出エジプト記20章12節      マタイによる福音書15章4~6節
「十戒第五戒~あなたの父母を敬え」 田口博之牧師
 
 十戒の第五戒は、「あなたの父母を敬え」です。十戒の中で、この戒めと、第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ」の二つが、「してはならない」という否定文ではなく「しなさい」と肯定文の形をとっています。ところが第四の戒めの場合、「七日目は、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはいけない」という否定の方が、強くなってしまいました。もちろん、安息日に仕事をしなければ、安息日を心に留め、聖別することにはなりません。では、どうすればよいのかを考えたときに、「してはならない」と言われた方が「しなさい」と言われるよりも、はっきりした戒めのように思います。いったいどうすれば、「父母を敬う」ことになるのでしょうか。わたしたちは、父と母を敬っているでしょうか。敬っていたでしょうか。あるいは、子どもから敬われているでしょうか。
 
考え始めると難しいなと思わされますが、反面「あなたの父母を敬え」は、十戒の中で最も抵抗なく受け入れられる戒めとはいえないでしょうか。たとえば日本では、子どもが洗礼を受けたいというと、信仰者の親にとってはこの上ない喜びがありますが、未信者の親で歓迎する人はあまりいないでしょう。むしろ反対されることのほうが多いと思います。嫁のもらい手がなくなるという心配をする親もいるでしょうし、家族の縁を切って、どこか遠いところに行ってしまうのではないか、そんなことを考えてしまう親もいるのではないでしょうか。そんな親が、「あなたの父母を敬え」という教えが聖書にあることを知ると、きっと安心すると思うのです。但し「あなたの父母を敬え」は、儒教的な「親孝行」を勧めでいるのではありません。ここで「敬う」と訳されたヘブライ語の「カーベード」は、「重んじる」という語に由来し、もっぱら神または、神によって権威が与えられた人に対して使われる言葉だと言われています。イスラエルが神を重んじるのと同じように、子は親を重んじよというのです。その意味で言うと、この戒めは、第一戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」の流れの中にあるといえます。
 
以前、十戒の学びを始めた時に、十戒の分け方の話をしました。カトリックとユダヤ教、プロテスタントの中でも、ルター派と改革派では違いがあると話をし、お手持ちの聖書に番号が振れるなら、1から10の番号を書き込んでいただくように話したことを覚えておられる方がいらっしゃると思います。それは、十戒の十の戒めをどう分けるかという議論なのですが、実はもう一つ十の戒めを、十戒の二枚の板にどう分ければよいのかという議論もあるのです。
 
十戒が二枚の板に分かれているというのは、聖書に書かれてあることです。たとえば、出エジプト記31章18節ですけれども、「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」とあります。かつて映画の十戒を見た時に、モーセを演じたチャールトンヘストンが抱える石の板に、稲妻のような光がドーンと当たって、石の板に掟が刻まれていくそんなシーンがあったことを覚えています。この31章18節をもう少し詳しく書いていのが、32章15、16節ですけれども、こうあります。「モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた」と。では、この二枚の掟の板のうち、1枚目にはどの戒めが、2枚目にはどの戒めが刻まれているのでしょうか。
 
そんな議論は、とても些細なことと思われるかもしれません。ところが、特にこの第五戒を正しく理解しようとすると、そうはいかなくなるのです。わたしがたびたび引く言葉なので、ご存知の方も多いと思いますけれども、イエス様が律法学者から、どの掟がいちばん大切かと尋ねられたときに、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えられました。この神を愛し敬うことが1枚目の板に、隣人を愛することが、二枚の板に刻まれているのだと、教会はずっと考えて教えてきたのです。
 
このことは、代表的なカテキズムであるハイデルベルク信仰問答に明確です。十戒を紹介した後、問93で「これらの戒めはどのように分かれていますか」と問い、答「二枚の板に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、私たちが神に対して、どのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、私たちが自分の隣人に対して、どのような義務を負っているかを教えています。」そう教えているのです。そうであるならば、明らかにこの第五の戒めは、後半の隣人に対する戒めに数えていることになります。父と母は神ではありませんし、もっとも近い隣人と考えるのは自然なことです。
 
ところが研究者の中には、もともとこの第5戒は、前半の神に対する戒めだと考える人がいます。現代では、むしろそちらの説の方が有力のようです。一つにはこれはとても単純な話なのですが、十戒が教えだからです。親が子どもに数を教えるときに、右手と左手を使って指折り数えながら教えます。十戒が二枚の板に分かれているという話をする時も、四つと六つよりも、五つずつ数えた方が教えやすいし、覚えやすいですね。しかしそうだとすれば、父母を敬えという教えを前半に入れる積極的な理由が必要にもなります。
 
