詩編130編1~8節、ローマの信徒への手紙3章21~26節
「主を待ち望む」田口博之牧師

詩編の中に「悔い改めの詩編」と呼ばれるものが七つあります。詩編6編、32編、38編、51編、102編、130編、143編の七つです。詩編130編はその中の一つです。

「深い淵」と聞いて、皆さんはどういう状態を想像するでしょうか。淵とは、「水を深くたたえているところ」です。川遊びが危険だと言われるのは、急な流れもそうですが、流れが穏やかで足も着くと思っていたのに、急に淵になっていることがあるからです。どれだけもがいても、足がかり一つなく、深みに吸い込まれていく。わたし自身も川遊びで、そんな経験をしたことがあります。泳ぎが得意ではなかったですし、その時のことを思い出すと恐ろしくなってきます。

そして、深い淵、すなわち深淵というと、水も深く淀んだ状態を言うだけでなく、精神的に「浮かび上がることが難しい程に苦しい心境や境遇」を表すことがあります。

改革者マルティン・ルターは、音楽家でもありましたが、この詩編130編から、讃美歌160番を作詞、作曲しました。1節は、

「深き悩みより われはみ名を呼ぶ。 主よ、この叫びを 聞き取りたまえや。
されど、わが罪は きよきみこころに いかで耐えうべき」という歌詞です。

ルターは、詩人の「深い淵の底から」を「深き悩みより」と言っています。出口なき真っ暗なトンネルに入り込んでしまった。希望の光が見えてこない状況です。そのような経験をされたとしたら、皆さんは、どうされるでしょうか。わたし自身、かつてそんな経験をしたことを思い出します。大いに鍛えられはしましたが、同じようなことは二度と起こってほしくないと思っています。

このたび体調を崩してしまいました。たいしたことではなかったのですが、熱が出て、息苦しさもある。目が見えにくくなってきた時には恐れを感じました。夜、床についたとき、このままどうなってしまうのかと、思わず考えてしまう。そんな折に、わたしより若い人の召天の知らせも入ったりすると、だんだんと気弱になっていく自分と出会いました。それは、深い淵の底とはいえない程のことですが、マイナスなことを考えているうちに、詩編130編を思い起こしたことは、わたしにとって幸いでした。特に1節の言葉はそらで唱えることができました。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

唱えながら気づかされたのです。この詩人は深い淵の中にあって、失望していないことを。深い淵、水の中に沈んでいるのですから、声は出ないはずです。それでも、詩人は主を呼ぶのです。「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と祈る。そのように祈ることができるのは、主を信頼しているからこそです。

2週前、講壇に立てなかったときに、昔の録音を聞きましたが、その中で、詩編の祈りにのせて祈るというメッセージがありました。自分ではどう祈っていいか分からないことがあります。苦しいときの神頼みと言いますが、人は苦しい時には神離れしてしまうことの方が多いのです。どうせ祈ったって神は助けてくれない、祈ったところで時間の無駄と思います。では、祈らないことで、時間を有効利用できているかといえば、そんなことはありません。

聖書の中で、詩編が好きと言う人は多くいらっしゃいます。わたし自身はそう得意ではありません。聖書の言葉は神の言葉ですが、詩編は人の言葉です。なのに、なぜ聖書の中に詩編があるのかと思ったものです。しかし、詩編を声に出して読んでいる時に、自分では祈れないことを詩編の詩人は祈ってくれているという発見をしました。わたしの代りに祈ってくれているのだと。そう思うと、詩編が与えられていることを感謝と思うようになりました。

深い淵の底に沈んでいる。どれだけ叫んでも神に届きはしないと、わたしなら思ってしまう。でも、この詩人は神を呼んでいるのです。祈れないわたしの代わりに祈ってくれている。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

詩編は、神に祈ることのできる幸いを教えています。

そして、この詩編130編を通して思わされることは、この詩人は罪のゆえに深い淵にはまり込んだことを自覚しているということです。それは、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう」という言葉から分かります。神がわたしの罪をご自身の心にとめられたなら、誰もたえることができないのだと。

その意味で、一般的な意味での、苦難、絶望、悩みということを越えて、詩人は罪意識をもっています。罪ゆえの苦難であることを自覚しているのです。罪によって神から切り離されてしまい、陰府に葬られてしまったような状態にある。しかし、そこからでも、神を呼んでいるのです。

この詩編から讃美歌160番を作ったマルティン・ルターは、この詩編を「パウロ的詩編」と呼んでいます。それはどういうことでしょうか。

ルターという人は、神を怖がっていたと言われています。自分の力では、罪を解決することができないことを知ったルターは、義であられる神の前に、裁かれるしかないと恐れ、悩みに悩んだのです。それゆえの「深き悩みより」です。ルターが修道士となったのは、正しい人間になって、神の裁きを逃れたいという一心からでした。ルターは自分をストイックに追い込み、そして聖書の研究に打ち込みました。しかし、修道士としてどれだけ正しい生活をしても罪の思いは膨らむだけでした。ルターは、「修道院の壁は世俗の罪から自分を守ったが、自分の内から湧き上がる罪の思いからは守ってくれない。自分は神に裁かれ、滅びるしかない」と告白します。

