ルカによる福音書15章25~32節
「二人の息子の物語」田口 博之
子どものための説教で、奥村長老に「放蕩息子のたとえ」のテキストの前半を説教していただきました。実は毎月のことです子どもも大人も共に礼拝の聖書箇所を選ぶのは結構悩むのです。子どものための説教の後で、どんな話をすればよいのか。全く違う話をする時もありますが、あえて関連する話や今日のようにその話の続きすることがあります。別の言い方をすれば、今からまた説教が始まるのかと思う人がいたとすれば、説教が終わった後で今日は説教を二度聞けたことで得をした。教会はお得感満載だ。そういう思いになっていただければと思いつつ準備しています。
今日の場合、CSの教案誌では15章11~32節がテキストとなっていました。奥村長老に前半の24節まででとお願いし、わたしは後半の25節以下でお話しようと思いました。中心聖句も24節の「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」でしたので、24節で区切っても失礼にはならないと思いましたし、「放蕩息子」といえば、二人の兄弟のうちの弟の方を指しています。その意味では、このたとえ話は24節で終わっても不自然ではないからです。しかし、「いなくなっていたのに見つかった」だけで終わらないところに、前の二つのたとえ話、「見失った羊のたとえ」、「無くした銀貨のたとえ」との違いがあります。
「放蕩息子」といえば弟息子のことです。このたとえ話は11節「ある人に息子が二人いた。弟の方が」で始まりますが、二人の息子すなわち兄のことも語られているのです。それが後半の25節以下です。この25節以下は、弟はこうだったが、「ところで、兄の方は」と、付けたしのように語られているわけではありません。兄の話が語られなければ、放蕩息子の物語は成り立たないのです。弟が帰って来て父が開いた祝宴は、見失われたものが見いだされたときの喜びを語っています。
では、弟が帰ってきたと聞いた兄はどうしたでしょう。喜ぶことなく、怒って家に入ろうともしませんでした。そのときの兄の言い分が29節以下に記されています。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」この兄の言い分を聞くと、思わず兄に同情したくなるという声を聞くことがあります。「わたしの話を聞いてほしい」と面談したら、「そうだよね、お父さんはひどいんじゃない」と言ってしまうかもしれません。
でも、やはりそれだけではない。兄の言葉を聞くと、これまで溜まっていた鬱憤が爆発しているように思います。「いい子症候群」という言葉があります。誰の目から見ても「いい子だね」と褒められる、親を困らせるようなことをしない子がいます。皆さんはどういう子どもだったでしょうか。わたしは、母親が誰かと話をしている時に、「博之君はいい子だね」と言われると、「ほんとにこの子は育てやすかった」と話していたのを聞いたことがあります。それを聞いたわたしは「そうでしょう、そうでしょう」と機嫌よく聞いたように思うので、特別な問題は出なかったと思います。ところが「いい子症候群」というのは、「いい子だね」と言われて成長したがために、何らかの不調が出てくる子のことを言います。親が不機嫌にならないよう様子をうかがい、いつしかいい子を演じるようになってしまった。押さえ込んでいた感情が、突然爆発してしまうことがあるのです。今やっている朝ドラのヒロインも、放蕩娘のような姉が家に戻ってきたことの反動で、「うちは今日からギャルになる、したいことをする」と言い出す。彼女の場合は、それがいい方向に出たと思いますが、そうはならない時があるのです。
いい子症候群の場合は、子どもに期待を寄せすぎた親や、「いい子だね」と誉める側に問題がある場合もありますが、この兄の場合は違います。なぜなら、父は兄息子に過度の期待を求めていたわけではないからです。兄の方が、いい子であろうと無理をしていたのです。そのことを表す兄の言葉が29節です。兄は父親に向かって、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています」と言っています。この仕えるという語は、奴隷として働くという意味の言葉が使われています。岩波訳の聖書では「奴隷奉公して来たではないですか」と訳しています。兄は父に対して、親と子という関係ではなく、主人と奴隷という関係で無理をしていた。そのようにしないと、誉めてもらえない。認めてもらえないと、勝手に思い込んでいたのです。また30節ですが、兄は父に向かって、弟のことを「あなたのあの息子」と言っています。父のことを「お父さん」ではなく、「あなたと」と呼び、弟は「あなたの息子」という存在として見ていた。自分の弟とは見ていなかった。そのようなことを兄は口にしたこともなかったでしょう。ところが、放蕩に身を崩した弟を迎えた父の振る舞いを見て、溜まっていた思いが爆発してしまったのです。
