出エジプト記20章8~11節   マルコによる福音書2章23~28節
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」田口博之牧師

月の最後の聖日は、十戒を学んでいますが、今日は第四戒、安息日に関する戒めです。この戒めの特徴を一つ挙げれば、なぜこの戒めを守らねばならないか、その理由が書かれてある唯一の戒めだということです。11節に「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。明らかに創世記の創造物語が根拠とされています。六日間ですべてを創造された神様は、すべてを御覧になり「それは極めて良かった」(創1:31) と一息ついて、仕事を離れました。わたしたちも七日目に安息するのは、すべてを完成された神の祝福の中で、神と共に安らうということです。

そのように理由がしっかり書かれてあることが特徴なのですが、実はもう一つ理由があります。十戒は出エジプト記ともう一か所申命記にも書かれてあるというお話しました。申命記はモーセの遺言集ともいえる書ですが、十戒は申命記5章、旧約289頁にありますが、12節「安息日を守ってこれを聖別せよ」とあります。「心に留める」と「守る」の違いはありますが、続く内容はほぼ同じです。ところが15節には、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。

ここでは、創造物語ではなく、出エジプト記の出来事が根拠とされています。奴隷状態から解放された神ご自身が、今も働き導いてくださっていることに感謝し、その事実を思い起こすために、安息日を守れというのです。この二つはどちらが正しいのか、間違っているのかという話ではなく、安息日が定められたのは、「創造と救い」という二つの出来事が根拠とされていることに意味があります。

今日は出エジプト記をテキストとしていますので、こちらのテキスト、すなわち七日目の安息ということに沿って考えたいと思います。わたしたちは曜日のことを、日曜、月曜、火曜と読んでいます。これは英語から訳したものと思われますが、天体の呼び方から来ています。どの言語でも、今日が何曜日かにあたるのかという呼び方があります。ところがヘブライ語の場合では、日曜、月曜、火曜に、第一日、第二日、第三日という言葉を当てています。すると土曜が第七日となりますが、土曜日だけはシャバット安息日と呼びます。六日目の金曜も、安息日の前日という呼び方があります。このことからもユダヤ人が、神の創造の御業を思い起こしつつ、週毎に安息日に向かって歩む生き方をしていることが分かってきます。

安息日は休息の日です。神が仕事を離れたように「いかなる仕事もしてはならない」と言われていることは事実です。わたしが学校に通った、また働き始めたのは昭和の時代で、土曜日は半ドンでしたが、6日働いて1日休むというリズムでした。ただし近年は週休2日が当たり前で、働き方改革により週休3日という企業も生まれているようです。しかし6日間働いて1日休む、神の働きと安息に合わせる方が、リズムとして一番いいのではないかという思いがあります。今は現役で働いている人は、長老は難しいよねと思ってしまいますが、かつては6日間働いた後で日曜日には教会の奉仕をする、長老会も夜遅くまでかかるというのが当たり前ではなかったでしょうか。

昨日はさふらん会の初任者研修が行われました。入職して3年以内の方が集まり、自己紹介を聞きながら、ああこの人はこういう人なんだなと知ることができ良い時となりました。自己紹介では、どのように休日を過ごしているかを言うことになっていました。教会に行っているという人は残念ながらいませんでした。わたしもお誘いしたいと思いつつ、ストレートには言いませんでしたが、親の介護だとか、趣味に用いるとか、それぞれのルーティーンがあり、余程のことがないとそれは変えられないだろうと思って聞いていました。それは、かつて教会に毎週通っていたけれど、今はそうではないという人も同じです。

話を聞きながら、教会に通う前の自分が日曜日にどうしていたかを思い出していました。子どもの頃から宵っ張りの朝寝坊で、日曜日の午前に家から出ることはありませんでした。小学校4年生くらいになると、確か日曜の朝9時だったと思いますが、確かロイ・ジェームスが司会する不二家歌謡ベスト10というラジオ番組を聞いて、その後はずっとテレビを見ていたと思います。誰かにCSに誘われたとしても、間違いなく行かなかったよなと今でも思います。高校1年のときに友人に誘われて初めて教会に行きましたが、実際に行ったのは夏休みのCSキャンプでしたので、二か月か三か月経ってからだったと思います。いずれにせよ、昨日は休日の過ごし方と言われても難しいと思いつつ、「明日も教会では安息日の過ごし方の話をするけど、わたしは仕事が休みではない。代わりの日と言われてもあまりない。それでも、明日は仕事のピークだと言えるけど、神様のもとで安息する日かな」そんな話をしました。6日働いて1日休むことはしていませんが、安息日は誰よりも聖別していると思っています。第四戒が「安息日が仕事をしてはならない」というなら十戒違反となりますが、この戒めの強調点は仕事を休むことではないのです。

