エゼキエル書12章21~28節、ルカによる福音書12章35~48節
「目を覚ましていなさい」 田口博之牧師

皆さんの中に「待つ」ことが苦にならないという人がいらっしゃるでしょうか。誰かと待ち合わせをしたときに、相手の人が少々遅れてきても平気だということが。わたしの場合、予定の時間より誰かが5分でも遅れるというと、いらいらしてきます。だからでしょうか、人を待たせてしまわないように気を遣うところがあります。

郵便局や銀行のキャッシュコーナーで、お金を引き出したり、振り込んだりすることがあるでしょう。わたしはその時に、後ろで人が待っている時には、一つのことをすれば一度離れます。そして後ろに行って改めて並ぶか、そこに複数の人が並んで時間がかかりそうなら、そこを離れて出直します。スーパーのレジでも、出来るだけ人が少ないところ、一人多くても、買い物かごに商品が少なそうなところに並びます。ひとえに待つのが苦手だからです。けれども、わたしたちの信仰においては、そうは言っておられない。

先週の説教で、教会とはどういうところなのかという話を、日本基督教団信仰告白を手掛かりに話をしました。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」という言葉は、「教会とは何か」を言い表しています。これに続く「教会は公の礼拝を守り」以降に語られているのは、「教会は何をするところか」ということです。その最後のところに「主の再び待ち来たりたまふを待ち望む」という告白があり、使徒信条につながります。主を待つということが、わたしたち教会の信仰の要であることがここに言い表されています。どのように待つのかといえば、「待ち望む」のです。希望をもって待つのです。

今日与えられているルカによる福音書12章35節以下は、イエス様が主をどのように待てばよいか、たとえを通して教えておられるところです。ここには二つの話が出てきます。35節から40節、婚宴に出かけた主人を待つ人のたとえがあります。41節からは財産管理を任された僕と、二つの話があるのです。

最初の話は、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という言葉で始まります。なぜそうするのかといえば、主人が帰ってきたときにすぐに迎えられるように、準備しておくためです。38節に「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」とあります。真夜中も、夜明けも、普通なら寝ている時間です。しかしイエス様は、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言います。なぜ幸いなのでしょう。

「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とあります。本来ならこれは僕がなすべき務めです。主人を、ようこそお帰りくださいましたと言って迎え入れ、主人を食事の席に着かせ給仕する。実際にルカ福音書の17章7節以下(142p)にこんな話があります。

「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。」この場合では、僕がではなく、家の主人が僕の帰りを待っています。その時に、主人が食事の用意をして待っているなどはあり得ません。帰ってきた僕が、主人の夕食の支度をして、その後で食事する。それが当然だろうというのです。

今の時代でこそ、そんなことはない。夫婦共働きで、妻の方が遅くなると分かっていれば、夫のほうが食事の準備をすることは、不思議ではなくなっている。しかし、ここで僕と訳された言葉は、奴隷とも訳せる言葉です。わたしたちがイメージする奴隷とは違うのですが、奴隷のことだと聞くと、イエス様は当然の話をされていると思うのではないでしょうか。17章9節以下「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とあるとおりです。

ところが、12章で語られている主人と僕との関係は違うのです。僕たちが目を覚ましているのを見た主人は、主人「自らが帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのです。僕たちがなすべきことを主人がしてくれるのです。イエス様はここで、ご自身の再臨の話をされています。今はエルサレムに向かう旅の途上です。エルサレムで苦難が待っていることを、ここの時の弟子たちは知りません。けれども、この御言葉を聞いているわたしたちは知っています。わたしたちは、地上を生きられたイエス様のことは知りません。その意味では弟子たちは羨ましい気もしますが、わたしたちは、これから何が起こるか知っています。死んでよみがえられ、天に昇られたイエス様が、再び帰ると約束されたことを。その「主の再び待ち来たりたまふを待ち望む」のが、わたしたち教会の信仰の中核です。

ではなぜ、待ち望めるのか。希望を抱いて待てるのか。それは考えられないこと、素晴らしいことが起こるからなのです。主が来られる。それは神の国が来る、世の終わりの日が来ることですが、わたしは「救いの完成」という言い方をよくています。すべてのことが明らかになるのです。わたしたちは救われたといっても、何かあるとすぐに神を疑ってしまいます。それは、わたしたちの信仰が完全ではない、完成されてないということです。ところが、主が来てくださるとき、すべての疑いが払拭されます。これまでには考えもしなかった素敵なこと、ここで語られたたとえのようなことが起こるのです。帰って来られた主のために、喜んで食事の支度をしようとそうするよりも先に、主が目を覚まして待っていたわたしたちを見て喜び、主ご自身が食事の準備をしてくださるというのです。思ってもみない、考えられないことが起こるのです。

この話を聞いていたペトロが質問しました。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と。ルカ12章を読んでいくと、イエス様は大勢の群衆がいる中で弟子たちに話されたり、群衆に向って話されたりしています。ここでは「誰に言われた」とは、はっきり書かれていませんでした。それでペトロは、確かめたくなったのでしょう。自分たちは毎日主に仕え、群衆たちの世話もしている。群衆の中にもイエス様の世話をしたいと思っている人はいるだろうが、自分たちの方が、ずっと前からイエス様に仕えている。そんなわたしたちにこそ、イエス様はご褒美を与えようとされている。そこを確かめようとして、「このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と尋ねたのです。

すると、イエス様はこの質問に答える代わりに、二つ目のたとえ話をされます。今度は管理人の話です。42節以下「主人が召し使いの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」と。ここでイエス様が語られた、僕たちの世話をする管理人とは、間違いなく、先に弟子として選ばれたペトロらをさしています。

