聖書  詩編89編6~8節 ヘブライ人への手紙10章19~25節
説教 「励まし合うために集められ」田口博之牧師

今日は本来であれば、全体集会を行う予定でした。先月末で申込み用紙に30数名の氏名が記されているのを見ました。今年の1月に発行された「名古屋教会史―100年史以降35年の歩み」を参照して、教会の歩みを振り返り、教会の将来について考えるというものでしたが、大きなテーマは教会です。今日は、全体集会の前提になるものをお話しようと説教の主題を考えていました。

皆さんは、「教会とはどういうところなのか」、「教会はいったい何をするところなのか」。そう問われたらどのように答えられるでしょうか。あらためて問われると答えに困るかもしれませんが、実はその答えは明確です。皆さんの椅子のところの状差しに日本基督教団信仰告白を印刷、ラミネートしたものが入っていると思います。これを見ていくと、第4段落に、「教会は」で始まる段落を見つけることができます。そこに「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」という言葉が出てきます。「教会はどういうところなのか」が、この言葉により明確に語られています。それに続く、「教会は公の礼拝を守り」以下については、「教会は何をするところなのか」が語られている。そのように理解していただければいいことです。公の礼拝において、福音が正しく宣べ伝えられ、聖礼典が行われます。

では「教会はどういうところなのか」に戻ると、「教会は主キリストの体にして」と最初に書かれてあります。昨年度は「キリストの体なる共同体」という年度標語のもと歩みました。これを主題とした説教も行いました。ところが次に出てくる「恵みにより召されたる者の集いなり」については、「恵みにより召された」ということについての説教はしましたが、「集いなり」について、十分に語ることができませんでした。コロナの中でも公の礼拝は何とか続けたものの「集い」を持つことが妨げられた状態の中で、何を語ればよいかが見えてこなかったからです。今日も全体集会を持つことができませんし、礼拝に集うということがどういうことなのかが問われています。

その問いに対する答えを探すにあたってたいせつなことは、変わり得る状況に照らして考えるのではなく、普遍的な聖書の言葉を通して考えるということです。旧約聖書の詩編89編6~8節を読みましたが、6節に「集会」、8節に「集い」という言葉が出てきます。それぞれに「聖なるもの」という言葉がかかっています。紀元前6世紀、ユダヤの国が滅び、ユダヤ人が聖なるものとしていたエルサレム神殿は破壊されました。バビロンに捕囚されたユダヤ人は、宗教的な危機を克服するため律法を学ぶ集いを持つようになりました。捕囚地では、預言者エゼキエルが指導的な役割を果たします。ペルシャ王キュロスの勅令により解放されたユダヤ人は、神殿を再建しますが、ユダヤ人は祭儀中心の神殿での集まりを十分とせず、律法を朗読し祈るための集いを重んじるようになり、各地でシナゴーグと呼ばれる集会所ができたのです。

詩編86編において、主の真実が告白されるのが聖なるものの集会、神を恐れ敬うところが聖なるものの集いと歌われていることは重要です。ユダヤ教はキリスト教会のルーツです。わたしたちの信仰が、集まることで成立する共同体の信仰であることを表しています。ここを見失うと、教会の信仰を共同体でなく、個として考えるとおかしなことになります。

一人で聖書を読むこと、密室での祈りは大切です。しかし、そこで満足してしまうとどうなるのか。集まって礼拝するよりも、一人で礼拝したほうが聖なるものに近づいている、霊性が高まる、そんな思いになることがあります。たまに礼拝に出て説教を聞いても言葉が素通りしていく、周りを見ても何のために教会に来ているのかと思えたりする。いちどそう思いはじめると、礼拝に出なくてもお祈りはしているし、一人で聖書を読んでいた方がいい、そういうことが起こりうるのです。それでは信仰の共同体性が失われます。神様ではなく人を見てしまうと、そういうことになってしまうのです。

教会の集いは、ただ人間同士の集いではありません。「恵みにより召されたる者の集い」です。わたしたちが教会に集まる根拠は、集まるわたしたちの思いが先にあるのではなく、わたしたちが主の恵みにより召されたる者であるからです。召すという言葉は呼ぶという言葉です。主がわたしたちを呼び集めてくださっている。

パウロ書簡を読むと、初めに挨拶があり、そこで「聖なる者たちへ」という呼びかけがあります。ローマの信徒への手紙であれば、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」、コリントの信徒への手紙一であれば、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」宛てています。これはわたしたちが聖なる者だからでなく、わたしたちを召してくださる神様が聖なるお方だからです。「聖なるかな」と呼ばれるお方が招かれるところに聖なるものの集いが成立します。

ヘブライ人への手紙10章19~25節を読みました。あらためて、19節から22節迄朗読します。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」

著者は22節で「真心から神に近づこうではありませんか」と呼びかけます。今日のテキストの中心聖句といえます。このように呼びかけているということは、手紙を受け取った人々は神に近づくことに積極的ではなかったということです。ヘブライ人への手紙の受け取り手は、キリスト教への改宗者でしたが、再びユダヤ教に戻ろうとしていた人々だと考えられます。礼拝から離れようとしていたのです。

25節に「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず」とあります。これは、教会に集まらないことが習慣化していた人たちがいたことを表しています。ヘブライ人への手紙の研究者たちは、手紙というよりも説教ではないかと言っています。礼拝で語られた説教の言葉が、手紙という形で残され回されたというのです。わたしが礼拝で語る説教の原稿を、ご自分の手紙と一緒に同封される方がおられるように。

