コリントの信徒への手紙14章20~40節
「秩序と平和の神」 田口博之牧師

皆さんとお会いするのは8月6日の平和聖日以来です。夏期休暇でお休みした時には、初めての方や久しぶりの方が多く集われ、特に角田啓子さんと挨拶できなかったことは残念でした。余命わずかという中で、みなさんと最後の挨拶をしようという思いで礼拝に出席されたことと思います。昨日、キリスト愛真高校の学校説明会がガリラヤホールで行われましたが、長男の共生さんと話をしましたが、お別れ会には記帳されない方を含めると400名位の方が集われたとお聞きしています。角田先生からの挨拶文は後でお読みしたいと思います。

また、私事ですが、休暇が明けてから、二つのウイルス性の疾患に罹患していることが明らかになり、先週の礼拝を失礼してしまったことをお詫びいたします。先週はLINE礼拝に参加しました。あのやり方が正解だとは全く思っていませんが、時と空間を超えて、主にあって一つとされているという恵みを知ることができたことは感謝でした。

火曜日迄自宅待機ということでしたが、あまり調子はよくなく金曜までは教会に来ても誰とも接触せずに過ごしました。そして教会に来てから知った方がほとんどだと思いますが、昨日、敬愛する小谷治郎さんが主の御もとへと召されました。8月5日から入院されましたが、充子さんから週報に記すことは控えて欲しいと言われていました。旅行の初日9日に充子さんから小谷の状況がよくないとの電話があり、先生、休暇中ですがよろしくお願いしますと言われ、どうお願いされたらよいのか悩んでいましたが、治郎さんは、牧師が旅行から戻り、体調が回復するのを待ってくださっていたのかと思うと感謝に堪えません。ご遺志により、葬儀は行いません。但し充子さんは皆さんに顔を見て欲しいという思いもおありです。礼拝後に執務室でお花をたむけていただければと思います。

さて、今日のテキストですが、コリントの信徒への手紙14章20節から40節を一機に読みました。本来は先週26節まで、今週は27節以下をテキストに説教する予定でした。内容豊かな箇所ですし、1週ずらして二度に分けてしようかとも考えたのですが、異言と預言のことは何度か話してきたことでもありますし、一気に読むことにしました。ですので、すべてを語ることはできません。いくつかをピックアップしてお話したいと思います。

では何をピックアップすべきなのか。皆さんも先ほどの聖書朗読を聞いて、心に残ったことや引っ掛かったことがいくつかあるのではと思います。その中でも、おそらくすべての人が、この箇所を読み、また朗読を聞いて、間違いなく、あれ?と思った言葉があったはずです。誰もが気になるであろう言葉がある。34節の「婦人たちは、教会では黙っていなさい」。です。これは一体どういうことなのか、パウロはおしゃべりな女性が嫌いなのでしょうか。おしゃべりであることを自覚される女性の中には、わたしはどうなのか、もっと黙ってなくてはならないのかと、不安になったり、あるいはカチンと来た人もいらっしゃるかもしれません。

わたしたちはこれまで、コリントの信徒への手紙一の12章から14章を読んで来ました。そこでの中心が何かといえば、異言問題です。その主題は今日のテキストでも続いています。それだけ、コリント教会にとって異言の問題はやっかいだったのです。ところが、わたしたちからすれば、異言についてどうだこうだと、いくら話を聞いても、なかなかピンと来ないのではないでしょうか。わたしたちにとって、異言問題は正直言って遠い話なのです。

しかし、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と言われると、話は違います。異言と違って、言葉として分かります。分かるだけに身近な問題として捉えることができます。えっ、どういうことなのかと考えてしまいます。「黙っていなさい」というだけではない。パウロは、「婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」とある。ちょっと言い過ぎではないかという気がします。「律法も言っているように」とありますが、律法のどこに書いてあるのかと、突っ込みたくもなるところです。

これはパウロの発言ではありますが、聖書の言葉です。一個人の見解ではなく、わたしたちは神の言葉としてこれを読むわけです。キリスト教への理解がないフェミニストがこれを取り上げれば、大バッシングが起こりそうです。キリスト教への理解があったとしても、看過できないと批判する人は少なくないのです。

