聖書 イザヤ書40章6~8節 ルカによる福音書21章29~38節
説教 「神の言葉と祈りに生きる」田口博之牧師
「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。』」このたとえは、イエス様の生涯のなかで最後のたとえです。いちじくの木は、イスラエルでは馴染み深い木です。「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」とありますが、日本でいえば、「桜のつぼみが開き始めると、春が来たことがおのずと分かる」ということになるでしょうか。
では、イエス様は、何を伝えるために、このたとえを話されたのでしょうか。ルカによる福音書は21章の5節以降で、ずっと世の終わり、終末について語ってきました。先週の礼拝で読んだところもそうでした。「人の子が来る」とは、イエス・キリストが裁き主として、世に来られるときのことです。そのしるしとして語られていることは、25節にあるような天変地異、大自然災害を思わせるようなことで、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」とは、そのとおりだろうと思います。
ここで「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」とあるように、葉が出始めるのは、4月頃でしょうか。イスラエルは、雨季と乾季ははっきりしていて、5月~9月は雨が全く降りません。日本のように梅雨のないので、夏が突然やってくるのです。ですから人々は、葉が茂ってきたら夏の用意をします。
イエス様は「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」と言われるのです。だれもが、このしるしを見たら夏の用意をするのと同じように、終わりが近いことを知って備えをしなさい。イエス様は、いちじくの木のたとえによって、備えることの大切さを語られたのです。
わたしはこのたとえを読んだとき、自分が抱いていた終末観のようなものが変わった気がしました。どういうことかというと、皆さんの中で、世の終わりとか、終末という言葉を聞くと、恐ろしいと思うのではないでしょうか。「終末が近づいてきたよ、楽しみだね。」そんな会話がなされることはないだろうと思います。説教で何度か、終末に救いが完成する。そんな話をしていますが、どうしても負のイメージの方が勝っているのではないでしょうか。そこに、終末について説教をすることの難しさがあります。
しかし、終末を語られるイエス様のメッセージには、マイナスのイメージはありません。そうであれば、ここでは、「実のならないいちじくのたとえ」になる筈です。「木が枯れる」とか、「切り倒してしまいなさい」というメッセージとなる。でも、「実のならないいちじくのたとえ」のたとえは、別のところで語られています。イエス様は、世の終わりを語るこのところでは、「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」というように、さらに実を成らせていく様なプラスのイメージで語っています。恐れに捕らわれてしまいそうな世の終わりを、希望の時、恵みの時の到来として指し示しています。終末について語るイエス様の教えの中核にあるものは、破滅的な恐怖ではなく、主の再臨によって成し遂げられる神の救いの出来事なのです。
その上で32節以下「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語ります。この「はっきり言っておく」とは、福音書にたびたび出てきますが、すべてイエス様が「今から言うことは大事だから」そんなときに使われる言葉です。
その大事なことは、決して簡単なことを語っているわけではないのです。「すべてのことが起こる」とは、どういうことが起こるのか。「この時代」とはどういう時代なのか。「この時代は決して滅びない」と言いつつ「天地は滅びる」というのは矛盾していないのか。さらには「決して滅びない」と言われる「わたしの言葉」とは一体何を意味しているのかと。
「すべてのことが起こる」のすべてとは、まさにこれまで語ってきた戦争や天変地異などあらゆる苦難のことです。この地域も、いつか東日本大震災のときのような地震に襲われると言われています。津波の被害も予測されています。大きな災害に出会ったとき、人は「ああ世の終わりだ」そう思ってしまうこころを持っています。しかしイエス様は、そのようなことは恐れを呼び起こすことだけれども、そういうことで、この時代が滅びることはないのだと、イエス様は言われるのです。終わりをもたらすのは、「初めであり終わりである」神様です。その意味で、わたしたちが生きているこの時代は、苦難が続くのです。生きていくということは苦しいことです。楽しそうに生きているように見える人はいるかもしれないけれど、わたしたちが知らないだけで、皆たくさんの苦労を背負って生きています。自分だけでなく、誰もがそうだと考えておくのがいいと思います。
