはキリストの体」、「これはキリストの血」と言って何かが配られるので、いったい何が始まるのかと不気味に思われるかもしれません。でも、安心してください。「キリストの体」と言って配られるものは、小さく切り分けられた食パンであり、「キリストの血」と言って配られるものは、「ウェルチ」という商品名ですが、もともと聖餐式のために開発されたブドウジュースです。まだ洗礼を受けておられない方は、これを取ることを控えていただいていますが、それは差別しているのでなく、信仰をもって受けなければ、ただのパンのかけらとぶどう液でしかないからです。しかし、洗礼を受けた者にとっては、同じパンとぶどう液もわたしたちのために、イエス・キリストが十字架で引き裂かれた体として食べ、キリストが流された血として洗礼を受けたときの救いの契約を思い起こすのです。聖餐は、キリスト教会では洗礼と共に、聖礼典して大切にされてきたものです。召天者記念礼拝で、聖餐をいただく人はで、すでに天に上げられた人たちと一つになることを、信仰をもって味わう時となります。聖餐を取らない人も、そのように思って聖餐式を見ていただきたい。でも、いつか共にこの食卓にまみえることを願っています。十字架の縦の線は神と人を結び、横の線は人と人を結ぶことを象徴していますが、縦の線は天と地を結んでいます。すでに天に上げられた人も、今地上に生きるわたしたちも、十字架の主によって一つにされているのです。

そして、わたしたちの主イエス・キリストは、十字架で死なれただけでなく、復活されたのです。パウロは、キリストの復活は、わたしたちの復活の初穂だと言いました。その意味でも、ここにいるわたしたちと、天に召された方々とは。キリストによって結ばれています。わたしたちは、心を高く上げて神の方を向いて生き、神の方を向いて死ぬことができるのです。「主のために生き、主のために死ぬ」というのはそういうことです。

昨日、教会員の有志がガリラヤホールを設営し、約200名の召天者の写真を飾りました。わたしは所用のために会場作りには参加できず、教会に戻った時にはすべてが整っていましたが、何人かの方が、写真を見ながらその人の思い出を語っていました。でも、この人のことは誰も知らないという人もいました。教会員であれば、いずれ写真が飾られる時が来ます。でも、100年も経つと、この人のことは知らない、そう思われる日が来るのです。死んだ人のことを思い出すことが復活だと言うならば、復活しない日がやってくることになります。それは寂しいことだと思いますけれども、神には覚えられているのです。

幼稚園の子どもが卒園するとき、わたしはイザヤ書49章15節を贈ることにしています。その言葉は、「わたしがあなたを忘れることは決してない」です。「わたしたちの存在、その記憶が、忘れられてしまう日が来ても、神は「わたしがあなたを忘れることは決してない」と言ってくださるのです。続く16節には「見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける」とあります。わたしたちは神が御手をもって形づくられましたが、その神の御手にはわたしたちのことが刻み付けられるのです。ここに大きな慰めがあります。

だからわたしたちは安心して、また喜びをもって、「生きるにしても死ぬにしてもわたしたちは主のもの」として生きていくことができます。どんな時にも神の愛にとらえられていることを忘れることなく、生きている時も、死ぬ時にも、死んだ後も、わたしたちの主イエス。キリストのものとされていることをただ一つの慰めとして生きていくのです。今生きているわたしたちとすでに死んだ人も、住む場所が異なっていますから出会うことはできません。でも、主に結ばれれている限り、わたしたちはいつか出会うことができます。その日が来るまで、心を高く上げよ!との神の呼びかけに応えて生きてくのです。