ルカによる福音書18:18~30
「神にはできる」

ある金持ちの議員がイエス様のところに来て、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたところから、この物語は始まっています。

テーマは「永遠の命」です。永遠の命とは、いったい何か。皆さんも、考えられたことがあるだろうと思います。愛する家族が死んでしまったとき、また自分が死んだ後でどうなるかが頭の中をよぎり、聖書に語られている永遠の命について考える。それでは、永遠の命とは、死んだ後に与えられる命なのでしょうか。この世の命のように限りがあるものではなく、まさに永遠に続くものなのでしょうか。

ヨハネによる福音書5章39節以下に、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」という言葉があります。これはイエス様の言葉なので、わたしとは、イエス様のことです。真面目なユダヤ人は、聖書を一生懸命に研究し、聖書に書かれた掟をしっかり守ることで、永遠の命を手に入れることができる。そう考え、そのことの確信を求めて、聖書を研究していたのです。そんな人々に向かって、イエス様は、「わたしこそが永遠の命である。聖書はそのことを証しているのに、なぜわたしのところへ来ないのか」そう語りかけるのです。

今日のテキストで、イエス様のところにやって来た議員は、イエスを救い主、永遠の命の与え主であると信じてやって来たのではありません。「善い先生」と呼びかけたことからも分かります。「先生」と呼ばれる人は、日本でも少なくありませんが、どういう先生が「善い先生」なのでしょうか。人柄を指して言う場合もありますが、技術的にも人格的にもあらゆる面で優れた先生を「善い先生」と呼ぶことが多いのではないでしょうか。

この人は議員でした。日本では議員も先生と呼ばれていて、その呼び方はやめようという動きも出てきていると聞きますが、おそらく彼は、イエス様のことを評判の律法の教師だと聞きつけてやってきたのです。お世辞でなく、この方なら自分の渇きを満たしてくれるに違いない。そう思って、「善い先生」と呼びかけたのだと思います。

彼は、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。実はルカによる福音書において、これは初めて出てくる問いではありません。全く同じ問いが出ているところが、もう一か所あるのです。ルカによる福音書10章にある善いサマリア人のたとえ話の導入部がそうです。ある律法の専門家が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねたのです。この人は、「イエスを試そうとして尋ねた」とありますので、自分なりの答えを持っていたのです。イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と彼に問い返し、そこから善いサマリア人のたとえ話へと展開していきました。自分を正当化している律法の専門家に対して、誰が隣人であるのかではなく、隣人になることの大切さを教えたのです。

今日のテキストは、その時の主題が深められていると言えます。というのも、イエス様は訪ねてきた議員に対して、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われます。律法をきっちり守っている人だと見抜かれたのです。この議員もまた、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

ここから分かることは、永遠の命を受けるためには、律法をしっかりと守らねばならない。永遠の命は、律法をきっちりと守ったことの報いとしていただけるもの。これが、ユダヤ人の考えの根底にあったということです。だから、この議員は「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。「何をすれば」とは、律法のどの戒めを守ればということです。隣人愛の戒めをよく守って生きてきたけれども、まだ足りないものがあると感じていた。永遠の命への確証を持つことはできなかった。それでイエス様に尋ねた。

するとイエス様は、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言いました。彼はイエス様の勧めに応えることはできませんでした。「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」と書かれてあります。財産があるということが、永遠の命への妨げになることがわかったのです。

ところで、皆さんは、このイエス様の言葉を聞いてどう思われるでしょうか。この言葉のどこに重きを置くかで、聞き方が変わってくると思います。この人は「大変な金持ちだった」ようだけど、わたしはお金持ちでないからわたしとは関係ない。そう思うでしょうか。あるいは、わたしはお金持ちではないけれど、イエス様が言われるように財産を処分して貧しい人々に分配するなど到底できない。こんなわたしは、永遠の命を受け継ぐこと資格はない。そのように思うでしょうか。

それよりも、このイエス様の言葉に警戒心を持って聞く人がいるのではと思います。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」という言葉は、ちょっと聞き間違えると、危険な言葉になり得ます。聖書はこんな勧めをしているけれど、旧統一協会も、こういう言葉で人々を苦しめているのではないか。「持っている物をすべて売り払い」などと勧めるキリスト教は危ない宗教だ。そんな誤解も生みかねなません。わたしがこのとおりにしなさいと説教すると、田口牧師のメッセージはカルト的だ。そのように誤解して聞かれる時代になってしまったのではと思わされるのです。

でもイエス様は、金持ちの議員が、このとおりするとは、初めから思っていなかっただろうと思います。それは、彼が神よりもお金を頼りにしていたことが分かっていたのです。彼は律法をきちっと守っているようで実はそうではなかった。律法の根本、十戒でいえば第一の戒めに「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあるにも関わらず、目に見える財産を神としていた。まことの神を神としていなかった。それこそが、あなたに欠けている一つのことであると、教えられたのです。

イエス様の言葉を聞いた議員は悲しみました。彼は真面目に律法を守り、永遠の命を求めた人でしたが、もっとも大切なものとしていたお金を捨てて、この人に従うことはできないことを知らされたからです。

悲しむ彼を見てイエス様は言われます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。この言葉から、あることに気が付かされます。それは金持ちの議員が求めた「永遠の命を受け継ぐ」ということが、イエス様の言葉によって、「神の国に入る」という言葉に置き換わっていることです。