そこで初めにお話したように、「敬う」と訳されたヘブライ語の「カーベード」が、神と神によって権威が与えられた人に対して使われる言葉だという話につながります。古代イスラエルにおいて、両親は信仰を子どもたちに伝える神の代理人のような存在として考えられていました。親は子どもたちに、律法を教えることで、神を畏れること、神を礼拝する生き方を教え、子もまた、そのことを次の世代に継承していきました。
 
そして「あなたの父母を敬え」の後で、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という言葉が続いていることも大事です。聖書、特に旧約聖書では、長生きすることが神からの祝福と受け止められていますが、ここでは長寿の祝福だけでなく、「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と言われています。流浪の民として長生きするのではない。約束の地で生きることが確かなものとなるためにも、父と母を重んじなさいと教えられています。そして、この第五戒が、1枚目の板の最後の戒めだと考えたときに、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という約束は、第一戒から第五戒の教えを守ること、そのすべてにかかっていると考えるのがよいと考えるのです。
 
しかし、こういう話をすると、「父母を敬え」という教えが、遠く感じてしまうのではないでしょうか。というのは、約束の地で長く生きることは、イスラエルにとっては大事なことかもしれないけれど、わたしたちにとっては関係ない。むしろ、主が与えられる土地に長く生きることを固執するからこそ、今続いているような戦争が起こるのではないか、マイナス要因にすら思えてしまいます。では、十戒はわたしたちにとって、関係のない教えなのでしょうか。
 
礼拝で月に一度、十戒を取り上げているのは、水曜日の聖書研究祈祷会で出エジプト記を学ぶ中で、そこに出席している10名ほどのメンバーだけではなく、もっとたくさんの方とこの教えを分かち合いたいと思ったからです。ですから聖研では、十戒の学びに、あまり時間を取りませんでした。では、今はどこを学んでいるかといえば、十戒に続く「契約の書」を学んでいます。十戒が憲法だとすれば、契約の書は憲法を基にした法律、また判例集のような位置づけですが、これを詳しく学ぶことにより、十戒、律法の理解が深まると考えたからです。ところが出席者の中には、ここを学ぶことで、今の日本を生きるわたしたちにとって、どんな意味があるのか、そう思う方もいるようです。確かに当時のイスラエル固有の状況があるのですね。たとえば、水溜に蓋をすることを忘れてしまったために、そこを通った牛やろばが落ちて死んでしまった。その時にどんな賠償をすべきなのかということも書かれています。それを知ったところでどうなるのかという教えがあることは事実です。けれども、そこを学ぶことで、イスラエルとい土地の原風景が浮かび上がってきます。またわたしたちも、うっかり何かすることを忘れたために、よその人に迷惑をかけてしまうようなこともあるわけですね。
 
また、福音書のイエス様の言葉を読んでいると、契約の書が元になっていると思うものがいくつも出てきます。先ほど、マタイによる福音書15章4節から6節を読みました。28頁ですね。15章4節に「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる」とあります。前半の二十鍵括弧『父と母を敬え』は十戒の第五戒ですが、後半の『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とは、契約の書21章17節の引用です。これは聖研祈祷会でも学んだところで、十戒の教えに反したときにどうするかという判例の一つです。ところが、マタイを読んでいると、当時ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「あなた」すなわち、神に「差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言えば、それは父や母にあげなくても良いのだという律法を作ったのです。これが聖書に書かれたのではない、すなわち成文律法ではない、口で言い伝えられた口伝律法と呼ばれるものでした。これが律法、契約の書の記述に反しても赦されるという事態が起こっていたのです。では、なぜそういくことになったのでしょうか。
 
背景の一つとして考えられるのは、「父と母を敬え」と言われても、単純に父や母を敬えないケースがいくらでもあるからです。現実を考えても、ほんとうに尊敬すべき親は、必ずしも多くいるわけではありません。以前に「親ガチャ」と言う言葉をご存知ですかという話をしましたが、何でこんな親の子として生まれたのか、人生最初からついてなかったなと思ってしまうことがあります。わたしたちは、自分の親のことで、あるいは子どものことで葛藤することがあります。親の言うことが何と理不尽なことかと思ったことや、子育てが間違っていたのではないかと思うこともあるでしょう。人は神とは違い完璧ではありません。とんでもない親というのは、どこにでもいるもので、イスラエルでも然りでした。「父と母を敬え」、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」と言われても、虐待する親だっているのです。親が子にお金の無心に来ることだってあるのです。そんなときに、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言えば済む。必ずしも父を敬わなくてもよいのだという決まりを、律法学者たちが作ったのです。このことに対してイエス様は、「こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」という言葉で批判した、ここはそう考えればよいと思います。
 
