創世記2章7~8節
「命の源を知る」田口博之牧師
たくさんの子どもたちとご家族を迎えて、子ども祝福礼拝を献げられることを感謝しています。皆さんは神様がここにおいでと招き、その招きに応えた一人一人です。名古屋教会で、このようにして幼稚園やはこぶねの子どもたちを招く礼拝は、6月の花の日礼拝と、10月の子ども祝福礼拝の年に2回あります。今年の6月の礼拝で、「生きるためにいちばん大切なことは何か」というお話をしました。わたしはそこで、水や空気がなければ生きていけないけれど、生きるためにいちばん大切なのは「神さまを知ること」だと話しました。夏頃ですが、その話をよく覚えていたのでしょう。「神さまを知らない人はどうなるのか」と言ってきたはこぶねの子がいました。もちろん、「神さまを知ること」がいちばん大切だとは、牧師だから言うのであり、しかもこの話を聞く人に向かって話していることだと言いました。その後で改めて、教会の礼拝、伝道というのは、神さまを知らせることなんだよなと思わされました。
そして、今日はその話の続きをしようと考えました。幼稚園や小学校1,2年生には難しい話だと思います。でも、少し分かることがあると思います。今日は、神さまを知ることがなぜ、最も大切だといえるのか、そんな話をします。「命の源を知る」という難しい題をつけてしまいましたが、伝えたいことは、「わたしたちの命は、神球によって与えられたもの」だということです。わたしたちの命の源、わたしたちがどこから来たのかを知ることで、神様に愛されている大切な存在であることを知ることができます。
幼稚園の子も、はこぶねの子も、僕は何で生きているんだろう。私はどうしてここにいるのか、なんて深く考えないかもしれません。それでも、「大きくなったら何になりたい」って考えることがあると思います。名古屋教会幼稚園の先生の中に、この幼稚園で育ち、将来は名古屋教会幼稚園の先生になりたいと思っていた人がいます。小さいときの夢がかなうなんて素敵なことだなと思います。わたしは、幼稚園のときに、池田総理大臣になりたいって思っていました。何で池田総理大臣だったのか、テレビの演説を見て、かっこいいと思ったのかもしれません。でも結局は田口牧師になりました。それでも高校生のときに、牧師になろうとは思いませんでしたが、牧師になるかもしれないとイメージしたことがありました。そして、自分で言うか!と笑われそうですが、昔のイメージよりも今の方がイケてます。牧師っていうのは素晴らしい仕事なので、この子ともたちの中から、牧師が何人か生まれるといいなと思っています。
自分らしく生きるということが、勧められることがあります。じゃあ、自分らしいとはどういうことでしょうか。自分が生きたいように生きるということでしょうか、自由でいいと思います。誰かのために生きるという生き方もまた、自分らしいと言える人がいると思います。一人一人違うので、聖書はあなたにとってどういう生き方が自分らしいのかを伝えているわけではありません。では、聖書は何を伝えているのかといえば、わたしたちは自分の力で生きているのではなくて、生かされているということです。
創世記2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。人が土からできたなんてあり得ないと思うかもしれません。でも聖書は、あり得るとかあり得ないのか、ということを考えさせようとしているのではありません。生命の起源は、進化論として習うときが来ると思いますが、進化論は科学です。聖書が伝えるのは進化論ではなく創造論です。創造論というのは科学の教えではなく、わたしたちが生きる意味についての教えです。それは神学であって科学ではないのです。
たとえばここにマイクがあります。マイクを通すとわたしの声は大きくなります。科学が説明するのは、なぜ大きくなるのかです。マイクというのは音を振動させて、電気信号に変換して、スピーカーを通して声が大きく聞こえるようになります。科学的な説明をするとそうなりますが、科学はなぜマイクがここに存在しているのか、その意味は語りません。この講壇のマイクは、神様の思いを告げようとする牧師の声が、遠くに座っている人や、耳が聞こえにくい人でもよく聞こえるようになるためにここに置かれています。聖書が告げようとしているのはそういうことなんです。なぜ、わたしがここで生きているのか、目的があって生きていることがわかってくる。
教会の方からは、牧師なのにと叱られそうですが、わたしは人が土から造られたとは思っていません。けれども、わたしたちの地上の命が終わるときに、土に帰ることは事実です。でもそれはむなしく帰ることではなく、わたしたちに命を与えてくださった神様のもとに帰ることが、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」という言葉で言いあらわされていると思います。
幼稚園の子どもたちと一緒に給食を食べることがあります。早く食べ終わった子の中には、粘土細工をし始める子がいます。一生懸命に作っています。同じものを作ろうとしても、同じものは一つもありません。今日の聖書もそのことを伝えています。わたしたちは誰一人として、同じ人はいません。みな違いがあります。神様が一人一人を形づくられたからです。個性があります。それは素晴らしいことです。形づくるという言葉には、御手をもって、丹精込めてという意味が込められています。
お店で買ってきた機械編みのマフラーと、世界に一つしかない手編みのマフラーとではどちらに価値があるでしょうか。たとえ網目が不揃いでも、機械で大量生産されたマフラーの方が綺麗だったとしても、手編み、ハンドメイドの方が価値のある素晴らしいマフラーだとわたしは思います。
神さまはわたしたち一人一人を形づくられただけではありません。聖書は「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。これも素敵な言葉だなとわたしは思います。その鼻に命の息を吹き入れるためには、顔と顔を近づけないとできないことです。そこにも神さまの愛があります。これは最初の人、アダムだけの話ではなく、ここにいるわたしたちみんなそうなのです。息を吹き入れられた人は、息を吐かなければ、つまり呼吸しなければ生きていくことはできません。同じように、神様の言葉をいただいた人は、神様を賛美して生きていくのです。お祈りも独り言ではありません。神様は聞いてくださいます。祈りは神様との呼吸なのです。
まとめます。わたしたちは、命の源を知ることによって、自分が神様に愛された価値あるものとして造られたことを知ることができます。だからこそ、神様を知ることが大切なのです。子どもたちも大きくなるにつれて、生きることに辛くなることがあります。自分のこんなところが嫌いだと、自分を受け入れられなくなることがあるかもしれません。わたしもいっぱいあります。あの人のように出来ればいいのにと思うことがたくさんあります。でも、神様を知ることで、神様に愛されていることを知ることができます。わたしたちの命は、神様の独り子であるイエス様が、十字架で命を捨ててくださったほどに価値あるものなのです。
ここにいる一人一人、今日は来ていない友だちも、神様が丹精込めて造られた人で、それぞれに命の息が吹き入れられています。その命の息を神様にお返しするときまで、与えられた命を精一杯用いて生きていきたい。神さまを知るとそう思えるようになります。ここに集った子どもたちが、幼いときに神様を造り主と知ることができますように。