今日の説教題を8節「安息日を心に留め、これを聖別せよ」から取りました。ヘブライ語を直訳すれば「心に留めよ、シャバットを」と、命令形の動詞が先に出てきます。これは、神が安息日、六日間の創造の御業を終えて七日目を休まれた。その日を主が、シャバットと呼ぶ特別な日とされたことを覚えるということです。そして聖別するとは、これを神様のために区別して取り分けるということです。安息日、シャバットをそれ以外の日、第一日から第六日までとは区別して聖なる日とするのです。安息日の主である神様の日として聖別する。神に出会う日、神のもとで安らぐ、ほっと一息をつく日とする。それが安息日です。

ところが、10節にあるように、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と定められていることも事実です。実際にこの日を「心に留めて、聖別せよ」と言われるよりも、「仕事もしてはならない日」と言われた方が分かりやすいのです。そして、ユダヤ教が神殿での捧げものを中心とする宗教から、律法を遵守する御言葉の宗教へと移行していくなかで、安息日がいかなる仕事をしてもならない日ということばかりが強調されてきました。イエス様が登場したのは、その考えがピークになってきた時代だったのです。イエス様とユダヤ教の律法学者たちとの間で一番議論になったのが、安息日をどう理解するかという問題でした。

今日は新約聖書マルコによる福音書2章23節以下もテキストとしました。「安息日に麦の穂を摘む」という小見出しが付けられていますが、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」とあります。このところでは、弟子たちが、どこかの麦畑に勝手に入って、断りもなく穂を摘んだ、つまり泥棒したことが問題になっているのではありません。安息日に麦の方を摘むという行為が、安息日にしてはいけない仕事だと律法学者たちが見なしたのです。それを見たファリサイ派の人たちが、あなたの弟子たちは律法違反をしていると批判し、それに対してイエス様は、ダビデが空腹だったときにした行動を例にあげて、弟子たちの行いを肯定するのです。そして、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と言って、安息日主でもあるわたしが言うのだから間違いないこととして、当時まかり通っていた律法の理解をくつがえしたのです。

マルコは、これに続く3章でも安息日に関するエピソードを伝えています。ここでは安息日にイエス様が手の萎えた人を癒されたということに対して、ファリサイ派の人らが、おかしいじゃないかという批判をしたのです。当時、安息日には、今処置しなければ命が助からない場合のみ医療行為、すなわち救命救急のみが認められていたからです。ところが、この人は手が萎えていたというのですから、命に関わる緊急さはありません。安息日が開けてからいやせばよいと判断されることだったのです。しかし、安息日の主であるイエス様にとって、ここでの出会いが一期一会であり、安息日が開けるのを待つなどは考えもしませんでした。イエス様は萎えた彼の手をいやし、手は元どおりになりました。その結果6節で、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」と書かれてあります。安息日にイエス様がなさった行動により、イエス様への殺意を芽生えさせる結果となったのです。安息日が大切な日であり、特別な日として聖別をしなければいけないという点においては、ファリサイ派の人々もよく考えていたと思います。しかし、「いかなる仕事もしてはならない」に心を傾けすぎたために、安息日に何を大切にすべきなのかという本筋が見失われた。それで、安息日に仕事をするような人は律法を守れないダメな人と見なすような風潮ができてってしっていたのです。イエス様は、そこにメスを入れられたのです。

