コリントの信徒への手紙二 2章5節~11節
「赦しと慰め」 田口博之牧師

今日のテキストは、「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです」と始まっています。この「悲しみの原因となった人」というのが、小見出しにある違反者のことなのでしょうか。何のことかよくわかりません。その前の4節でパウロは、「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と言っています。実は聖書には、コリントの信徒への手紙一と二とがありますが、実際には何通もあり、その何通かは紛失していると考えられています。わたしたちが実際には読むことができない涙の手紙があり、その内容を知ることはできません。

しかし、「悲しみの原因となった人がいれば」あるように、パウロは仮定形で書いていますが、実在した人であることは確かです。そしてこの人こそ、前の4節にある「涙の手紙」の原因となった人のことだと考えられます。この人は、コリントの信徒たちの中でパウロ批判の先頭に立った人です。それがあまりにも極端で、コリントの信徒たちにとっても迷惑な存在となってしまったのです。

パウロは、「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と記していますが、おそらくこの手紙はコリントの人々の心に届いたのだと思います。最近はメールでやり取りすることが増えていますが、心して伝えたいと思うことは手紙でと考えないでしょうか。その気持ちを何とか届けたいと思うあまり、出しそびれてしまうこともありますが、パウロは祈りつつ手紙をしたためました。パウロに批判的だった人たちの多くも、この涙の手紙を読んで自分たちの問題に気づき、ああわたしたちはパウロ先生に悪いことをしていたと、悔い改めたと思うのです。そうなると、人間というのは身勝手で、自分たちを扇動した人のことが赦せなくなってしまことがある。誰かを犯人にすることで、自分を安全圏に置くということをすることをするのです。それで、コリント教会では何らかの処罰をしたのです。

パウロはそういう状況があることを知ったうえで、「その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです」と言います。明らかに自分を標的にしていたその人を弁護しています。6節の「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」という言葉もそうですね。わたしたちは、赦せない相手が何らかの処罰を受けたことで、気持ちがすっと収まるということがあるでしょう。でも、パウロにはそんな思いは微塵もなかったのです。むしろ、その人自身のことを、さらには処罰した側のコリントの信徒たちを心配しています。彼らがどんな思いになっているか。責める思いに支配されていないか。わたしたちの周りでも、これまでは、おかしいと思っていたのに言えなかったけれど、自分と同じ思いの人が他にいることが分かると、うっ憤を晴らすかのように、その人に対して強く出るということを人はするのです。それはいい状態とは言えません。問題行動をした人を責め立て、自分たちの交わりから断つのは、実に簡単なことです。責められるよりも、責めているほうが気分いい。でもそれは、少なくとも教会がすることではないのです。

ですからパウロは「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」と言います。また10節では「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」と言っています。ここに「赦す」という言葉が繰り返し出てきます。

キリスト教とは「愛の宗教」だと言われますが、そこでいう「愛」とは「赦し」のことです。イエス様は私たちの罪を赦すために来られました。イエス様はペトロに「七の七十倍までも赦しなさい」と言いました。それは490回という数の話ではなく、際限なく赦すということです。復讐しないということです。そんな話をすると、キリスト教は甘いと批判する人が必ずいます。そんなことではこの世を生きていけない。やられたのに、赦してしまっていいのかと。実はそういうことではないのです。

イエス様は、私たちの罪を赦すために世に来られ、十字架に架けられました。十字架は、わたしたちの罪を見過ごすものではなく、イエス様ご自身がわたしたちの代わりに裁かれたのです。神は義なる方ですから、罪は罪として裁かれるのです。放置すべきものではないからです。そこで神は、わたしたちが裁かれるべき罪のすべてを、イエス様の負わしたのです。神は御独り子を裁かれることで、わしたちに赦しの道を開いてくださいました。そこに神の御心があるのです。

パウロがなぜ自分を痛い目に遭わせた人を赦したのかといえば、自分が赦された人であることを知っているからです。主のみ体である教会を迫害していたわたしを、主は赦してくださった。罪を赦してくださった主への感謝がパウロを伝道者へと駆り立てたのです。パウロにとって福音とは、罪の赦しの福音です。しかし、罪の赦しに生きる教会は、罪を見過ごすことはないのです。放置してしまえば、罪を犯した人は滅びてしまうからです。罪は罪として指摘し解決することで、教会は罪の赦しに生きることができるのです。でもそれは、罪を犯した人を罰することが目的なのではありません。その人を罰して追い込むのではなく、罰を受けたその人が立ち直れるように祈るのです。

教会には戒規という制度があります。戒規とはこの世の社会、会社の就業規則にある懲戒処分のようなものと理解されがちですが、処罰を目的とはしていません。日本基督教団の教規第141条に「戒規は、教団および教会の清潔と秩序を保ち、その徳を建てる目的をもって行なうものとする」とあります。徳を建てるとは、道徳的な響きがありますが、教会の土台を据えるために行われるものです。戒規を受けたその人が誤りをしっかりと見つめ、悔い改めて教会の交わりに戻ることができる。失われた人が見いだされたときに、天には大きな喜びがあります。戒規ということではなくても、教会から離れてしまう人がいる。その人たちが戻って来るように教会は祈るのです。そこにこそ、慰めがあります。