よく政治家の問題発言が取り上げられた際に、批判された政治家は「言葉の一部を抜き取られた」と言って弁明することがあります。見苦しい言い訳をしているように思います。ところが、かばうつもりはありませんが、その弁明がよく理解できるときもあります。ここの場合もに、パウロは唐突に「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と言ったわけではないことを。理解する必要があります。

パウロは直前の33節で「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」と言っています。パウロがここで「婦人たち」と語り始めたときに、コリント教会の人たちは自然の流れとして受け止めたのでないか。教会の誰もが顔を思い浮かべる人、教会の秩序と平和を乱す、あまりにも騒がしい女性集団がコリントの教会の中にいたのではないか。パウロはあえて個人名を出さずに、「婦人たち」と言った。そのように考えてもよいのではないでしょうか。

そうは言っても、パウロは「聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは」と言っています。女性差別として受け取られても仕方がない発言です。昨日、小谷治郎さんの聖書を持ってきていただきました。たくさんの書き込みがされています。今日の箇所にもメモがありました。「パウロの女性観はアンビバレント」と書かれてあります。ここを読んだ小谷さんが、あれと思い、調べたのかもしれませんし、ご自分の思いを記して書いたのかもしれません。

では、どういう意味で書かれたのか、わたしも考えたのですが,アンビバレントとは、相反する感情を持つことで葛藤状態に陥るという心理学用語ですから女性蔑視ではありません。イエス様が男女の区別をされなかったことや、教会での女性の働きは誰よりも認めていた筈です。しかし、地中海世界での伝道、また教会を造り上げるという使命の中で、実際にイエス様が選ばれた12使徒のすべて男性であり、制度として教会を整えていく中では、家父長制を土台に発展させるしかなかった、パウロに女性の位置に対する葛藤があった。小谷さんに聞くわけにはいきませんが、そこをアンビバレントと表現したのではないかなと、思うのです。

ただ、わたし自身はもっとシンプルに考えてよいのではと思います。というのも、パウロは26節以降で教えているのは、「集会の秩序」についてです。主題はどうすれば、集会の秩序を保つことができるかです。

27節で「異言を語る者がいれば」とありますが、彼らに対して「教会では黙っている」ように勧めています。29節で「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」とあります。預言とは、わたしたちの教会で言えば「説教」のことですが、ここでも30節で「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」とあることです。パウロはここでも「黙りなさい」と言っています。

ですから、黙っているように言われているのは、女性だけではないのです。すると女性に関することだけ取り上げるのもおかしなことであることに気づきます。パウロは預言の賜物を重んじていましたが、それでも黙っていることを勧めてもいるのです。どうやら、コリントの教会のいちばんの問題は、余計な言葉が多かったことにあるようです。

黙っていなさいと言われることが教会であってよいのかと思います。しかし、名古屋教会でも、先月初めの長老会で、「礼拝前のおしゃべりが目立つ」という意見が出て、「少なくとも前奏が始まる頃には静かにしていなさい」と週報で注意喚起しました。それは礼拝に向かう姿勢、礼拝の秩序を整えるためです。もし、パウロが集会中にそれぞれが好き勝手に話すことも、自由な霊の導きだからと奨励したとすれば、わたしたちの礼拝も今とは違ったスタイルになっていたのではないでしょうか。

パウロは、14章の最後40節で「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と言っています。この言葉も、コリント教会だけでなく、すべての教会に向けて語る普遍的な教えとして語られていると言ってよいでしょう。なぜ、秩序を重んじるのかといえば、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」。

創世記1章、天地創造の初めのところを読みました。2節に「地は混沌であった」と書かれてあります。混沌という字を広辞苑で引くと、「天地開闢の初め、天地のまだ分かれなかった状態」という説明が最初に出てきます。混沌というのは分けられていない状態のことです。神は「光あれ」と言われて、闇と光とを分けられました。つまり神は、「分ける」という行為の中で、混沌の世に秩序を与えられたのです。闇さえも、 神さまのご支配、 秩序の中に組み込まれていくのです。生きていく中で、真っ暗闇の状態、八方ふさがりで前に進めない状況に置かれたとしか思えない時であっても、神さまは光を与えてくださる。最大かつ最強の闇である死さえも、復活の光によって神の秩序の中に組み込んでしまった。そこにこそ、まことの平和があります。