終りがないというのは、辛いことですが、そんな苦難の時代も終わる時が来ることを聖書は約束します。それは「人の子」すなわち、主イエス・キリストが、大いなる力と栄光を帯びて来られたとき、神の国が成るときです。そのときには、天地は滅びるのです。今、わたしたちが目に見えているもの、すべてのものは過ぎ去ってしまうのです。
聖書は「天地創造」で始まっています。無からの創造を語ります。この世にあるすべてのものは、造られたのです。造られたものである限り、いつかは滅びます。なくなるはずがないと思っていたものでも、なくなってしまう時が来るのです。
では、何もかもなくなってしまうのかと言えば、そうではなく、滅びないものがあるのです。イエス様は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。
イザヤ書40章8節の「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」を思い起こします。自然界のすべて、わたしたちの命もすべて過ぎ行く存在だけれども、すべてのものを造られた神の言葉が滅びることはないという。捕囚の民は、神の言葉に支えられてきました。イザヤの言う「神の言葉」をイエス様は「わたしの言葉」と宣言されました。ご自身を「人の子」と呼ばれたイエス様が、神の子であるのだとここで宣言したことになります。
ヨハネによる福音書の終わり20章21節には、本書が書かれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書かれてあります。これはヨハネに限らず聖書が書かれた目的です。そのヨハネ福音書の冒頭は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」です。ヨハネのプロローグと呼ばれていますが、1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、神の言葉が人として受肉したことを語ります。
ですから、「わたしの言葉は決して滅びない」というのは、イエス様ご自身が滅びることはないという宣言となります。クリスマスの讃美歌の歌詞にあるとおり、イエス様は「とこしえなる神の言葉」です。「アルファ、オメガ、永遠の主」です。教会は永遠なる神の言葉に養われる群れです。この言葉を命の言葉と信じて生きる者は、天地が滅びても、決して滅びることはないのです。
イエス様は、終末の救いをずっと語ってきましたが、今の33節で終わってもよいと思うのですが、なお続きます。それは、世の終わりに裁かれるのではなく、救われるために何をしなければならないのかという念押しのようなものです。34節から36節で、イエス様は二つの勧告をしています。一つが「心が鈍くならないように注意しなさい」、もう一つが「いつも目を覚まして祈りなさい」。この二つです。
一つ目「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と勧告した理由何でしょうか。「さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」と言われているように、そんな裁きに襲われたら、誰も耐えることができないからです。天地と共に滅んでしまいます。
ここに二度出てくる「その日」とは、主が再び来られる日のことです。その日は、これまでもお話ししてきたように、神の国が成る日であり、完全な救いの日となります。けれども、その日に対する備えを怠ってしまったらどうなってしまうか。備えを怠るのは、決して滅びることのない神の言葉より、目に見える現実の苦難に心を奪われてしまうからです。人は生きていてなんぼのもの。忍耐することよりも、好き勝手に遊んだり、お酒に酔って目に前の苦難から逃避したりしようとします。ある人は、思い煩いで心が塞がれてしまう。かつてイエス様から教えられたこと「明日のことで思い悩むな。ただ神の国と神の義を求めなさい」と言われたことを、すっかり忘れて、思い煩いに心が塞がれてしまう。そうならないために、「心が鈍くならないように注意しなさい」と言われるのです。
そしてもう一つが、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」という勧告です。イエス様は、しばしば「目を覚ましていなさい」と言われました。再臨の主を待つ備えとして、もっとも的確な言葉です。あるいは、ゲツセマネの祈りでも、連れてきた弟子たちに「目を覚ましていなさい」と言われました。弟子たちは肉の弱さのゆえに眠りこけてしまいましたが、眠ってしまったのは、肉の弱さだけでなく、霊の弱さでもあるともいえます。なぜなら、「目を覚ましていること」は、多くの場合「祈ること」と結びついているからです。
