ルカによる福音書12章8~12節
説教 「恐れることはない」 田口博之牧師
わたしたちは聖書を神の言葉として聞いていますが、大切なことは、今の自分に語られている言葉として聞くということです。とは言っても、新約聖書であれば、2000年近く前に編集された歴史的な文書です。そこには当然、具体的な読み手がいました。
今日の箇所であれば、イエス様が4節で「友人であるあなたがたに言っておく」と言われたところの続きですので、具体的な聞き手は弟子たちです。けれども、今のように録音機器もなく、文字をすぐに書き起こせたわけではありません。福音書が成立したのは、イエス様の十字架の死、復活と昇天の出来事から40年以上経っています。それまでは、イエス様がこういうことを語られたことを、伝える人がいたのですが、直接の聞いた人が少なくなってしまった。そういう状況の中で、教会はイエス様が何をなされ何を言われたかを伝えていかねばならなくなりました。そんな要請もあって、福音書が編集され、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つが正典となりました。
ですから、今日のテキストの場合、イエス様が直接語られた弟子たちが第一の聴き手という言い方をするならば、ルカの共同体に連なる人々が第二の聴き手になります。今日の聖書の箇所で「聖霊」という言葉が二度使われています。でも「聖霊」が人々に降ったのは、聖霊降臨の出来事によりますから、イエス様の直接の弟子たちは、この時にはよくわからなかったと思います。後になって分かったのです。教会は聖霊によって生きていましたので、聖書に残された言葉で養われていきました。
さて、今日は「恐れてはならない」という説教題を付けました。さきほどのヨシュア記1章9節をテキストにした子ども説教は、「勇気」を主題に語られたましたが、主はヨシュアに「強く雄々しくあれ」、「うろたえてはならない。おののいてはならない」、「あなたの神、主は共にいる」と励ましました。今日のテキストには、「恐れてはならない」という言葉自体は出てきませんが、先週聞いた12章4節から5節を読むと、「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」と、繰り返し「恐れ」について語られています。今日のテキストは、段落は変わっていますが、内容としてはその続きです。
先週の説教で、「イエス様はここで、死の問題を語られている」と話しました。敢えて死全般について語りましたが、イエス様からすれば、自分を死に至らしめる具体的な対象を思い浮かべていたのです。すでに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と予告して、エルサレムへの旅を始められました。受難と共に復活も予告していたから、彼らのことを「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」と言われたのです。
弟子たちは、よく分かっていなかったでしょう。そこでイエス様は、エルサレムへと向かう道中で、本当に恐るべき者は誰であるのか、それは「地獄に投げ込む権威を持っている方」すなわち最後の審判をなさる神であると語られたのです。その方は、わたしたちの髪の毛も数えられているほどであるが、それを脅しではなく一羽の雀さえ慈しまれるお方なので恐れることはないのだと。今日のテキストもその流れの中での話です。
8節に「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」とあります。弟子たちは皆、ピンと来ずに聞いていたと思いますが、ペトロは後になって思い起こしたのではないでしょうか。
エルサレムでイエス様が捕らえられたとき、大祭司の庭までついて行ったペトロは、「お前もあの連中の仲間だ」と言われると、「いや、そうではない」、「あの人を知らない」と三度否認しました。「死んでも従う」と言いながら、恐れに支配されて、「わたしはイエスの仲間だ」と言い表すことはできなかったのです。
そんな弱かったペトロら弟子たちですが、聖霊を注がれ強くされました。使徒言行録4章では、議会で取り調べを受けながら、ひるむことなく主を宣べ伝えます。「今後、あの名によって話してはならない」と脅されながらも、「見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と大胆に語るのです。
ルカによる福音書が編まれたのは、それからおよそ30年後、紀元70年のローマ戦争で神殿が崩壊した後の時代です。ユダヤの中ではファリサ派が力を伸ばし、教会は揺り動かされました。加えて、ローマ帝国からの迫害も始まりました。ローマは宗教寛容政策を取っていましたが、それは宗教を私的なものと捉えていたからです。しかし、キリスト教信仰の特質は、信仰を公に言い表すことにあります。日本においてキリスト教はマイノリティーなので、教会の公共性と言われてもピンと来ないかもしれませんが、礼拝は公の礼拝と呼ばれています。信仰は私的なものではないことの証しです。コロナの状況が厳しい中にあって、公の礼拝に集まっているわたしたちは、イエスの仲間であることを公に言い表すことになるのです。