パウロは11節ですけれども、「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです」と言っています。「わたしたちがそうする」というのは、教会が罪を赦すということです。罪を犯した人、問題行動をした人が悔い改めて戻って来られるように祈り求めるのです。その祈りは、具体的な働きかけに導かれます。そのような教会は、サタンにつけ込まれることはありません。サタンが喜ぶのは、教会が罪を赦さないことです。神様から離れた人を放置する。あの人がいると教会の雰囲気が悪くなる、いなくなっても気にならない教会をサタンは喜ぶのです。わたしたちは、人のうわさ話や悪口を言うことで盛り上がってしまうことがあるかもしれない。そういうときにこそ、サタンの術中に嵌っていることを知る必要があります。

サタンが最も避けたかったことは、イエス様が十字架に向かわれることでした。ゲツセマネの園での祈りは、サタンとの闘いでもありました。20年くらい前に「パッション」という映画を見ましたが、ゲツセマネの祈りのシーンから始まりました。実際にゲツセマネの園で撮影されたようですが、サタンの化身として白い蛇が園で祈るイエス様の足元に近づきかかとを噛みます。ところがイエス様は、噛まれたかかとでへびの頭を踏みつけ砕いたシーンが印象に残っています。

わたしはあのシーンを見て、創世記3章のアダムとエバの堕罪のところで、主なる神が蛇に言われた言葉、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」の御言葉がよみがえりました。創世記のあの言葉を、十字架の預言とした監督メル・ギブソンの信仰に触れた思いでした。わたしにとって「パッション」という映画は、冒頭のあのシーンだけで十分だったという思いをもっています。ゲツセマネの園で、イエス様が杯を飲むことを退け、十字架に向かわれなかったとすれば、罪が放置されてしまい、わたしたちはサタンに頭を砕かれてしまうことになったのです。

7節に「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」とあります。この「力づけるべき」という言葉は、「慰めるべき」と訳すことができます。罰を受けている人の傍らに付き添って力を貸す、励ます、それが聖書でいう慰めです。今年度も半年が過ぎましたが、わたしたちの教会は「慰めの共同体」という教会標語のもとに歩んでいます。聖書で言う慰めは、頭を撫でてよしよしするような慰めではありません。倒れそうになっている人を力づけ、立ち上がらせるように手を貸す、そんな力強い慰めです。

罪を犯したことを自覚したことで、罪に苦しみ、立ち上がれなくなってしまう人は少なくないのです。そういう人を赦し、慰めることで、もう一度人生に立ち向かわせる。罪の赦しの福音を宣べ伝える。新しく生きる力を与える、そこにこそ教会の務めがあります。罪の赦しに生きる教会は、罪を放置することはありません。罪は憎むべきものです。でも罪を犯す人を憎んではいけないのです。

パウロはさらに「そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください」と言います。お願いしているのではなく、敵を愛しなさいという使徒的勧告です。この「愛するようにしてください」という言葉は、「愛を決定する」という法的な用語が使われています。罪を犯した人を赦し、慰め、そして愛をもって、彼を兄弟として交わりに迎え入れるよう、教会として決議しなさいと言うのです。罪を犯した人との交わりが回復されるとき、教会は力強く立ち上がります。

罪を赦すということは、簡単なことではありません。イエス様が十字架で死ななければならなかったほどに難しいことです。先だっての祈祷会でも話が出たことですが、自分が誰かに傷つけられたとしても、その人を赦すことはできるかもしれません。でも、自分の大切な人が傷つけられて涙を流しているときに、その傷つけた人を赦せるかといえば、そこには難しい問題があります。その人を赦してしまうことで、自分の大切な人をさらに傷つけてしまうことだってあり得るのですから。

そんなに前の話ではばく、わたし自身もそんな経験をしました。大切な人が傷ついて、あの人のことが赦せないと思っている。わたしは罪の赦しを告げる牧師ですが、赦してあげなさいとは言えませんでした。結果、わたしは弁護士に依頼しました。そこに立ち入ることを避けたのです。法的な意味では解決しました。でも、そのようにしたことで、傷つけてしまった側も悲しみに打ちのめさた現実があり、そのことのゆえに傷ついた側も悲しみを引きずることになりました。ですんで、そのやり方が本当によかったのか、そうではなく、別のやり方があったのか。そう問い直しても、今も分からないままでいます。わたしたちが生きている世界は、これが正解だといえることばかりなら生きやすいのですが、本当は何が正しいことなのかわからない、答えのない世に生きています。それでも生きていく限り、日々何かを選び取っていかなければ生きてはいけません。だからこそ、生きることは難しい。

説教が終わろうとするのに、何だか答えの見つからない袋小路に迷い込んでしまいましたが、そういう経験を日々重ねながら、わたしたちは生きていくしかないと思うのです。でも、何を選び取るか難しいと思えることの中で、わたしたちの規範となるのは聖書です。わたし自身、あの時に今日の聖書テキストに触れたとすれば、違う向き合い方をしたかもしれないと思っています。そうしなかったとしても、もっと迷ったと思います。でもその迷いは、マイナスのことではなく成長につながります。

わたしたちの周りには、困った人だと思える人は必ずいます。そのように言う自分が困った人になっていることもあります。教会というところは、ある意味では困った人の集まりなのです。そういう人を神は呼び集められています。だからこそ、その困った人を放置しない。わたしたちの交わりの中に招き入れる最大限の努力をしてみる。それは人を裁いて、放置するよりも、困難な道で狭い道なのです。でもその道こそが、滅びに通じることのない命の道であると信じます。今日の聖書テキストは、互いに赦し合い、慰め合って生きていく、主が喜んでくださる教会のあり方が示されていると思わされています。