ヘブライ人への手紙の著者、いや説教者と呼ぶほうがよいでしょうか、「神に近づこうではありませんか」と呼びかけています。遠いところにおられる神を指さすようにして「近づこう」と勧めたのではありません。説教者はすでに神に近づいています。説教を聞く人に「もっと近くに寄ってごらん、神に出会えるから」そういう語りをしていたのです。

19節に「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」とあります。そう確信できることを、ここまでのところでずっと語ってきたのです。19節冒頭の「それで」という言葉は、「こういうわけで」と訳すこともできます。そう確信できる根拠となる言葉の一つに、9章22節の「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」があります。罪ある人間は、自らの努力、正しさによっては、聖所に入ることも神に近づくこともできません。主が十字架で肉を裂かれ血を流されたことで、わたしたちの罪が赦され、神に近づけるのです。

旧約の時代、人々が直接神に近づくことはできませんでした。祭司が神と人との間に入って、人々が携えてきた小羊などを犠牲として献げることで、その人の罪が赦されるよう執り成しをしました。ところがイエス様は「偉大な大祭司」として、ご自身が世の罪を取り除く小羊として犠牲となり、肉を裂かれ血を流されたことで、わたしたちの罪を赦し、が神に出会える道を開いてくださったのです。20節に「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」とあるとおりです。この言葉は、マタイが、イエス様が十字架で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで二つに裂けたことを伝えていることと響きあっています。

わたしたちはコロナ下にあっても公の礼拝を行っています。それは名古屋教会がそのようにしようと、長老会で判断したから行っているのではありません。結果はそうであるとしても、その前提になることがあるのです。それは、神がご自身の命を捨てるという驚くべき行為によって、わたしたちに神に近づく道、礼拝への道を開いてくださったことです。神が開いてくださった命の道を、長老会の判断で閉じることはできないことなのです。

今、どのような形で礼拝を行うのか、それぞれの教会で悩んで考えて祈って判断をしています。オンラインといっても、LINE、YouTube、Facebook、Zoomなど様々です。大事なことは、わたしたちはこう考えるというところから出発するのでなく、礼拝への道は神が開いてくださったものであるということです。

その上でもう一つ考えたいことは、「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり、教会は公の礼拝を守り」と言われていることの順序です。つまり、わたしたちは、「教会に行く、教会に集まって、そこで礼拝する」そういう順序で考えるだろうと思いますが、そうではなく、キリストの体の部分であるわたしたちが、神に呼び集められたところに教会があるのです。何だか鶏が先か卵が先かのような話に聞こえるかもしれませんが、これはたいせつなことです。

確かにわたしたちは、大津橋というところにある名古屋教会に集められていますが、それはわたしたちがここに集まり、公の礼拝をするにふさわしい場所として整えられているからです。礼拝は一人でも成立するかという議論がありますが、一人では成立することはありません。礼拝だけでなく教会の集会もそうです。

わたしは過去に、祈祷会に誰も来なかったという経験をしたことがあります。一人でも聖書を読み祈りはしましたが、統計は0としました。教会という場所に来た人数でいえば1と書くことはできますが、一人では集ったとはいえない、集会が行われたとはいえないからです。イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。それは、一人のところにはいない、という意味ではなく、二人または三人が集会を成立させる最小の数だからです。

さて、説教者は、「真心から神に近づこうではありませんか」と言ったあとで、23節以下です。「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と勧めました。

ここを読むと、日本基督教団信仰告白で、教会は何をするとことろかを語るところの、「愛の業に励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」と響きあっていることを思います。これも個人というよりも、教会共同体としての信仰を言い表わしています。二つの間に「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」という言葉が挟まれています。一人では励まし合うことはできません。励まし合うことがなければ、愛は冷えてしまいます。他者との関りが薄れ、信仰が内面化してしまうからです。また、どれだけ神を信じていると言っても、互いに励まし合うことなしに主を待ち望む信仰を燃え立たすことはできないのです。

昨日、さふらん会の法人研修をオンラインで行いました。理事長として公には初仕事でした。実は、さふらん会内部の研修と思っていたのですが、他に三つの社会福祉法人も参加することを直前になって知りました。さふらん会のこともまだ十分に分かっていない状態で、何を話せばよいのかと焦りましたが導かれました。研修会でそれぞれの法人の取り組みを知って、また職員が喜びと志とをもって福祉の仕事をしている姿を見て大いに励まされました。オンラインという形でしたが、だからこそマスクを取った顔を見ることができましたし、オンラインであっても、人間というのは集まって、語り合ってこそ、励まされることを実感しました。

とくにここでは教会で行われる集会の励ましを語っています。「励ます」というギリシャ語は「パラカレオー」という言葉で、聖霊について、弁護者、慰め主を意味するパラクレートスの動詞形です。わたしたちが神に近づくよりも先に、神がわたしたちを励まそうと傍らにいてくださっています。

以前のように大勢で集まる、集会を持つことは難しくなってきています。教会のかたちが問われています。コロナの問題がなかったとして、集まることのできない会員が増えてきています。わたしたちはその方たちに代わって集められました。こうした状況で教会は何をすべきか、どうあるべきか。全体集会は4か月後に延期となりましたが、これも神が与えられた備えの時ととらえ、二人、三人が集まったところで共に考えていきたい。それが御言葉に応答するということです。そのような交わりをとおしてわたしたちは励まされ、神に近づいていくのです。