これを聞いたペトロは、心の中で「やはり、イエス様は自分たちの話をされたのだ、やはり自分たちは神の特別な恵みに与かれる、そんな特権が与えられているんだ」、そう思ったかもしれません。しかし、そこで話は終わらないのです。管理の務めを委ねられるということは、それだけ責任が重いのです。48節に「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」のですとあるとおり。

しかも、45節にあるように、管理人とされた僕が、「主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」厳しく罰せられることになる。当然のことです。現代なら、パワハラ、モラハラで訴えられそうな事案ですが、今でどこかに潜んでいそうな話です。そんなことをしていたら、「主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、上忠実な者たちと同じ目に遭わせる」と、裁きを約束します。イエス様はあなたはわたしが何を言いたいのか分かっているのか。あなたは、いつ帰ってくるか分からないわたしをちゃんと待てるのか。いつも緊張感をもって、目を覚ましていることができるのか、と問われる。

現代人に限らず、また新約聖書の時代に限らず、人は待つことが苦手ですし、遅れていると思えば来ないものと決めつけることがあります。エゼキエル書12章21節以下を読みました。第一回のバビロン捕囚は行われましたが、まだ民は緊張感がなく、エゼキエルの裁きの預言に耳を傾けていません。エルサレムが滅びてしまうなどとは思っていないのです。

それで22節「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」ということわざを用いて、エゼキエルの言葉に逆らうのです。するとエゼキエルは、主なる神は「わたしはこのことわざをやめさせる」、「その日は近く、幻はすべて実現する。」、「それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する」。そのように、裁きは確実に訪れること、民に目を覚ましているよう勧めます。

しかしなおもイスラエルは、27節「彼(エゼキエル)の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである」と緊張感のない答えを続けるのです。確かに神の約束が実現するまでに、長い時間を要することがあります。でもそれは、主がわたしたちが悔い改めるのを忍耐して待っているのか、わたしたちの信仰を試すために先送りされることもあるのです。しかし、ここで主は言われるのです。「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」と。

どうでしょう。わたしたちは、世の終わりの日が来ると聞いても、ピンと来ないかもしれません。20世紀の終わり、世紀末にはそんなことも言われましたが、まっとうなキリスト者であれば、いついつに世の終わりが来るとは思っていません。そのように断言するとすれば、その教会は異端です。なぜなら、イエス様自身が、その日その時はわたしも知らないと言われているのですから。

わたしたちは、自分が生きているうちには世の終わりは来ないと思っているところがあります。それでも、自分がいつか死ぬということは分かっています。造られたものにはすべて終わりがあるのです。日野原先生の言葉だったと思いますが、「死を迎える」ということは「主を迎える」ことだと言われました。いつも主を迎える用意をしておく。その意味で、「お迎えが来る」という言い方は正しいといえるでしょう。主が迎えに来てくださる。その日の近さを日々感じながら過ごすこともあれば、突然やって来ることもある。わたしたちは、客を迎えるときも、今急に来られては困ると思う時があるかもしれませんが、死は待ったなしです。お引き取りくださいとはいえない。再臨の主も泥棒のように突然やって来るのです。

今日のテキストでイエス様が語られていることもそういうことなのです。急に主を迎えることになったときに、申し開きをしなくていいように「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」、「忠実で賢い管理人でいなさい」、「目を覚ましていなさい」と言われる。主の言葉を守って、しっかり備えができている人には、「あなた方は幸いだと」言われる祝福が与えられる。

そのことが、婚礼から帰ってきた主人が、目を覚ましていた僕たちを食事の席に着かせ、給仕してくださる姿にたとえて語られているのです。そこに語られているのは神の国の食卓です。食卓の主宰者は主であられ、主ご自身が給仕してくださる。教会で行われる聖餐、わたしは聖餐式を行うというよりも、聖餐を祝うと言った方が適切だと考えていますが、聖餐というのは神の国の食卓の先取りです。見た目には一かけらのパンと一口の杯です。とてもご馳走とはいえない。しかし、信仰をもっていただくときに、この食事が備えられていることは、感謝と恐れしかありません。その聖餐のパンと杯は、皆さんが座っている席に運ばれてくるでしょう。長老が給仕をする。それは当たり前のことではない。そこにも聖餐が神の国の食卓のしるしであることが表われています。

浮かれ気分であったペトロに対して、主は厳しいことを言われました。この後ペトロは、ゲツセマネの園において、目を覚ましていることのできなかった弱さを痛いほど味わうことになります。そんなペトロですが、初代教会において全教会の管理の務めを任されました。ローマ・カトリック教会の信仰では、初代教皇として天の鍵を授けられました。

ペトロは自身の書いた手紙で、教会の指導者たちに勧告します。ペトロの手紙一4章10節。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る人は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」と。先週月曜日に行なわれた教区役員研修会で紹介されていたのもこういうことです。牧師、役員が与えられた賜物を主の教会にために用いていく。

神はわたしたち一人一人に、その人の賜物に応じたタラントンを預けてくださっています。それをしっかりと管理し用いるのか信仰生活です。不思議なことに主が預けてくださったものは、どれだけ使っても減ることがないのです。逆に使わなければ何をしていたのかと責められる。託されたものをきっちりと管理して用いれば、それだけ増えていくのです。必ず実りが与えられる。そのとき主は、「忠実な良い僕だ、よくやった」と最上の言葉をくださいます。そこにわたしたちの究極の救いがあります。