確かに兄には同情すべきところもあります。わたしがこの箇所を読んで気の毒だと思ったのが、兄が自分の友達と宴会するときには、父は子山羊一匹すらくれなかったというところです。「食べ物の恨みは怖い」と言いますが、子山羊一匹くらい出してあげればと思います。なのに、身上を食いつぶして帰ってきた弟が帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになったのです。これは気の毒だと思って読みました。しかしどうでしょう。兄は自分が友達と宴会したときに、父親が肥えた子牛を出されれば喜んだと思います。でも、弟にも同じものを出したことを知ったなら、やはり怒ったのではないでしょうか。自分が一生懸命やってきたことは一体何だったのかと。そういうことは、わたしたちもあると思うのです。真面目にやっているのにちっとも報われないとか。いい加減な仕事しかしていないあいつの方がいい給料をもらっている。わたしたちは自分と誰かを比較して妬んだり、神様は不平等ではないかと文句を言ったりする。そんなことはないでしょうか。
でも、そんな兄息子に父は語りかけるのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」父にとって兄息子は、放蕩の限りを尽くした弟息子と同じように「子よ」と呼びかけてくださいます。父なる神はインマヌエル。「いつもわたしと一緒にいる」お方であり、「わたしのものは全部お前のものだ」と言ってくださるのです。友達を宴会しているときに、父親が何かを出してくれるのを待たなくても、父の子牛を自分のものとして出せばよかったのです。兄は父の子ではなく奴隷として仕えている、そんな思いがあったから出せなかったのでしょう。
福音書、特にイエス様のたとえ話を読み解くためには、このたとえが誰に向かって語られているのかを知る必要があります。ルカによる福音書15章の三つのたとえ話は、1節から3節を読むと「徴税人や罪人たち」と「ファリサイ派の人や律法学者たち」が出てきます。二つのグループが聞き手となっているのですが、兄息子のことを語るこのテキストでは、明らかに後者に向かって語っています。徴税人や罪人たちは、見失った羊であり、無くなっていた銀貨であり、そして放蕩息子のことです。イエス様は、これら失われたものが見出されたら本当に喜ばしいだろうと、ファリサイ派の人や律法学者たちを招いているのですが、その喜びの招きに応えようとしないファリサイ派の人や律法学者たちを兄息子としてたとえています。しかし彼らは、自分たちの正しさを頼りとするあまり、神の恵みを受け入れることができませんでした。
今日は、「二人の息子の物語」という説教題を付けました。わたしが焦点を当てたのは兄の方ですので、「兄息子の物語」としてもよかったのですが、奥村長老が弟の方に焦点を当てると思っていましたので、二つ合わせて「二人の息子の物語」としようという意味合いは確かにありました。しかしそれ以上に、新共同訳聖書の小見出しが、32節までを含んで「放蕩息子」のたとえとあるように、兄もまた放蕩息子のように自分を見失っていたからです。自分が父の子であることを見失い、いい子にしていないと認めてもらえない。それがファリサイ派や律法学者たちの姿でした。でも、そうではない。父なる神は、「お前はわたしの子だ」と言ってくださるのです。そして、お前が認めていた徴税人や罪人たちもわたしは招く、彼らもわたしの子だ、お前の弟だ。神の家族が増えたぞ。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と招いてくださっているのです。
この二人の息子の物語はここで終わっています。この後で兄がどうしたかは分かりません。ドラマであれば、父や弟と和解し祝宴に参加したとなるでしょうが、そんな簡単な話でないことは確かです。なぜならイエス様はこの後、律法学者らユダヤの指導者らによって、十字架に死んだからです。それは彼らが、自分の正しさを曲げることなく、罪人を招かれるイエス様を拒絶したからです。しかしこのたとえ話が、この後どうなったかという結論を述べずに、招きで終わっていることが大事です。その招きにどう応えていくかを、神はわたしたち一人一人に問うておられるのです。あなたはどうなのかと。この物語を読んだ初めの時とように、兄の気持ちは分かると同情し、兄の思いに共感したままで終わったとするならば、あなたも弟の帰りを喜べないままで終わることになるけれども、それでいいのかと。
聖書というのは、わたしたちに語りかける書物です。語りかけるがゆえに、神の言葉です。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と神は最後に教え、これに加わろうと促しておられます。当たり前のことが、どれほどの恵みであるのかをわたしたちはコロナで経験した筈です。その当たり前の恵みを拒絶したままで終わっていいのか、神は聖書を通して、この物語を通して、わたしたちに問いかけておられるのです。