聖書  マルコによる福音書8章36~37節
説教  「人は、たとえ全世界を手に入れても」田口博之牧師

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」そうイエス様は問いかけています。皆さんであれば、この問いかけにどう答えるでしょうか。

当たり前といえば、当たり前のことのように思います。「全世界を手に入れる」とは大袈裟な話に聞こえますけれども、自分が手に入れたいと思うもののすべて、あるいは願っていた以上のものを手に入れたということだと思います。そんなことがあれば、この上ない幸せを手に入れたと思えますが、手に入れた途端に死んでしまったとすれば、それは意味をなさないことになります。

イエス様は、そんな簡単な問いを出されたのでしょうか。もう一つ、皆さんは「何の得があろうか」という言葉に違和感を持つことはないでしょうか。信仰を損得の問題と考えるのはどうなのかという思いを持たないでしょうか。キリスト教信仰は、信じたらこんなにいいことがあるという、ご利益信仰ではないからです。もし田口牧師が、神を信じた人の成功体験のような話ばかりを持ち出して、信じたらこんなにいいことがありますよという説教をすれば、何かおかしいと思われるのではないでしょうか。しかし一方で、信仰をもったからといって特別に良いことがあるわけではない、そんな話ばかりしていたら、信じても意味はないのではと思うのではないでしょうか。

2007年ですから、もう16年前のことですが、「パワー・フォー・リビング」という書籍が教会に配られたことがありました。アメリカのアーサー・S・デモス財団というところが発行し、テレビや新聞でも大々的に宣伝されました。その広告宣伝や、まとまった数の本が各教会に配られたことで、記憶のある方がおられると思います。「パワー・フォー・リビング」には、以前に久保田早紀の名でヒット曲を出した久米小百合さん、前年パリーグで優勝した日本ハムのヒルマン監督ら8人のクリスチャンの有名人の成功体験が綴られています。

ところが、地区内のある牧師が、この本を新来者向けに配っているということを「愛知西地区ニュース」に書いたことに対しクレームをつけた教師が二人いました。2007年と思えているのは、その問題を治めることが、地区会長となったわたしの最初の仕事だったからでした。ではなぜクレームがついたのか。一人の牧師の主張は、成功体験を証しるようなものは、わたしたちの信仰とは違うのではないかというものでした。また、もう一人の教師の問題提起は、巨額なお金を投資してまで、この本をPRしている発行団体の危うさを指摘するものでした。

わたしも問題を感じないわけではありませんでしたが、内容に関して言えば、そこに書かれた成功体験は、神様を信じたから大ヒット曲が出たとか、優勝できたということではありませんでした。久米小百合さんであれば、ポップスを歌いスポットライトを浴びた華やかなステージよりも、天井灯しかない静かな礼拝堂で讃美歌を歌うことの喜び。「私を見て、私を聴いて」という世界から、「私の背後にあるものを見て、聴いて、感じてほしい」という願いへと、キリストによって変えられていった体験を綴ったのです。その意味で、ご利益信仰を語っているのではありません。むしろ、全世界を手に入れるよりも、素晴らしいものにわたしは出会ったという証なのです。

歌手にとって大ヒット曲を出す、スターになるということは、今日の御言葉に照らせば、「全世界を手に入れた」ことに匹敵します。そうであるにもかかわらす、華々しい舞台から身を退いた。信仰によってそうしたのです。人間的な損得勘定でいえば、損なことにように思えます。でも、歌えることを神から与えられた賜物として用いる生き方を見出したことは、人生に得をしたと思えることだった。そのようにして、まことの命を見出すことができたのです。

ところで、今日のテキストの35節から37節に、「命」という言葉が4回も出てきます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

ここで「命」と訳された言葉は、今まで語ってきたことですでに気づかれたと思いますが、生物学的な、地上の命を指しているのではありません。そうだとすれば、大切なものを手に入れても、死んでしまったら元も子もないではないか。その程度の話になってしまいます。

わたしたちは、大きなものを手に入れようとするあまり、本当に大切なものを忘れてしまうことがあります。どんなに長生きしても、全世界を手に入れたと思えるほどの栄光を手に入れたとしても、久米小百合さんが証言したように、神と出会って生き方が変わらなければ、ほんとうの命を見出したことにはならないのです。

