出エジプト記20章17節、 ルカによる福音書12章13~21節
「神の前に豊かな者」田口博之牧師

聖書を読んでいて、ごくたまに分かりやすい話と出会うことがあります。わたしたちの身近に起こり得る話、理屈として分かる話です。今日の聖書で語られていることも、分かる、分からないで言えば、分かりやすい部類に入るのではと思います。

12章1節にあるように、イエス様の周りには数えきれないほどの群衆が集まっていました。ではこの人々は、どんな思いで集まっていたのでしょうか。群衆の中の一人は、遺産相続でもめていました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と訴えています。おそらく、この人は長男ではなく、遺産が回ってこなかったのでしょう。相続に関する揉め事はわたしたちの周りでもしばしば見聞きすることです。その意味で、この人の訴えは分かりやすいものです。

この訴えに対して、イエス様は「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言いました。調べてみると、当時のラビがこうした争いごとの判断をするのは当然だったようです。この人はイエス様のことを「先生」、「ラビ」と呼んでいます。きっとこの人は、イエス様の言動を見聞きして、この人は弱い人、わたしのように不利益を被っている人の味方になってくれると思ったのでしょう。今風に言えば、人権派弁護士です。そんな思いの中でイエス様を頼ったのだと思います。

ですから、イエス様に救いを求めたのではありません。この人なら、何らかの解決を与えてくださる、そう期待して近づいたのです。それも、救いといえば救いだと言えるかもしれませんが、この世的な救いです。あくまでも、自分にとって都合のいい人、自分の役に立ってくれる人だと思って、イエス様に助けを求めたのです。この人は、イエス様を正しく理解しているわけではありませんでした。他の多くの群衆も、いや弟子たちでさえそうだったのです。

それでも、イエス様はこの人の訴えを退けたわけではありません。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言って、16節以下である金持ちの話をされます。この金持ちは畑が豊作で、収穫したものをどこにしまおうかと思いめぐらしたところ、今よりももっと大きな倉を建てそこにしまっておこうと思ったのです。これから先、何年も生きていくだけの蓄えをするために。

これも話の筋としてはよく分かるでしょう。この人は堅実です。この人のしたことはこの世的には賢いように思えます。ところが、これから先、何年も安心して生きていけると思った金持ちに対して、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたと言うのです。幸せに生きていけると思った矢先、まさに天国から地獄へ突き落すような厳しい言葉を投げかけたのです。

それでも、わたしたちは、そういうことも起こり得るということを、経験上知っています。きっちり生活設計を立てたとしても、明日の命は自分にも分からないということ。遺産相続に不満を持つ人の思いも、古今東西よくある話だなと思わされます。たとえ話の内容も、話しとしては分かります。けれども、イエス様が言われたことの意味を、正しく理解できるのかといえば、そう簡単ではないことも事実です。

この話に出てくる「愚かな金持ち」とは誰のことでしょうか。遺産を独り占めして兄弟に分配しない兄のことをたとえているのでしょうか。15節で「どんな貪欲にも注意しなさい」と言われます。この兄は貪欲です。遺産を独り占めしたところで、命が取り上げられてしまったら意味がないではないか。そう言われているように読めます。ところが、このたとえ話の主旨はそうではないのです。兄のことを貪欲だと言っているのかといえば、そうではありません。では、誰のことを言っているのでしょうか。

説教でたびたび言うことですが、イエス様の話を理解する上で、イエス様は誰に向って、この話をされているのかを知るということは大切です。これは、イエス様の話を理解する上でのコツだと言ってもよい。14節以下、「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』それから、イエスはたとえを話された。」と続きます。

強調した読み方をしたので気づかれたと思います。「イエスはその人に言われた」とあるように、直接には遺産相続の相談を持ちかけた人に語っています。貪欲なのは兄であるとしても、遺産というお金に縛られているこの人にある「貪欲の問題を見られたのです。お金のことを気にしながら生きている人は、会話の端々にお金の話が出てきます。信仰者であっても、イエス様よりも、お金が主になってしまうことがある。それは信仰の黄信号です。それと共に、イエス様は「一同に言われ」ました。ということは、貪欲をこの人だけの問題とは見ていないということです。それは誰もが、持ちうるものだということを知っているのです。

貪欲の問題は、どれだけ満ち足りてもなお満足することができなくなることにあります。十戒の第十の戒めは「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」です。十戒は貪欲への戒めにいり締めるのです。これは10番目の戒めというよりも、神は私たちの心の根底に「貪欲」の問題があることを見つめていることを示します。貪欲は手強いです。その手強さは、自分が持っていないものを欲しがるというのでなくて、自分は持っているのに更に欲しがるという手強さです。隣人のものを欲するとはそういうことです。

だからイエス様は「ある金持ち」の話をするのです。持たない人ではなく、持てる人を見て、貪欲の問題を告げるのです。この金持ちは、持っているもので安心し、財産によって安心して生きていけるものと錯覚します。でも、神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われるのです。

わたしたちは、財産によって命が保証されないことは、頭では分かっています。けれども、財産があるのとないのとでは、生きていく上での安心感とか、豊かに生きていくための充実感は異なります。その日、何を食べようか、一日を生きるのが精一杯であるよりも、幾分かでも蓄えがある方が気持ちは楽です。「愚かな金持ち」と言われていますが、この人の考え自体は愚かではありません。収穫した作物を野ざらしにしてダメにするよりも、不作の年に備えて備蓄を考えるのは賢いです。聖書研究祈祷会でヨセフ物語を読んでいますが、ヨセフはそういう政策を取って出世しました。では、なぜこの金持ちは愚かだと言われるのでしょう。それはひとえに、自分のことしか考えていない。蓄えた財産によって、自分が長生きができると考えたことにあります。そこにヨセフとの違いがあります。

