詩編30編9~13節 ルカによる福音書18章9~14節
「神のみ前に立つ祈り」
ルカによる福音書は、18章1節から8節、そして9節から14節と、祈りに関する教えが続きます。二つともルカによる福音書にしか出てこない記事です。その意味では、先週は共観表を作ってお示しした15節以下とは対照的です。
祈りについての教えが続くということで、1節から14節は、第一部、第二部という形で、取り上げられる場合が多いです。けれども、そうばかりとは言えない気もするのです。前者については、1節で「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とあるように、明らかに祈りに関する教えです。しかも、すべての人を対象にした祈りについての普遍的な教えだといえます。
ところが、今日のテキストの9節以下については、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」とあるとおり、語る相手がはっきりしています。このたとえには、ファリサイ派の人と徴税人の二人が出てきますが、ファリサイ派の人がターゲットになっていることは、今日のテキストを読めば明らかです。ファリサイ派の人の祈りにはうぬぼれがあります。他人を見下しています。
14節は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」で結ばれています。義とされた「この人」とは、ただ神の憐れみを求めるしかなかった徴税人であり、高慢なファリサイ派の人は裁かれています。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」で終わりますから、祈りについての教えというよりも、謙遜であることを勧める道徳的な教訓が語られていると読むことができます。
また「義とされて家に帰る」という言葉から、「神の裁き」がテーマになっていると読むこともできます。このことは7節では、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と言われたこととの連続性があります。自分を正しい者として生きている人でなく、自分は罪人だと自覚し、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神の憐れみにすがるしかない者、神は豊かな憐れみをもって救ってくださるのです。
そのように言ってしまえば、今日の説教は、これでまとまってしまったとも言えます。でも、そうであれば、先週の子どものための説教に続いて、このことを言って終えればよかったことになってしまいます。あえて順序を逆にしたのは、もう少し時間をかけて、この聖書テキストに向き合いたいと思ったからです。
まず思うことは、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」ということですが、わたしたちは自分を、どちらに身を置くかと問われれば、ファリサイ派の人だとは思わないでしょう。
たとえ話の説教するときにたびたび言うことですけれども、聖書を理解するうえで助けになるのは、この話はいったい誰に向けて語られているのかということです。すでに述べたことですが、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあるように、このたとえに登場するファリサイ派の人が、まさにそうだと言えます。
ファリサイ派の人は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈っています。わたしたちは、そんな感謝はしないでしょうし、ファリサイ派の人が言ったように、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分を誇らしくアピールするような祈りもしないと思います。こんな祈りは祈りとはいえない。そういう感性を、わたしたちは持っているだろうと思います。イエス様が、この祈りを喜ばれなかったのも当然だろうと思います。
では、わたしたちはファリサイ派の人のようではない。そう言い切ってしまうと、このたとえ話は、自分とは関係のない話となってしまいます。確かにわたしたちは、ファリサイ派の人たちのような熱心さも、正しさも持ち合わせていません。でももし、持ち合わせていたとすれば、ファリサイ派の人々と同じような祈りをしないと、言い切れるでしょうか。
しかも、わたしたちは、ファリサイ派の人の祈りに対して批判的な思いを持っていますが、彼らはこのような祈りを、堂々と人前で口にしたのではないのです。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った」とあるように、イエス様が、彼らの心の内の思いを見抜かれたことが、ここで語られているのです。
わたしたちは、ファリサイ派の人のような信仰に生きていなくても、人を見下すことはあります。祈りの言葉に出さなくても、心の内に思うことはあると思うのです。いや、実際に口にすることさえ、あるのではないではないでしょうか。そういう思いをもってこのテキストに向き合えば、この御言葉から、これまでとは違う響きが聞こえてくるはずです。
この「ファリサイ」という言葉についてですが、字義的には「分離した者」という意味です。それは、律法を守れない人と自らを分離するということですが、誰もが律法を守れる生活ができていないのですから、ファリサイ派の人々というのは、通常の生活行動からも自分を分離させてということです。彼らは決して悪人ではありません。むしろ、立派な人たちだと言えます。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言っています。そういう生活は、なかなか出来ることではありません。口だけではなく、実際にそのように生きてきたのです。「ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない」からこそ、できたことであり、できたことへの感謝の応答として、週に二度の断食も十分の一献金もすることができたのです。イエス様は、そんな彼らの心の中を読まれたのです。