さて、今日のテキスト前半の部分にも、興味深い記述がいくつもありますが、後の時間は、23節から25節に集中したいと思います。23節に「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」とあります。ここで明らかなことは、コリントの信徒たちは、異言を優れた霊の賜物として重んじているけれど、教会の外の人からすれば、さっぱり分からない言葉が語られているだけで、「あなたがたは気が変な集団だと思われてしまうよ」とパウロが注意喚起していることです。

「教会に来て間もない人か信者でない人」とあります。「信者でない人」とは、洗礼は受けておられない人ということでしょう。「教会に来て間もない人」はどういう人でしょう。もしかすると、勢い洗礼は受けたけれども、まだ日が浅くてよくわかっていない人ということかもしれませんし、まさに礼拝に来始めたばかりの人ということかもしれません。いずれにせよ、その人たちから見れば、あなたたちはおかしい人にしか見えない。異言を誇り、競い合っているに違いないけれど、つまずきにしかならないんだよと言っているのです。

わたしたちの教会は、異言こそ語らないとしても、関係のない話がされているわけではありません。わたし自身、注意せねばならないと思っていることは、自分たちは当たり前だと思っていることが、初めて教会に来られた方や間もない人にとって、実に奇妙なこととしか思われかねないこともあるかもしれないということです。牧師が説教で語る言葉も、「教会に来て間もない人か信者でない人」にとっては、実に奇妙に思う言葉があるはずです。

わたしたちの礼拝行為もそうです。信者であれば礼拝の中で献金があるのは当たり前のことですが、「教会に来て間もない人か信者でない人」にとっては、びっくりするような時間かもしれません。聖餐式にしても、まさに言葉の抜き取りですが、牧師が「これはキリストの血です」という言葉を聞いた中学生などは、とんでもないところに来てしまったと思う子はいると思うのです。これは仕方のないことであって、学校にもあらかじめ説明しておいてくださいと伝えています。しかし、それでよしとするのではなく、教会でも配慮しすぎるに越したことはないだろうと思います。

24節では、順序が変わっていますが、ここでも「信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来た」時のことが語られています。パウロはいつも、教会に新しく来られた方のことを考えていたことが分かります。そしてここでは、異言ではなく、パウロが重んじた預言について語っています。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」とあります。

預言が大事といいながら、「彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、」と言われると、何か吊るし上げられて、人々に取り囲まれて糾弾されているように思うかもしれません。そうだとすれば、たまったものではありませんが、もちろん、そういうことではないのです。「皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され」た人は、その場に居づらくなるのではなく、「結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」と言うのです。

ここで二つのことが起こっています。一つは罪が明らかにされるということ、もう一つは、悔い改めへと導かれるということです。預言は異言と違って分かる言葉だからです。人は神の言葉によらなければ、自分に罪があること、的を外した生き方をしていることが分かりません。罪を知らなければ、何が正しいことかも分からないのです。そして、説教の言葉は、罪ある人を悔い改めへと導きます。

悔い改めは反省とは違います。その人の心の向きを変え、生き方を変える。罪ある人の闇が、神の赦しの光の中にさらされます。罪を裁く神から逃げるのではなく、神を礼拝する人になるのです。わたしたちの礼拝で、信者でない人から「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言われたとすれば、こんなに喜ばしいことはありません。その方の中で。説教の言葉が、出来事の言葉となっている。わたしたちの礼拝を通して、その人が新しくされていく。

パウロは皆が預言できるようになることを望んでいます。もし、先週のように、牧師が急に礼拝に出られなくなったときに、昔の説教の録音を聞くのではなく、信者の二人か三人が証しをする。それを聞いた人が、「まことに、神はあなたがたの内におられます」そのような告白が生まれる。そのような礼拝がささげられるとすれば、どんなに素晴らしいことでしょう。

31節はいい言葉だなと思います。「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」皆という言葉が繰り返し出てきます。教会生活の長い人、間もない人に限らず、皆が共に学んで、皆が共に励まされる。そして一人一人が皆、御言葉を語れる、主を証し出来るようになる。秩序と平和の神に喜んでいただける教会でありますように。