確かに、このような口伝律法によって救われる人も、苦しみから逃れることができることもあるでしょう。でも、十戒を授けられた神様は、そういう親のもとに生まれる子がいることも分かっていたはずなのです。そういう親がいることは、子どもにとっては苦しいことですが、そのことを通して、神に「どうして」と訴えることは、無駄なことではありません。どんな親であっても、親は親です。その親がいなければ、今の自分はこの世には存在しません。渦中にある時は、親を呪いたくもなるでしょうが、自分が親になったとき、ああはなるまいと、反面教師としているはずです。子どもにはそんな思いはさせないと、苦しみが幸いに転じることもあるのではないでしょうか。
 
「あなたの父母を敬え」と命じられた神の心を考えることによって、わたしたちは様々なことを見つめ直すことができると思います。両親または片方の親と、直接に血がつながっていないという場合もあります。産みの親と育ての親がいる場合があります。血はつながっていなくても、強い絆で結ばれた親子がいます。実にイエスの父、ヨセフがそうでした。神はヨセフにイエスの父としての使命を与えられました。成長したイエスは父の仕事を継いで大工となり、30歳になるまでは、ヨセフなき後の家族を支えたのです。神の子であるイエス様は、第五の戒めに生きて公の生涯を始められました。
 
さて、この第五の戒めを、二枚の板のうち1枚目の神との関係というとらえ方で考え始めましたが、やはり、2枚目の隣人との関係の中でとらえると具体的に迫ってきます。ですから、第五戒「父と母を敬え」は、二つの掟の板のどちらにあるかと言うよりも、二枚の板の橋渡しする戒めだといってよいのではないでしょうか。そして十戒というのは、第五の戒めに限らず子どもへの教えというよりも、成人した人に対する教えとして読むほうが間違いないと思うのです。特に両親の介護が必要になったときに、自分は父と母を敬うことができるのか、できないのかが問われてくるのではないでしょうか。
 
わたし自身がその問いを受けたのは、父が倒れた時でした。先ほどの口伝律法のとおりでいいなら、どんなに有難かったかと思うほどでしたので、老いた父を敬うことは簡単ではありませんでした。介護に当たらなければならない状況でしたが、振り返って愛がなかったなと思わされています。それは母に対しても同じでした。出来なくても仕方がないことだったのに、思わずなんで出来ないのかと、親が子に言うこともないような酷い言葉をかけたことがありました。わたしと比べれば、妻は両親をよく見ていたと思うのですが、本人は隣に住んでいた兄嫁に負担をかけてしまった、そのことへの感謝と本当はもっとできることがあったのではという思いがあるようです。
 
わたしたちの世代で、両親共に死別している人はどちらかといえば少なく、介護に労苦している渦中の友人がたくさんいます。そのために定年を早める人もいる。家でたまに話すことですが、教会にはたくさんの父と母がいる。わたしたちがここにいる意味がそこにあるのかもしれない。そのためにも、もうしばらく元気でいなければいけないね、そんな話をしています。少子高齢化時代にあって、「あなたの父と母を敬え」という教えは、信仰者であるかどうかにかかわらず、現実的で切実な問題になっています。その意味で、聖書にこの教えがある、十戒の真ん中にこの戒めが置かれていることの意味深さを思わされています。また、わたし自身にとって、教会でそうであるように、さふらんで高齢化対策が課題となっていること、まきばへの関りも含めて、新たなミッションが与えられていると感じています。そんな時期にふさわしい御言葉が与えられたと感謝しています。
 
皆さんも「あなたの父母を敬え」という御言葉の前に、自分はどうなのかを黙想して欲しいと思います。説教後の祈りは、そんな時間にしたいと思います。敬うべき父と母がこの世にいなくても、どうだったかを振り返ることができます。自分には敬ってもらうべき子どもがいないからと言って、自分には関係ない戒めということにはならないはずです。夫婦の事柄におきかえてもいいでしょうし、教会の中でどういう配慮が必要なのか、社会の中での自分を考えていくときにも、様々な問いかけのある教えではないかと思わされています。「あなたは、父母を敬っていますか」、「あなたがしていることに愛がありますか」。神は今、あなたに問いかけています。黙想の時を持ちましょう。