一昨日は広島原爆の日でしたが、日本キリスト教協議会(NCC)で女性初の議長になった鈴木伶子さんが逝去されました。日本YWCA理事長、平和を実現するキリスト者ネット事務局代表など、尊い働きをされた方でした。父上の鈴木正久牧師は、教団議長名として戦争責任告白を出されました。鈴木伶子さんをよく知る方からは、父の志をよく継いだ方だと言われています。
わたしは戦争を知らない世代です。教団は戦争の勝利を祈ることにおいて戦争に協力したと言われています。戦争に勝つためには、敵国の兵士を殺すことを是としたならば、その祈りは間違っています。しかし、わたしはその現場を見ていないません。戦時中の教会の礼拝は憲兵に見張られました。ひどい扱いを受けた教会員は少なくなかったのです。戦争に協力したと批判される牧師たち、名古屋教会は赤石牧師でしたが、は教会と教会員を守るために戦ったのです。
わたしたちが忘れてはならないことは、あのような悲惨が繰り返されるようなことがあってはならないということです。父の思いを継いだ鈴木玲子さんの思いもそこにあったのではないでしょうか。戦争が起こってからでは、抵抗しても止まらないのです。そのためにも教会は、そのような流れを押しとどめるために祈りを集中するべきですし、時に行動することも必要です。そのときに「恐れてはならない」のです。聖霊の助けを信じるのです。
10節に「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」という言葉が出てきます。解釈するのに難しい言葉です。キリスト教信仰の中心は罪の赦しにあります。主を否んだペトロが赦されました。しかし、ここには、「聖霊を冒瀆する者は赦されない」と書かれてあります。
牧師になって間もない頃、いや、まだ按手を受けていない頃でしたが、マルコによる福音書の連続公開説教を始めました。その時のテキストはマルコ3章20節から30節でしたが、その中の言葉から「永遠に赦されない罪がある」という説教題をつけたことがありました。それを週報の予告で出した時の午後に長老会があったのですが、波紋を呼んだことを覚えています。「永遠に赦されない罪がある」のか、「それはどんな罪なのか」と。題を間違えてしまったか、でも聖書はそう書いてあるけど、困ったなあと思いながら準備したことを覚えています。
マルコとルカでは文脈は異なりますが、赦される罪と赦されない罪があるから気を付けなさい。何もイエス様はそんな話をされているのではないのです。聖霊を冒涜するとは、聖霊が成される神の御業を否定するということです。イエス様がわたしたちのために成された救いの御業を否定しては、赦そうにも赦しようがないということです。ですから、過去にこんな罪を犯してしまったわたしは赦されないのか、そんな恐れに支配される必要はありません。そのまま値がつかない一羽の雀にさえ目を留められるイエス様は、わたしたちが滅びてしまうことを放っておかれないからです。そのために十字架で死なれ、よみがえられたのですから。
「恐れることはない」と言われたイエス様は、さらに大きな励ましを与えられています。「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない」と。わたしたちと共にいる聖霊が語らなければならない言葉を与えてくださる。裁きの座に立つときに、聖霊が必ず助けてくださり、弁明する言葉を与えてくださるという約束をくださっています。
幼稚園の裁判で証人尋問の席についたとき、この御言葉が支えになりました。毎週の説教もそうです。落ち着いてしているように見えるかもしれませんが、何年たっても命の御言葉をしっかり語れるのか、裁きの座に引き出されるような思いで日曜の朝を迎えています。でも、そのたびに自分は主に赦されてここに立たせていただいている。聖霊が助けてくださっていることを実感しています。
使徒言行録4章8節は、イエスの仲間であることを三度否定したペトロが、その後、議会で取り調べを受けたとき、「聖霊に満たされて」堂々と弁明したことを伝えています。ペトロの話を聞いた議員たちは、この者が「無学な普通の人であることを知って驚き」ました。神様は誇るものを持たない者を豊かに用いてくださいます。
教会は国家的な迫害や戦争によって、多くの危機を経験してきました。歴史の短い日本の教会もそうです。今もまたコロナ危機にありますが、教会は怯んでいません。信仰は一人一人に与えられていますが、私的なものではなく公のものです。公に言い表すことを、主は望まれています。そのために聖霊は励ましてくださっています。「恐れることはない」、「心配しなくていい」。主はいつも、わたしたちに語りかけ、力を与えてくださいます。