そんなルターですが、あるときローマ書を読んでいて、後に「塔の体験」と呼ばれる劇的な体験をします。それまでルターは、「神の義」について、神は正しいからこそ、罪ある人を裁くと思っていましたが、「神の義」を裁きではなく、恵みとして理解するという体験をしたのです。神は罪人である人間を慈しみ、自ら持っている義(正しさ)を無償で与えられる。それゆえ人間が救われるのは、自身の義ではなく、神の義を受け入れること、それがすなわち「信仰」なのだと。

詩編130編4節には、「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです」とあります。「赦しはあなたのもとにあり」とは、自分の努力では罪を解決することはできない、ただ神だけが罪を赦すことができるという告白です。その意味で、この詩編の言葉は、実に新約的、パウロ的だといえます。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、神だけが罪を赦せるお方だと信じる者に与えられるのだと。

ローマの信徒への手紙3章21節以下には、今述べたことが語られています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」とあります。

イエス・キリストを信じる、それだけで神が義としてくださる。罪を赦し、救ってくださるのだと。しかも、「そこには何の差別もありません」と言います。異邦人は律法を持たないので、救われる資格がないというような差別はなく、ただ信仰によって救われるというのです。

23,24節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあります。

「贖い」とは、元々は経済用語で、買い戻すという意味の言葉です。イエス様が、罪のゆえに支払わなければならない人間の罪という負債を、ご自身の十字架の死という代償を支払うことで肩代わりしてくださったのです。わたしたちが、神に対して負っている、どれだけ頑張っても返しきれない負債を、イエス様が十字架によって支払ってくださった。こんなに都合のよい話は、他にはありません。他にはない、それが福音です。

贖いという言葉は、詩編130編7節、8節にも出てきます。
「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる」と。

詩編の詩人は、キリストの十字架は知らない筈ですが、「赦しはあなたのもとにあり」、主こそが、罪を赦してくださるお方。贖い主であることを知っています。ここにもパウロ的詩編と呼ばれる所以があります。それと共に、旧約聖書は、このような形でキリストを証ししていることを知ることができます。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し」とあるとおりです。

詩人は5節、6節で、
「わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」と歌います。

ここに「望みをおき」、「待ち望みます」、「見張りが朝を待つにもまして」と同じ言葉が繰り返されていることに気づきます。「待つ」という言葉は、受動的な言葉のように思いますが、この繰り返しを聞く時に、詩人が前のめりになって待っていることに気づかせられるのです。前のめりになるとは、いい姿勢とはいえませんが、この姿勢がなければ、望みをおくことはできません。主を待ち望むといいながら、ふんぞり返っていては望んでいるとはいえない。詩人は、前のめりになって、主を待ち望んでいます。救いが来るのを待ち望むのです。「見張りが朝を待つにもまして」。

今日選んでおくとよかったと思っているのですが、讃美歌236番に「見張りの人よ」という讃美歌があります。

「見張りの人よ、夜明けはまだか いつまで続く この闇の夜は」。

1節から4節を通して、暗い夜が通り過ぎて、希望の朝がやってくるのを待ち望む歌となっています。夜の見張り、夜警は、犯罪などが起っていないかをしっかりと見張ります。朝を迎えることができれば、その務めを終えることになる。見張りの務めが解かれる、解放の時です。

暗い夜が守られて、無事に朝を迎えることができるのは、すべての人の願いです。夜なかなか眠ることができない理由は一概には言えませんけれども、不安や恐れがあるからでしょう。讃美歌160番の3節では、「見張りの人よ、朝は来るのか。すべての恐れ 消えゆく朝は」と人々が尋ねています。

バスケットのワールドカップが盛り上がりました。昨日の試合に勝って、オリンピック自力出場を決定した日本男子バスケットボールチームの愛唱は、「AKATSUKI JAPAN」です。暁(あかつき)とは、夜明け前のことを指します。世界に後れを取っていた日本男子バスケットだが、黎明期がやってくる。闇夜は過ぎ、朝の日の当たるところを歩み始めるという期待がその名に込められています。そして、期待通りの活躍をしたわけです。わたしなどは、にわかファンとも言えない者ですが、毎試合毎試合、汗と涙して応援していた人たちは、「見張りが朝を待つ」人たちであり、選手たちと共に解放の時を経験しました。

深い淵の底、深い悩みの中で苦しんだ詩編の詩人は、主こそが罪を赦せるお方であると信じ、主に助け求めました。「見張りが朝を待つにもまして」主こそが贖い主と信じ、主を待ち望みました。

わたしたちも悩みの時がある、深い淵でもがくような時がありますが、すでに夜明けを生きています。わたしたちのために、神が御子イエス・キリストをお送りくださり、御子の尊い血潮によって罪の赦しが与えられました。そのことを心に刻むための聖餐を今から祝います。聖餐はただ信仰によって、与えられた救いを感謝する時です。

それと共に、「マラナ・タ、主の御国が来ますように」と歌うのは、わたしたちの救いは完成してはいないからです。だから悩みの時があるのです。ここに救いがあるのかと、疑う時がある。祈れない時がある。だからこそ、主と共にある聖餐を祝うたびに、再び来られると約束してくださった主を待ち望む心を新しくするのです。