聖書 詩編84編1~5節 ルカによる福音書12章1~7節
説教 「一羽の雀さえ」田口博之牧師
新型コロナウイルス感染症の拡大やまず、1日の感染者が過去最大を更新していくなか、本当にやるのか?と言われていたオリンピックもいつのまにか中盤に入っています。無観客、バブル方式、メダルは自分でかける、人と人との分断が目立ち、おもてなしはどこ?と思いながら、オリンピックの放送だけはチェックするといった自己矛盾も抱えながら日々をすごしています。
オリンピックは「平和の祭典」と呼ばれます。古代オリンピックは、戦争と疫病を止めるという神託を受けて始まったと言われています。オリンピアに集まっている間は休戦したのです。その精神が近代オリンピックにも受け継がれました。オリンピックと政治は別と言われますが、戦争により開催できないこともありました。1940年の東京オリンピックがそうです。逆にベルリンオリンピックは政治利用されたと言われています。1980年のモスクワオリンピックの際、ソビエト連邦のアフガン侵攻により西側諸国がボイコットし、日本もこれに巻き込まれました。
その後、アマチュアリズムが崩壊し、世界最高峰のプロ選手が競い合うようになりました。プロでないと国家の威信をかけて戦う社会主義諸国に勝てなくなったのです。いつしか「オリンピックは参加することに意義がある」と言う人はなくなり、「平和の祭典」という言葉を聞くことはなくなりました。
開会式は、辞任退任問題もあり酷評されましたが、わたしは選手が入場するところだけは、地理の勉強のつもりで見ていました。あいうえお順での入場でしたので、次はどこの国が出てくるのかとクイズを解くように見ていたのです。小学生の頃は144の国と国旗をすべて言えましたが、ほとんど当たりませんでした。知らない国がたくさんありました。中には選手は一人か二人という国、あるいは地域から出ていたようです。
コロナの中でこれだけの国から集まってきたのかと驚きましたが、オリンピックでしか見ることのできない国から来た選手たちが競技する姿を見てみたいと思いました。しかし、報道はといえば、日本びいきの、ナショナリズムを高揚させるような解説ばかりです。コロナの困難な状況下で、世界から集まっているのですから、国を越えて選手もスタッフも一丸となってこの問題と向き合っている、そんな姿勢を打ち出すことは難しいのか。平和聖日にあたり、オリンピックはやめた方がといいながら、見てしまう自分自身の課題としてお話しました。
さて、ルカによる福音書を続けて読んでいますが、12章は、「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」という言葉で始まっています。密なる状態です。「とかくするうち」とは、11章の終わりにあるように、イエス様がファリサイ派や律法学者から敵意を抱かれたうちに、ということです。すでにイエス様は十字架で死ぬ覚悟を決めて、エルサレムに向っています。
そのように群衆が溢れかえっているなかで、イエス様はまず弟子たちに語っています。エルサエムに向かう意味をよく理解できていない弟子たちに向けて語るのです。現代で言えば、世に向っての言葉でなく、教会に向っての言葉ということです。そこにはどんな意味があるのでしょうか。
イエス様はまず「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われました。11章の流れからいって、ここにはイエス様の言葉尻をとらえようとするファリサイ派の人もいました。挑戦的な言葉です。「パン種」とは、イースト菌のことです。ごく少量でもパン生地に混ぜることで生地全体が発酵し、膨らんでパンができるのです。少しであっても全体を変えてしまうから、「注意しなさい」と言うのです。それは彼らの「偽善」です。教会はそういう偽善の罪に陥りやすい、ほんの小さなパン種のから膨らんでくるから注意しなさい、と言うのです。2節、3節もその展開と考えてもいいでしょう。11章39節で「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」とありました。偽善は律法主義から生まれることへの警告です。
イエス様さらに、「友人であるあなたがたに言っておく」と別の話を始めます。これも弟子たちに向かっての言葉ですが、弟子たちのことを「友」と呼んでいるのです。イエスが弟子たちを友と呼ぶのは、もう一箇所ヨハネ福音書15章15節。イエス様が弟子たちの足を洗われた後でなされた別れの説教で、「もはや、あなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と語られたところだけです。
このとき、弟子たちを友と呼ばれる前提となる言葉が、ヨハネ15章13節に出てきました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われたのです。十字架で命を捨てられる愛によって、わたしたちの友となってくださるのです。「いつくしみ深き、友なるイエスは 罪とが憂いを取り去りたもう」と歌われるごとくに。
そんなイエス様は、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」と言われました。
イエス様はここで、死の話をされるのです。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」とは、ご自身の殉教を念頭に置いての言葉ですが、わたしたちを死に陥れるものの全般と考えてもよいでしょう。一昨日、日本人の平均寿命がまた伸びて、女性は87.74歳で世界1位、男性は81.64歳で世界第2位、と厚生省が発表していました。ここには、平均寿命を越えて生きておられる方が何人かいます。死をそんなには遠くなく感じておられるでしょう。ここまで生かされたことへの感謝のほうが大きいかもしれません。それでも、もっと元気で生きていたいと思うでしょう。少しでも死を遠ざけたい。死の恐れといえば、死そのものよりも、死んだ後どうなってしまうか分からないことにあるのではないでしょうか。