37節に「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とあります。先週の礼拝で、贖いという言葉について、経済用語だという話をしました。贖いとは、人手に渡った土地や財産を買い戻すという意味の言葉なのです。わたしは、もう30年以上昔になりますが、小さな会社を経営していたときがありました。運転資金に四苦八苦しました。銀行融資の枠がいっぱいになって借り入れができない。そんなとき、中小企業では手形割引ということをします。商売をしていると、現金や小切手ではなく、手形で受け取るということがしばしばあります。支払い期日が3カ月先の手形を受け取ったときにどうするか。3カ月間金庫で保管する余裕のないとき、取引銀行に手形を渡して、たとえば額面100万円であれば、金利分を差し引いた95万円を現金化して、それを運転資金とします。銀行は5万円が利益となります。

ところがあるとき、銀行に預けていた手形が不渡りとなったことがありました。その会社は倒産してしまい、回収できませんでした。そのとき銀行から言われたことが、「この手形を買い戻してくれ」でした。銀行としては不良債権となっているので、100万円返してもらわないと困るのです。簡単には返せないのに、何度も「買い戻せ」と言われました。そのとき、聖書の「贖う」という言葉が立体化しました。

「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とあります。イエス様はご自分の命という「代価」をもって、贖ってくださったのです。代価もまた経済用語で、交換という意味です。コンビニで100円の商品を買うときに、わたしたちは100円を出して商品を買うのですが、経済の論理でいえば、100円という代価をもって、その商品と交換しているわけです。では、買った100円の商品が100円で交換できるかと言えば、そんなことはありません。100円でポテトチップを買っても、ポテトチップで100円を買うことはできないというCMがそうです。ポテトチップは、100円を買い戻す代価とはなり得ない。交換できないのです。

まして、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と言っているのです。わたしたちの命と交換できるものは何もない。どれだけお金を払ったとしても、たとえ全世界をもってしても、交換できるものではないということが、ここで語られています。それほどの大きな値打ちをわたしたちは持っています。それだけの値打ちを見出しているか。それほどに価値あるものとして生きているかどうかということを問わなければなりません。

そのように言うと、自己肯定感を持って生きることの勧めのように聞こえます。37節だけを切り取れば、そういう説教の展開も可能です。今の時代に歓迎される説教となり得るでしょうが、このテキストはそういうことを言っているのではありません。

今日のテキストは、子どものための説教の続きとして選びました。34節でイエス様が、群衆と弟子たちに語った「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と告げていることと、35節以下は密接な関わりがあるのです。では、34節で語られているのは何かといえば、自己肯定ではなく自己否定です。「自分を捨てよ」と言われているのです。それは「全世界を手に入れよう」とする、すなわち自分の中に目標を定めるような生き方の否定です。そうでなければ、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」でなければ、わたしに従うことはできないからです。そのような在り方をしなければ、救いは与えられないのだということが、35節に語られているのです。

では34節の「自分の十字架」とは何か、35節以下で語られる「命」とは何か、これはどれだけ丁寧に語っても語り尽くせないものがあります。そこに今日のテキストの難しさがあります。その難しいところを、精一杯分かりやすく語ってきたつもりなのですが、イエス様はそんなに分かりやすい話をされてはいないのです。むしろ、分かりやすく話して、分かったつもりにさせてしまうことに落とし穴がある。

実際にペトロは分かったつもりでいたのです。イエス様がメシアであることは分かり、「あなたは、メシアです」と正しい告白をしました。しかし、十字架に架かって死なれるメシアだとは、三日の後に復活されるメシアだとは思っていなかった。だから32節で、受難予告をしたイエス様をいさめ始めたのです。でもそれは、「サタン、引き下がれ」と言われるほど間違ったことでした。結局ペトロは分かっていなかったのです。

ペトロはメシアであるイエス様についていくことで、全世界を手に入れたいという野望がありました。そんなペトロは、イエス様が捕らえられたとき、三度も「知らない」と否認します。ここでイエスの弟子だと認めてしまったら、自分も殺されてしまうかもしれない。そんなわけにはいかなかった。

ここでペトロが惜しんだ命は、あくまでも地上の命でした。それは、イエス様が「自分の命を失ったら、何の得があろうか」という命ではないのです。そこで言われる命は、永遠の命と言いかえることができる命です。でも、地上の命と永遠の命は、別物ではありません。だからこそ、一人一人の命は尊いのです。全世界すら代価とならない、誰も値がつけられないほどに尊い命です。その命の代価となり得るただ一つのことが、イエス様の十字架であり、十字架の先の復活です。わたしたちには永遠の命が約束されているのです。

だからこそ、わたしたちの命は、神様が御独り子を賜うほどに、尊いもの、価値あるものと言えるのです。