今朝、皆さんの中に、地下鉄やバスに乗って教会に来られた方がおられると思います。電車やバスが動くのは、運転士や駅員さんが働かれているからです。教会の帰りにどこかで食事をされる方がいるかもしれませんが、そこで働いておられる方がいなければ食べることはできません。ヘルパーの助けが要る方もいます。わたしたちは、安息日に働く人がいるからこそ、礼拝に集うことができる。これは感謝せねばならないことです。今日は投票所で仕事されている方もいます。わたしたちが、日曜日に礼拝を守れるというのは、当たり前のことではありません。病気などで礼拝に行きたいのに行けない人がいます。わたしは、日曜日は仕事があって来られないという方があれば、それ以外の曜日に礼拝する日を提供することも考えたいと思っています。していないのは、そのような要望を受けていないからで、あったら嬉しいと思っています。その日がその人にとっての安息日となり、安息日を聖別することになるのですから。

ご承知の方が多いと思いますが、聖書でいう安息日は日曜日ではありません。安息日、シャバットはわたしたちの暦でいえば土曜日です。厳密には「タベがあり、朝があった」という御言葉のとおり、1日は夕方から始まると考えるので、金曜の日没から土曜の日没までが安息日と考えます。イエス様が十字架に死なれたのは、午後3時頃だったという聖書の記述がありますが、安息日が始まる前、すなわち金曜日の日が暮れる前に大急ぎでアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。そして安息日が開けた週の初めの日、すなわち第一の日である日曜日の朝早く暗いうちに、マグダラのマリアら婦人たちがイエス様の遺体が納められた墓に向かい、復活の証人になりました。このことを記念して、キリスト教会では、イエス・キリストが復活された「週の初めの日」である日曜日に礼拝をしています。わたしたちにとって日曜の礼拝は、キリスト教的安息日と考えてもよいでしょう。

讃美歌206番「七日の旅路」を歌いました。作詞は、451番「くすしきみ恵み」の作詞でも知られるジョン・ニュートンです。「七日の旅路 守られ歩み、 きょうまたここに 集まり祈る み恵みの日よ、安息の日よ。」安息日の心を歌う、とても良い歌詞の讃美歌です。キリスト教会は、ユダヤ教では土曜日だった安息日を、週の初めの日、日曜の礼拝に変えました。それでも、この日に七日間の旅路を振り返ることは大事です。神から与えられた多くの恵みを数えるのです。そうすると、どれだけ自分が主人公となり、自分の心を支配していたかに気づきます。罪あるわたしたちは、そのままでは神の御前に進み出ることはできません。わたしたちの罪をすべて背負って死んでくださった十字架の主のゆえに、ここに集うことが赦されています。礼拝に来てやったという思いで来られたとすれば、それは間違いです。礼拝は、神の御前に招かれていることが大きな恵みであることを感謝し、悔い改めから始まるのです。「日曜日の礼拝」を「主日礼拝」、「聖日礼拝」と呼ぶのは、自分を人生の主としていたことを復活の主の御前で悔い改め、神様に自分を明け渡す日として聖別するためです。

招詞では抜粋しましたが、イザヤ書58章13節から14節には、
安息日に歩き回ることをやめ わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ
安息日を喜びの日と呼び 主の聖日を尊ぶべき日と呼び
これを尊び、旅をするのをやめ したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ
父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される」とあります。

素敵な言葉だと思います。わたしたちは、神がなさったような六日間の仕事をすることなど出来るはずがありませが、神から与えられた六日の務めを果たすことはできます。そして、神が七日目に安息されたように、わたしたちは安息することができます。そのようにすることで、創造主なる神の恵みのみ業を追体験することができます。

レクリエーションという言葉を使うことがあると思いますが、この言葉は、英語で「再び」とか「新しく」という意味の [re] と「創造」 [creation」が合成されて [recreation]となりました。わたしたちは、神の前に憩う礼拝に共々に集うことによって、わたしたちの[recreation]、再創造が始まります。

日曜日の礼拝をささげることは、イエス様の復活を記念することにとどまりません。復活されたイエス弟子たちが弟子たちの真ん中に立って、「聖霊を受けなさい」と息を吹き入れたことで、弟子たちが新しされたように、わたしたちも新しくされるのです。新しく生き始めてゆくのです。週毎の礼拝に共に集まり、復活の喜びに生かされる恵みを受けて新しくされ、今日から始まる1週間を生き抜く力が得られるように、この礼拝堂から出て行った後も、それぞれの場で神と共に歩む七日の旅路を歩むことができるよう祈り願います。