聖書 ルカによる福音書12章22~34節
説教 「思い悩むより先に」田口博之牧師
あらためてルカによる福音書12章22~34節を朗読していただきました。子どものための説教を深めるかたちで、共に御言葉に聴きたいと思うのですが、この御言葉の要点は、子ども礼拝で最後に取り上げた渡辺和子シスターの言葉、そして讃美歌58番の歌詞に言い表されているといってよいのです。
イエス様は言われます。「どんなにちいさい ことりでも かみさまは そだててくださる」、「なまえもしらない 野のはなも かみさまは さかせてくださる」、「よいこになれない わたしでも、 かみさまは あいしてくださる」と。この詩を作った菅千代さんは仙台北教会幼稚園の園長をされた方でした。この幼稚園を卒業した子どもたちは、幼稚園を思い出すたびにこの讃美歌を口ずさんでいるのではないでしょうか。
1年位前に読んだ朝日の記事に、日本の童謡の4分の1以上が花鳥風月で始まることが調査結果が出ていました。「ゆうやけこやけの あかとんぼ」、「うさぎおいし かのやま」、「さくらさくら やよひのそらは」。など。日本の童謡、唱歌には、四季折々の自然豊かな情景を歌う曲が多いのです。
イスラエルも旧約の舞台は荒れ地が多いのですが、イエス様が伝道したガリラヤは自然豊かな地で、イスラエル旅行に行かれた方でもう一度行くとしたらどこにと問われれば、ガリラヤと答えられる方も多いのではないでしょうか。日本の原風景に通じるところもあります。
イエス様は自然を愛された方でした。今日の聖書箇所でも、空の鳥の中でも、とても貴重だとはいえない。律法では汚れているとされ、現実に嫌われものであるカラスを見つめています。そういえば日本にも「からすなぜ鳴くの からすは山に」という童謡もあります。都会にいるとゴミをあさるやっかいな鳥ですが、もともとは自然に溶け込み、嫌われる鳥ではなかったのかもしれません。
一般的に烏は賢いとも言われますが、イエス様は「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない」と言われました。ないない尽くしです。イエス様はカラスの持つ賢さではなく、何も持たないところを見られた上で、「だが、神は烏を養ってくださる」と言われるのです。
野の花について、かつては「野のゆり」と訳されていました。今は先ほど紹介したように、アザミやアネモネの類ではないかと言われていますが、百合のような麗しさはありません。こちらもないない尽くしで「働きもせず紡ぎもしない」と言われています。しかし、「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる」とあります。人の目から見て、ありきたりで、捨てられるときに誰も惜しいとは思わない草花でさえ、神は装ってくださっているというのです。
今日のテキストに「思い悩むな」という言葉が繰り返し出てきます。生きていくには悩みはつきものですが、「思い悩み」にとらわれるのは現代病ともいえます。皆さんもご自身がそうですし、悩める人と接することも多いです。カウンセリングでは、その人が何に思い悩み、生き辛さを抱えているのかを聴くことを第一とするでしょう。一方、より積極的に問題解決型のカウンセリングという手法を取る場合には、思い悩みを解決する仕方を提供できるよう導こうとするでしょう。いや、そうではなくて、共感することに重きをおくならば、思い悩んでしまうその人の気質ごと受け入れて、「思い悩んでもいいんだよ、思い悩むっていうことは生きている証拠」そんな励まし方を考えるかもしれません。
わたしもそのような相談を受けることがあります。話はお聞きしますが、わたしはカウンセリングのプロでも精神科医でもないし、キリスト教の牧師としての立場でお聞きしますと前もって断りを入れます。それはどういうことかといえば、その方は望んでおられないかもしれないけれど、ここで話をしている間に、この傍らに神様がいてくださる。イエス様なら、この悩み、この状況をどうとらえられるだろうかと考えます。はっきりしていることは、イエス様は「聞きっぱなし」にはされないということです。思い悩む人に対しては、一つの結論をもっています。ここでは、実に明確に「思い悩むな」と言われるのです。
なぜ、そう言えるのでしょうか。生き物の話をしましたが、わたしはペットを飼ったことがないので、犬や猫が思い悩むかどうかを知りませせん。喜怒哀楽はあると思いますが、本能で行動する限り、思い悩んでいる暇はないように思います。飼われていれば、食事も与えられることを知っているので、「何を食べようか」と考える必要もないでしょう。ペットを飼っている方は、限りない愛情を込めて育てていると思います。死んでしまったら、悲しみに塞がれてしまい、思い出すたびに涙も出てきます。しかし、神様のわたしたちに対する愛は、ペットに対する愛情とは比較になりません。どれほどペットを愛していても、そこには自分への慰めもあるはずです。すなわちアガペーではないのです。