聖書は人が死んだ後どうなるかは、詳しく語っていません。ただ、ここでイエス様は、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない」と語っています。死はこの世での交わりを引き裂くので、そこには悲しみがあります。でも、それ以上のものではないというのです。その一方で、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」の存在を語り、「この方を恐れなさい」と言われます。
このような言葉を聞くと、閻魔大王を想像される方がおられるかもしれません。閻魔大王は浄土に行くことのできない死者を収容する地獄を作った主(あるじ)と言われています。幼い頃「嘘をつくと地獄の閻魔様に舌を抜かれる」などと親から脅された方もおられるのではないでしょうか。もちろん、イエス様は、閻魔様の話をされているのではありません。「この方を恐れなさい」の「この方」とは神様のことです。「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言われるように、裁きの権威を授けられたご自身のことでもあります。
「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている」と言われると恐ろしく思います。でも、イエス様は恐怖をあおっているわけではありません。地獄に投げ込む権威はお持ちですが、罪を赦す権威もお持ちなのです。イエス様のものとされた人には、愛の裁きを執行されます。イエス様の愛の支配は、この地上だけのことではないのです。
誰も死を避けることはできませんが、イエス様は、死の先をも支配しておられるお方に目を向けるよう言われるのです。そのお方はわたしたちの生をも支配しておられます。わたしたちの髪の毛も、一本残らず数えておられるお方なのです。
次の言葉には、そのお方の愛と慈しみが語られています。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
1アサリオンとは、労働者の1日の日当であった1デナリオンの16分の1の価値のお金です。雀一羽にすれば、割り切れない金額です。マタイの並行記事では、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか」と言われています。二羽を一組にしてようやく1アサリオンの値が付けられるということです。四羽で2アサリオンになるはずです。でもここでは、「五羽の雀が二アサリオンで売られている」と言われています。イエス様は二羽で1アサリオンの値を付けることのできないような雀、この1匹はおまけでつけておこうかという雀を見つめているのです。「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と言われるのです。そして、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」のだから、「髪の毛までも一本残らず数えられている」のだから、悪いようにされるはずがないではないか、と言われているのです。
もう27,8年前、松山にいた頃のことですが、スウェーデン出身の歌手、レーナ・マリア・ヨハンソンさんのコンサートに行く機会がありました。彼女は生まれつき両腕がなく、左足が右足の半分の長さしかないという障害がありましたが、ソウルでのパラリンピックの水泳で何種目かで入賞した経験をお持ちの方でした。選手を引退されてから音楽大学に進みました。彼女が日本語で歌われた曲の中に「一羽の雀に」というゴスペルがありました。
この曲が、主に福音派と呼ばれる教会で使われる「新聖歌」に入りました。1節はこういう歌詞です。
心くじけて 思い悩み などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わがまことの友 一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん 一羽のすずめさえ 主は守り給う
今、歌詞を紹介しましたが、実は歌ってもよいかなと少し考えていました。すると昨日、オルガニストが練習に来られたので、神様がここで歌っていいと思われているのかもしれないと思い、準備だけしておいてくださいと楽譜をお渡ししました。難しい讃美歌なので準備ができていないのはわたしの方ですが、2節の歌詞で歌いたいと思います。
心静めて 御声聞けば 恐れは去りて 委ゆだぬるを得ん
ただ知らまほし 行ゆく手の道 一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん 一羽のすずめさえ 主は守り給う
心に平安を与える讃美歌です。レーナ・マリアさんは、「わたしは生まれつきの障がいがあり、不便を感じることはあるけれど、落ち込んだりはしない。神様は何か目的があって、わたしをこういう形につくられたと考えるようになった」と言われました。ここからは想像ですが、一生懸命泳ぐことで周りの人にも勇気を与えることを望もうとしたけれど、神様はわたしにすてきな声を与えてくださった。神様がわたしに歌わせて、皆さんを励ますよう計画されていると思い、ゴスペルシンガーとなったのではないでしょうか。誰にも顧みられない一羽の雀にさえも目を注いでおられる神様がこの私を支えてくださっている、だから声高らかにうたうと。
自分など生きていても仕方ないではないか、そんなことをふと考えてしまうことがあるかもしれません。でも、神様は、全く価値を見いだすことできない、一羽の雀に目を注がれるお方です。その神の御前に捨てられる人は誰もいません。髪の毛1本残らず数えておられる神のまなざしは、愛のまなざしです。一人一人を価値ある者として見ていてくださっているのです。