37節に「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた」と書かれてあります。このオリーブ畑と呼ばれる山にあるのがゲツセマネです。ルカによる福音書22章39節以下にあるオリーブ山の祈りを読むと、そのことが分かります。イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われましたが、弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのは、誘惑に陥ってしまったからです。眠りこんでしまった弟子たちに向かって、イエス様は「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われて、裏切りの記事へと続いていきます。ルカによる福音書は、今日の箇所が終わると、受難物語へと入っていくのです。
イエス様は、このようにして、終わりの日への備えを語りました。説教題を「神の言葉と祈りに生きる」としたのは、今日のテキストの中心聖句を33節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」。36節の「いつも目を覚まして祈りなさい」から取ったことですが、御言葉と祈りは、わたしたちの信仰生活にとって欠かすことができないことだからです。
主に救われたと言っても、聖書を読まない、祈ることもない、という信仰生活を続けていたら、誘惑に弱いわたしたちは、たちまちこの世の子に戻ってしまいます。だいいち、それでは「信仰生活」とは言えなくなってしまいます。そうは言っても、ウイークデーの生活の中で、毎日聖書を読み、祈りに励む生活を続けるのも簡単ではないことを、わたしたちは知っています。この世の生活の方を優先させてしまうのです。優先させるも何も、そればかりになってしまいかねません。
そんな弱さを抱えるわたしたちを、神は礼拝に呼んでくださっています。この礼拝の中心にあるのは、決して滅びることのない神の言葉です。教会の交わりというと信徒同士の交わりのことを考えるでしょうが、その前提にあるものが神との交わりです。わたしたちはこの礼拝において、決して滅びることのない神の言葉に結び合わされ、そして祈りによって神と交わります。教会の交わりは、神との交わりなしにはなりたたないのです。御言葉に聞くこと、祈ることの少ないわたしたちが、週の初めに共に神との交わる時が与えられる時間を大切にしていただきたいと願っています。
主がいつ来られるのかは誰にもわかりません。そんなわたしたちは、自分の命が終わることは分かっていますが、「天地は滅びる」という御言葉に逆らうように、この世は何となく続いていくように思っているところがあります。つまり、主が来られる前に自分は死んでいる。主の昇天から2千年経っても主が来られないように、わたしたちが生きている間に主が来られることはないと決めつけてしまっているところがあるように思います。だから、主の再臨と聞いても、今の自分と直接関係がないので、この命も遠ざけてしまっているのではないでしょうか。
しかし、使徒信条で告白されているように、「主は、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」お方です。それは、わたしたちがこの世の命を終えたときに、まるで閻魔大王に天国に行くか、地獄に行くかの判決を受けるような話ではありません。そうではなくて、主が来られるときに、わたしたちがそ生きていたとしても、きっとそうであるように死んでいたとしても、かしより来られる主の裁きの座に立たされる時が来るのです。それは御言葉によって何度も確認してきたように、恐れることではなく、義の判決を受けることです。「あなたの罪は赦された」と、救いの裁きをいただけることを確信するためにも、わたしたちは目を覚まして祈っていくことができているかどうかが。問われています。
そのように生きることができる人は、宗教改革者マルチン・ルターの言葉とされている「たとえ明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」という生き方ができるようになるのです。気をつけたいことは、ルターは、たとえ明日、自分が死んだとしてもということではなくて、「たとえ明日が世界の終わりの日であっても」と言っていることです。そこには神に対する徹底的な信頼があります。明日、天地が滅びようとも、特別なことは何もしない、恐れることなく、慌てることもなく、自分が普段していることを今日も行う。それが信仰者の生き方です。この世界を終わらす方が誰であるのかを明確に心得ているからできることです。明日のことで思い悩むことなく、ただ神の国と神の義を求めて生きていくのです。そのために、わたしたちは、神の言葉と祈りに生きていくのです。