アガペーの愛とは、自己犠牲の愛です。御独り子の命を賜うほどの愛です。「神さまは、そのひとり子を 世の中にくださったほど、世の人を愛されました」との讃美歌を心の中で歌いました。三位一体の神ですので自己犠牲です。「神の子を 信じる者が、新しい 命を受けて、いつまでも生きるためです」と、自らの命を捨てて、わたしたちを永遠の命へ生かそうとする愛が歌われています。それほどに尊い存在として、わたしたちを見ていてくださっています。
それほど愛されているにも関わらず、わたしたちは神を見ることなく、人ばかり見てしまいます。周りの人と比べて自分にはあれが足りない、これが足りないと嘆き、思い悩みに塞がれてしまう。こんな自分なんか生きている価値がないのではとさえ思う。では、足りないと思っていたものが満たされたら、思い悩みはなくなるのでしょうか。生きる勇気が湧いてくるのでしょうか。確かに一時の解決にはなるでしょうが、満たされたことになるのでしょうか。
本当の問題は、自分にはあれがない、これがないということではないのです。何も持たない、ないない尽くしの烏や草花を神は養い装ってくださっています。いちばんの問題は、自分が何も持っていないということではなく、神様を見失っていることにあるのです。だからイエスは「信仰の薄い者たちよ」と言われるのです。あなたがたは、人ばかりを見て、神を見失っているのではないか。だから思い悩んでしまっているのではないかと。
「思い悩むな」だと言いました。それだけではあまりにぶっきらぼうですが、イエス様は、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と配慮をもって伝えています。その上で「ただ、神の国を求めなさい」と言われるのです。「神の国」とは、「神の支配」であると言われます。色んなものを求めるとき、わたしたちが支配者になっています。「何を食べ、何を飲もうか」を考えるということもそうです。そんなわたしたちに、イエス様は「ただ、神の国を求めなさい」と言われるのです。神の支配を受けなさい。神にお委ねしなさいと言われる。
しかも、神はただ「求めなさい」と言わるのではなく、「与える」と約束してくださっています。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と。「神の国を求めなさい。そうすれば与えられる」と言われるのです。
今日のテキスト「思い悩むな」の教えは、ルカよりもマタイ6章の方が有名です。ガリラヤ湖を見下ろす自然豊かな山の上で、イエス様が空の鳥や野の花を指さしながら語られた。情景がぴったりくるのです。でも、ルカの場合、舞台はガリラヤ湖ではありません。エルサレムへ向かう途上です。実際に道端のカラスや雑草を見ながら語られたのかもしれません。「見なさい」ではなく、「考えてみなさい」と言われるのですから、この礼拝堂のように自然とは離れたところで語られたのかもしれません。
そして、ここにはマタイの6章では出て来ない言葉があります。それが、今読んだ32節「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」です。並行記事のある福音書は、違いのあるところを見つけると、主題が浮かび上がってくることがありますので、この聖句が主題だと捉えてもよいかもしれません。
読み返すいとまはありませんが、ルカ12章全体の主題が「恐れるな」なのです。弟子たちはまだピンと来ていませんが、イエス様の受難の陰が色濃くなってきています。そしてこの段落では、22節に「弟子たちに言われた」とあるように、「弟子たち」に特化して語られています。それは、この礼拝に集められているわたしたち、教会に与えられた言葉だと捉えていいのです。そして、ここでは「小さな群れよ、恐れるな」と語られている。
教会はとても小さな群れです。以前の教会の百年史が大量に出てきましたが、大教会と呼べる頃に編纂されましたが、今は35年前と比べると教状は半分位になっています。足りないものを数えはじると、教会はどうなっていくのかと思い悩みもするし、恐れも広がります。
コロナへの恐れがあります。この状態がいつまで続くのかと不安になります。こんなときに礼拝に集まることがいいのか、という悩みも出てきます。礼拝から感染者が出てしまったら、どうすればよいのか。教会は舟にもたとえられますが、嵐の中で右往左往するように、わたしたちは揺さぶられています。イエス様はそんなわたしたちに向かって、思い悩むより先に、神が養い守ってくださることに目を注ぎなさいと言われるのです。恐れるより先に「神の国を求めなさい」と言われるのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」からと。それは渡辺和子さんの言葉でいえば「悩みに対する心の持ちようを変えてみれば、たとえ悩みは消えなくても、勇気が芽生える」ことだと言えます。
イエス様は「父なる神」のことを「あなたがたの父」と呼んでくださいます。自分なんて生きる価値もない。孤独に生きている人に向って、あなたは一人ではない、神様の子どもなのだと。わたしたちは、当てのない約束ではなく、確かな約束を与えられた者として祈ることが許されているのです。「天にまします我らの父よ」・・・「御国を来たらせたまえ」と