そして19節では「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」と言っています。自分で自分に語りかけて慰めを得ている。問題は、そこに神様の言葉が入ってきていないことにあります。自分で満足する声しか聞こえず、神の声が聞こえていない、それが「愚か」だとイエス様は言われるのです。

トルストイの書いた「人にはどれほどの土地がいるか」という民話があります。こんな内容です。パフォームという農夫が1日のうちに歩いた土地を千ルーブルでもらえるという話を聞いて、これに挑戦します。彼は早朝陽が上ると同時に出発し、足早に歩いて広い土地をどんどん手に入れます。あの丘も、あの草原も、あの池も、あの川のほとりも、欲張って歩いているうちに日は西に傾き始めました。彼は慌ててスタート地点に帰ろうと走ります。休まず汗まみれになりながら走って、ようやくゴールにたどり着いた。待っていた人は、お見事!と歓声を上げます。ところがその声を聞きながら、彼は地に倒れ、息絶えてしまったのです。物語の終わりはこうです。「エナンは、土ほりを取り上げ、頭から足まで入るように、きっちり3アルシンだけパフォームのために墓穴を掘った。そして彼をそこに埋めた。」

何という皮肉でしょうか。パフォームはは命をかけて大きな土地を手に入れました。ここで生涯ゆったりと何年も暮らしていけると思ったことでしょう。でもその瞬間彼は死んだ。彼が手に入れたのは、自分の体を埋めるだけの等身大だった。何とも強烈な皮肉で、もの悲しい物語です。でもこの農夫の行為をわたしたちは笑い飛ばすことができるでしょうか。

イエス様のたとえ話の最後で、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と言われました。金持ちは、当然、自分のものだと思っていたものです。自分の命も自分のものだと思っていた。でも、それこそが「愚か」なのです。わたしたちが自分のものと考えているものは、神に与えられたものに過ぎません。命も財産も食べ物も、すべては神のものです。それを知らずに、すべてを自分のものと捉えていることが愚かであり、そこに貪欲の罪の根本があります。

わたしは先ほどのトルストイの話は、このイエス様のたとえ話から導かれたトルストイなりの解釈ではないかと考えます。イエス様は21節で「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ」と言われました。わたしたちに向って、イエス様は本当の豊かさとは何かを問いかけている。トルストイの話はその問いに答えたものになっています。

「神の前に豊かな者」とは、自分が神の恵みの中に生かされていることを知っている人です。わたしを生かす神の御前でどう生きるかを常に考えています。世の中の意見、人の意見に流されることはありません。そういう人は、自分が仕事をして得た収入も、自分のものではなく、神から与えられたものであることを知っています。すると。教会でする献金も、この1週間、今月1か月間も生かされて、今日も神の前に進み出ることができたことの感謝として、喜んでお返しすることができます。教会では、維持献金とか、礼拝献金という言い方をしますが、すべてが感謝献金と言っていいのです。「感謝献金」というのは、一週間、一月の感謝では言い表せないもの。誕生日を迎えたとか、結婚記念日を迎えたとか、感謝に思うことがあれば、そこでお献げしたらいい。

わたしは信徒としての教会生活した時期がありましたが、それは四国の松山でした。中部教区でもそうですが地方の教会の信徒はよく捧げます。教団年鑑には全国1700の教会の教状が出ています。わたしを教師として送り出した教会は、わたしが役員をしているときに伝道所から第二種教会を設立し、十数年前に土地を買って会堂建築しました。

最近の教団年鑑でその教会の統計を見ると、現住陪餐会員は15名です。少し減っていました。それでも経常収入は400万でした。単純計算して、現住陪餐会員が150名だとすれば、経常がどうであったかで分かると思います。わたしは会計役員もしていましたが、無理をしていると感じたことはありませんでした。感謝して献げています。ではその教会が特別なのかといえば、そんなことはない。仕事の都合で郡部の教会の祈祷会に出たことがありましたが、その教会をはじめ松山市内だとワンコイン感謝献金をしますが、郡部に行くとお札になるのです。畑をしている方は、自分の倉にしまいこむのではなく、喜んで収穫物を持ってきています。喜んで神様にお返しするのです。地方教会で伝道牧会することは大変であり、その労苦を思いつつ教区の互助献金を献げたいと思いますが、地方教会ならではの喜びと豊かさがあることを思い起こします。それは神の前の豊かさです。

わたしたちは明日、自分の命がどうなるかを知りません。それは、自分の命が自分の命ではないからです。でも、神はすべてをご存知です。わたしたちが知り得ない明日は、わたしたちの髪の毛も一本残らず数えられている神の御手の中にあります。コロナ感染で不安は尽きない、そんな思いの方もおられるでしょうが、わたしたちの命は神のものですから、何があったとしても、神の前から失われることはありません。なぜなら。神は愛してくださっているからです。わたしたちの命は、愛する独り子さえ惜しまずに与えられるほど尊く、神の御手の中にあります。そう信じて生きることが信仰です。そう信じることができれば、平安のうちに今日から明日に向かうことができるのです。