いつだったか、ある牧師と話をしていたときに、「人は祈りのときにも罪を犯す」と言われました。祈りは神との対話ですが、周りにいる人の耳を、どうしても意識してしまうことがあります。わたし自身も自分の祈りを振り返ったときに、飾った言葉を捜してしまうときがあります。祈りの言葉の貧しさに落ち込むときもあります。そう思う時は、この祈りを聞く人の耳を意識しています。にもかかわらず、わたしたちは、祈りのときに高慢になることさえあります。自分の祈りは棚に上げて、人の祈りに批判的になることはないでしょうか。
そう考えながら、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」という言葉を聞き直すと、ファリサイ派の人に語られたのではなく、わたしのために語られたことが分かってきます。ファリサイ派の人は、たとえ話に登場しているのであって、問われているのは、わたしたちの中にあるファリサイ派的根性と言ってもよいのではないでしょうか。
では、わたしたちのどこに、ファリサイ派的根性が現わされるでしょう。これは、ファリサイ派の人と徴税人の祈りを比較することをとおして、主に二つのことが見えてきます。一つには、祈る時に誰を見ているかということです。二人の祈りの違いはそこにあります。ファリサイ派の人は、他の人、具体的には徴税人との比較で自分の正しさを見つめています。「この徴税人のような者でもないことを感謝します」という感謝は、人のマイナス部分を見ることでしか、自分のプラス部分を見出すことしかできないということです。こういうことは、わたしたちが、よく陥る問題ではないでしょうか。
自分の子がテストでいい点を取って帰ってきたときに、よく出来たことを褒めるよりも、他の子はどうだったかとか、平均点を尋ねるようなことをしたことがあります。周りの子がどうかという相対的な評価は二次的なことです。でも、わたしたちの社会は、絶対評価よりも相対評価で人生が決まっていくことがある。
しかし、信仰においては、相対的ということはないはずです。ファリサイ派の人は律法に真剣に向き合っていました。それは相対的なことではなく、絶対者なる神と向き合うことでの評価であるはずです。ところが彼は周りと比べて、自分を安全地帯に置くことしかでの評価しかできなかったです。そこには律法の義の限界があります。
他方、徴税人はユダヤの一般市民からも罪人扱いされていました。しかし、この徴税人は、人からどう思われているから自分はダメだと言うのではなくて、絶対者なる神の目から見て罪人である自分を見つめて、憐れみを求めたのです。そこには相対的な見方はありません。この徴税人が、神殿の遠くに立ったのは、誰かと比べてではなく、みもとに近づくにはふさわしくないと思ったからに他なりません。
二つ目は、祈りの主語は何かという点です。ファリサイ派の人は、わたしは他の人のようではありません、わたしはこのようにしています。と言うように、「わたし」を主語としています。自分の正しさを主張することで、評価されることを求めています。認めてもらいたいと思うことは、わたしたちにもあるでしょう。でも、それではどこまでも「わたし」を主語とした、自己主張をしているに過ぎないのです。14節の言葉でいえば、「高ぶる者」となっています。
一方の徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言うように「わたしは」ではなく「わたしを」なのです。主語はわたしではなく神様です。徴税人にとって大事なのは、自分が何をするのかでなく、神がわたしをどのように見て、何をしてくださるのか。それは、イエス様がわたしのために何をしてくださったのかを見つめることに通じます。十字架にかかってくださったイエス様に目を注ぐときに、そのことが分かってきます。
詩編30編の詩人も、「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います」、「主よ、耳を傾け、わたしを憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください」と言ったように、ただ神の憐れみを求めるしかありませんでした。ミサ曲の冒頭に出てくる「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」。自分では何もできない。ただ、主の憐れみによりすがるしかない。ほんとうの謙虚さというのは、その人の道徳心ではなく、自分は何もできない。ただ、主によりすがるしか生きるすべがない、そこから生まれるのではないでしょうか。
自分の正しさを神に認めさせようとしていたファリサイ派の人は、神に感謝することで、表面上は祈りの体制を整えていましたが、自分の惨めさに気付かず、神の憐れみを必要としていません。それは、ほんとの祈りと呼ぶことはできないのです。
一方で徴税人は、ひたすらに神の憐れみを受け入れるしかなかった。罪人であるわたしを赦してくださる神を求めるしかなかったのです。その祈りを神は聞いてくださいました。義としてくださった。喜んで受け入れてくださったのです。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」で、このたとえ話は結ばれています。
わたしたちは、ファリサイ派のように祈ることはなかったとしても、自分が上に立てる他者と比較して安心するような、ファリサイ派的なこころを持っています。「神よ、わたしはこのファリサイ派の人のような人でないことを感謝します』そんな愚かな虚栄心を持っています。身を低くしながら、高い座に座す誰かをファリサイ的だと批判するのです。ファリサイ派の人々を見下げて生きる徴税人になってしまうことはないでしょうか。このたとえ話は、わたしたちに様々なことを語りかけています。
わたしたちが携えるべき祈りは、「主よ、憐れみたまえ」。それしかないのではないでしょうか。そうでなければ、絶対者である神の前に立つことはできません。礼拝とは、ひとえにそのような時なのです。そのようにしてわたしたちは、義とされて、それぞれの家に帰って行くのです。