「神の国」とは、ルカによる福音書の中でも大きなテーマであると話してきました。繰り返し神の国はについて、話されました。前段18章15節以下でも、乳飲み子を連れて来る人々を妨げようとした弟子たちに向かって、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたのです。

考えてみれば、金持ちの議員は、子どもとは対極にある存在だといえます。マタイ、マルコ共に、この二つの教えは連続して語られています。マタイでは「金持ちの青年」、マルコでは「金持ちの男」とありますが、別の人ではない。マタイはこの男の年齢、ルカはこの男の身分に着目したのです。もともとは、先の子どもたちへの招きとセットで、一つのエピソードとして語り伝えられたものと考えられます。自分の力では何もできない子どもと、自分の力、特に財産があるということで何でも手にしてきた議員とが対照的に語られてきたのです。金持ちの議員は、自分が頼りに生きてきた財産を捨てられないという現実を突きつけられて、永遠の命を受け継ぐこと、神の国に入る道が絶たれてしまったのです。

これを聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。もしかすると、この金持ちの議員は、人々から尊敬されていたのかもしれません。このような人こそが、もっとも神の国の住人としてふさわしい。そのように思われていたのかもしれません。

ところがイエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言って、金持ちが神の国に入ることは不可能であると語ったのです。針の穴でなく、人がようやく通れるほどの門であれば、らくだでも通れるかもしれない、でも、こぶでつかえてしまうのではないか。そんな想像もしてしまいますが、相手が針の穴であれば、はじめから話にもなりません。これを聞いていた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのは、実に自然なことです。そう、人間の力では誰も救われないのです。もうあきらめるしかない。ところがイエス様は、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われるのです。

だからわたしたちは失望しない。イエス様を信じ、イエス様の体である教会につながって生きている人は皆、永遠の命を与えられています。だからこそ、死んだら終わりだとは思わないでしょう。イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けたときから、わたしたちは新しい命、永遠の命を生き始めているからです。神と共にいます命をわたしたちは生きている。この交わりは、死によって断ち切られることはありません。イエス様が十字架で死なれ、滅びるしかなかったわたしたちの贖いとなられたこと、三日目によみがえられたことで死を滅ぼしてくださったからです。神との交わりは、死によって絶たれることがないと信じられるから、永遠の命の望みを持つことができます。人間の力では、らくだが針の穴を通る程に不可能なことを、イエス様が成してくださったのです。

「人間にはできないことも、神にはできる」。シンプルな言葉ですが、信仰とはまさに、「神にはできる」、「神にできないことは何もない」ことを信じることだといえます。ルカはそのことを、処女マリアの懐妊のところから語っているのです。「神にはできないことは何一つない」という天使ガブリエルの言葉に、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。わたしたちプロテスタント教会は、マリア崇拝こそしませんが、神にはできると信じた、このマリアの信仰的決断を模範としています。

ペトロも「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言いました。ペトロの献身は不十分なものでしたが、網を捨てて、イエス様に従ったことは事実です。そして、イエス様は最後のところで、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束されます。

家族を捨てるという勧めは、財産を捨てること以上に、危険な言葉として聞こえるかもしれません。けれども、主に従うためには、多かれ少なかれそういう決断が必要なのです。イエス様は家族を捨てることを奨励しているのではありません。わたしに従えない理由として、家族のことを引き合いに出すなと言われているのです。

もう15年位前のことですが、あるところからの要請で、聖書研究会を月に一度、5年位続けたことがありました。カルチャースクール的な要素のある会で、そこに集まる人たちは、色んな意味でレベルの高い人たちでした。聖書についての理解力も高かったです。さらに御言葉を求め、教会に来られた人もいましたが、洗礼にまで至りませんでした。わたし自身の力不足はありますが、何よりも捨てるという言葉が届かなかったからです。家族や財産を捨てるということではありません。今持っているものの上に、それが倫理であれ、知識であれ、自分が持っているものに、聖書の教えを積み上げようとしたのです。

それは、イエス様のもとに来た金持ちの議員が、今持っているものの上に、永遠の命という財産を積み上げようとしたことと重なります。でも、それは無理なことなのです。律法の義については非の打ちどころのなかったパウロがイエス様に従えたのは、これまで持っていたこの世的に優れたものを塵芥と見なして捨てることができたからです。そこで価値観の転換が起こったのです。

価値あるものを捨てて従うのは並大抵なことではありません。けれども、そのことによって、大いなる資産を得ることができることが、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」という言葉から明らかです。

主に従う一部の人が、そのような恵みに与れるのではなく、「捨てた者はだれでも」とイエス様はおっしゃっています。死んでからだけではない、この世においても、捨てたものの何倍もの報いを受けるのだと言われます。この世の報いも約束されているのです。生きている限り辛いことはあります。でもそれは永遠に続くのではありません。明けない朝はないのです。今の暗さだけを見つめて、信仰のむなしさを覚えるのではなく、出口は必ずあることを見つめる。そう信じて生きたときに、「後の世では永遠の命を受ける」という大きな約束が生きる望みとなります。少なくともわたしは、そのように生きてきましたし、今も生かされています。人にできることでは神にはできるのです。イエス様の死と復活のゆえに、そのことの確かさがあるるのです。